020:電車と匂い

「じゃ、じゃあ……お先に」

「……ふんっ」


 俺の挨拶に対し、八雲は頬を膨らませたまま顔を逸らす。

 だいぶ機嫌を損ねてしまったらしい。

 そもそも俺に大事な人がいるという事実自体を信じていないらしく、とにかくそれが気に入らないようだ。


(まあ、いいか)


 まだ一か月とそこいらの付き合いだが、その間も何度か機嫌を悪くしているところを見ている。

 大体そういう時は触らないのが吉だ。

 とりあえず放置して、自然と回復するのを待つ。


「ふぅ……」


 すっかり日が暮れた空を見上げながら、深く息を吐く。

 こんなに早く職場を出たのは久しぶりだ。

 清々しい気分を味わいながら、俺は駅までの道を歩く。


「あら、奇遇ですね、春幸君」


 ————今日はよく呼び止められる日だ。


 聞き覚えのある声に思わず振り返れば、そこには東条さんの姿があった。

 彼女は嬉しそうに顔を綻ばせながら、俺の下へと駆け寄ってくる。


「もう終わったんですか? バイト」

「ああ、ちょうと終わった所だ。そう言う東条さんは?」

「私はちょっとした用事がありまして……でもそれもちょうど終わったので、よろしければ一緒に帰りませんか?」


 用事、か。

 あまりにも都合よく鉢合わせしたが故に少しだけ別の可能性を疑ってしまったが――――あまり人を疑うというのもよくないだろう。

 俺は頭を振ってその考えを振り払い、東条さんに向き直った。

 どうせ帰る家は同じなのだ。ここで断る意味がない。


「分かった。一緒に帰ろう」

「ふふっ、ありがとうございます」


 そう言いながら、東条さんは突然俺の手に指を絡めてきた。

 ギョッとする俺の隣で、彼女はまたも嬉しそうに微笑む。


「こういう風にして歩くのが、ずっと憧れだったんです」


 そんな風に言われたら、俺としても断りにくい。

 結局のところ、俺は甘んじて彼女の手を受け入れた。


 まずい、手汗をかいてしまいそうだ。

 さすがにそんなことがバレたら、恥ずかしいにもほどがある。


「ふふっ……そんなに気にしなくても、私は汗くらいじゃ不快にはなりませんよ? むしろ春幸君の汗なら大歓迎です」

「ま、また顔に出てた?」

「ええ、バッチリと」


 手汗以上に恥ずかしい目に遭ったかもしれない。

 俺は赤くなった顔を隠すようにしながら、彼女の隣を歩く。


「あ、そうだ。朝陽に連絡しておかないと」

「日野さんに?」

「はい。できれば春幸君と二人で帰りたいと思って……車で先に帰ってほしいという連絡をしておかなければ、と。あ、今からでも春幸君が車で帰りたいのであれば、その旨を連絡しますけど」

「……いや、たった二駅程度の話だし、東条さんが一緒に帰りたいって言ってくれるならそれに付き合うよ」

「ありがとうございますっ、じゃあこのまま一緒に帰りましょう」


 手を繋いだまま、駅の中へと入って行く。

 何だかそれが普通の恋人の行いのように感じられて、途端に照れ臭くなった。

 たった数日間とは言え同じ屋根の下で過ごした時間は濃密で、数か月もの付き合いに感じてしまう。

 だからこういう初歩的なやり取りが、たまらなくむず痒い。


「電車に乗るのは久しぶりなので、少しドキドキしますね」


 東条さん曰く、幼い頃から日野さんを含めた使用人たちによる車での送迎が基本で、電車に乗る経験なんて学校での行事の時くらいだったらしい。

 少なくとも高校生になってからは一度も乗っていなかったようだ。


 電車に乗ることなど基本的には特別なことではないし、別に何かを意識するようなことはない。

 ただ、一つだけ懸念していることがある。


「うっ……!」


 電車に乗り込んだ途端、同時に多くの人間が雪崩れ込むようにして乗り込み、俺たちの体を圧迫する。

 いわゆる退勤ラッシュというやつだ。

 

「東条さんっ、俺の手を離さないで……!」

「は、はい!」


 周りの人に申し訳なく思いつつ、彼女の手を強く引いて自分の体の手前側に移動させる。

 そして壁際まで寄った東条さんに負担がかからないよう、俺は腕を突っ張り棒の代わりにして彼女の体を囲った。

 背中にかなりの圧力を感じるが、東条さんが潰れてしまうよりはよっぽどマシだろう。


「だ……大丈夫ですか? 春幸君」

「ああ、問題ないよ」


 などと口では言いつつ、後ろの人が想像以上に寄りかかってきているせいか、手首の辺りに痛みが生じ始めた。

 普段の生活では使わない筋肉を使っている感覚があり、無意識のまま手がプルプルと震えてしまう。


「……春幸君、肘を曲げてもいいですよ」

「え?」

「手のひらじゃなくて肘で支えるようにすれば、もう少し楽になると思いますから」


 東条さんの手が、そっと俺の腰へと回される。

 その過程で背中から脇腹の辺りを彼女の手がそっと撫でた瞬間、ぞくっとした快感が背筋を駆け抜け、思わず力が抜けた。


「あっ――――」


 とっさに肘をついて東条さんの体に圧力をかけてしまうような事態は免れたものの、結局彼女の提案するままの形になってしまった。


 ドクンと心臓が跳ねる。


 東条さんの頭が、俺の肘の間にあった。

 俺の方が身長が高いせいで自然と彼女は上目遣いになり、思わず抱きしめたくなってしまうほどの欲求が心の底から湧き上がる。


「春幸君は本当に優しい人ですね。自分もすごく辛いはずなのに、私の方ばかり気遣って……もっと、私の方に体重をかけてしまってもいいんですよ?」


 そんなことを言いながら、東条さんは俺の腰に回した手に少しだけ力を込める。

 俺と彼女の間にあった隙間は徐々に徐々に縮まり、胸板の下に柔らかい感触が触れた。


「ほら、もう少し」


 ベッドの上で今以上に密着したことだってあるのに、公共の場であるせいか、妙な背徳感を覚えてしまう。


 ああ、これは本当に駄目なやつだ。


 まるで光に虫が引き寄せられるかのように、俺はいつの間にか彼女の体に密着してしまっていた。

 東条さんの制服越しの柔らかさを体の前面で味わいながら、背丈の違いのせいで俺の顔は彼女の頭に埋まる。

 美しい銀髪が口周りに当たり、ちょっとくすぐったい。


「すんすん……ふふっ、さっき汗の話をしましたけど、やっぱり私は春幸君の汗好きですよ」


 そんなことを言いながら、東条さんは俺の胸元に顔を埋める。


「男らしくて、うっとりするくらいのいい匂いです」

「や……やめてくれ……」


 これ以上、俺の劣情を煽るのは――――。

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