015:朝ごはん
早朝。俺は食欲を誘ういい香りで目を覚ます。
体を起こせば、隣に東条さんの姿はない。
キッチンの方から音がするし、おそらくはそこにいるのだろう。
「あ、おはようございます、春幸君」
「……おはよう」
すでに学校指定のワイシャツとスカートに着替えている東条さんは、その上からエプロンをつけてお玉を持っていた。
どうやら朝食の準備をしてくれているらしい。
「もう少しでできますから、学校に行く準備をして待っていてください」
「ああ、分かった」
俺は自室として貸してもらっている部屋で制服に着替え、教科書などが詰まったスクールバッグを持ってリビングへと戻る。
学校がある日にこんな清々しい気持ちでいられるのは初めてだ。
今まで慢性的にあった倦怠感はどこかへ消え、何に対しても意欲的に動ける気がする。
「春幸君は納豆大丈夫ですか?」
「特に苦手意識とかはないよ」
「了解です。じゃあつけておきますね」
丁寧に朝食を並べたお盆を持ってきた東条さんは、それを俺の前に置いてくれた。
お味噌汁に、焼き鮭。炊き立ての白いご飯と今言っていた納豆。
まさに理想の朝食と言えるだろう。
「本当に料理が上手いんだな、東条さんは」
「食事は自分の体を作る大事な源ですからね。それはもうたくさん練習しました」
昨夜と同じように二人で手を合わせ、食事を始めた。
焼き鮭は皮がパリパリで、程よい塩味が白米を進ませる。
味噌汁は具は昨夜と同じ物を使っているものの、何度飲んでも飽きると思えない。
「朝からこんな朝食が食べられるなんて、本当に贅沢だな……」
「そんな風に言ってもらえるのは嬉しいですけど、そこまで特別なことはしてないですよ? むしろこれまではどんな朝食を食べていたんですか?」
「食べてなかった」
「え?」
「朝食を食べる時間があったら寝ていたかったから、一切食べてなかったよ」
食事に極力金をかけないようにしていた俺が、唯一削っても問題なしと判断したのが、朝食だった。
だからこうして朝食を食べているのも、実に一年以上ぶりである。
「……私、ちゃんと毎日作りますから」
「え?」
「ちゃんと、作りますから」
真っ直ぐで真剣な目を向けられ、俺は思わず硬直してしまう。
しかし彼女が俺を想ってくれていると気づけば、途端に胸の中に温かいものが溢れてきた。
「東条さんが俺のために作ってくれるなら、俺はそれを全部食べるよ。だけど無理をするようなら――――」
「無理だなんて……それは私を甘く見過ぎです。どれだけ手の込んだ料理を作ることになろうとも、それが春幸君のためならへっちゃらなんですから」
————それはある意味無理をしているのでは?
そう思ってしまう自分もいたが、本当にへでもなさそうな彼女の表情を見ると、毒気を抜かれてしまう。
「こうして大事に想ってくれているだけで、私は嬉しいです。春幸君は与えられているだけって感じているかもしれませんが、私からすればすでにたくさんのモノをもらっているんですよ?」
「そう、なのか?」
「はいっ。例えば今みたいに気遣ってくれたことや、一緒に寝てくれたこと、おかえりなさいを言ってくれたこと、一緒にご飯を作ってくれたこと、美味しかったと言ってくれたこと、怖い物が苦手な私を支えてくれたこと……全部全部、私の宝物です」
両手を組み合わせた東条さんは、それを抱きしめるかのように胸の前へと持っていく。
宝物を肌身離さず持っていようとするかのように、大事に、大事に。
だけどそれは、俺ももらっている物だ。
やはり受けた恩を返しているとは思えない。納得できない。
「春幸君は生きてここに立っているだけでも十分なんですっ。生きているだけでえらいんです」
東条さんはいつも大袈裟だ。
そんな彼女のことを、俺はもっと知りたい。
きっと何か、俺に対してこれほどまでに好意を抱いてくれるようになったきっかけのようなものがあるはずだ。
心の底から安心して彼女に気持ちを返せるように、俺の方にも何か――――そう、きっかけが欲しいのだ。
◇◆◇
「————っと、そろそろ家を出ないとですね」
「あ、もうそんな時間か」
型落ちしたスマホで時刻を確認してみれば、そこには七時半と表示されていた。
うちの学校の始業時間は八時二十分。
今から向かえば、余裕を持って到着するだろう。
俺たちは洗い物として残っていた最後の皿を片付け、それぞれスクールバッグを持つ。
俺のバッグの中には東条さんが作ってくれた弁当が入っており、昨日のクオリティから考えると、昼休みがとても楽しみだ。
「下で朝陽が待っているので、駐車場まで下りましょう」
「……今更だけど、俺も乗せてもらっていいのか?」
「もちろんですよ。一人だけ電車で登校させるようなことはしません」
————これを遠慮するというのもおかしな話であるため、お言葉に甘えておこう。
そうして駐車場まで下りれば、昨日と何一つ変化のない日野さんが車で待っていた。
「おはようございます、冬季様、稲森様」
「……おはようございます。すみません、俺まで乗せてもらうことになって」
「冬季様からすでに指示が出ていますので、問題ありません」
昨日と同じ車に乗せてもらい、俺たちは学校へ向けて出発した。
日野さんの運転する車は乗り心地抜群で、安心感がある。
移動している間、東条さんはかなりの上機嫌で頭を左右に揺らしていた。
その姿が可愛らしくて、思わず口角が上がってしまう。
「あ、そう言えば! 朝陽、今日春幸君がコンビニでバイトのシフトが入っているそうなので、そちらの送り迎えの手配をしていただけますか?」
「は⁉」
突然の東条さんの申し出に、俺は呆気に取られてしまう。
「承知いたしました。放課後までに手配しておきます」
「ま、待ってください!」
言い方は悪いかもしれないが、そんなものは俺には必要ない。
東条さんのように護衛が必要な立場でもなければ、有名人というわけでもないのだから。
「お言葉ですが、稲森様。あなたはすでに冬季様の大切な方。万が一にでも稲森様が危険な目に遭うようなことがあれば――――」
「朝陽、それ以上は辞めておきましょう」
「冬季様……」
日野さんの言葉を遮った東条さんは、悟ったような視線を俺へと向ける。
「特別扱いを受けたくないという気持ちは、私にも分かります。しかし……些か私自身が過保護気味に育てられたからか、どうしても周りにもそういう接し方をしてしまうようでして……申し訳ありません」
「い、いや、別に東条さんたちが気にするようなことじゃ……」
「登下校以外の送迎に関しましては、春幸君自身が必要とした時だけにしましょう。ただ心配であることには変わりないので、念のため朝陽の連絡先を登録しておいてもらっていいですか?」
それくらいならまったく問題はない。
要は俺のような人間が東条さんと同じような扱いを受けることに抵抗があるという話で、何だか自分が偉くなったかのような錯覚を覚えてしまいそうで恐ろしさを感じてしまう。
「……連絡先となると、電話番号を登録しておけばいいのか?」
「いえ、電話をかける手間が勿体ないので、アプリを入れさせていただきます」
「アプリ?」
「少し端末を借りてもいいですか?」
言われるがままに、スマホを渡す。
するとバッグから何かコードのようなものを取り出した彼女は、スマホに対してその先端を刺した。
「ここをこうして……はい、これで大丈夫です。お返ししますね」
「何を入れたんだ?」
「朝陽に直接連絡が行くようになっている、緊急呼び出しアプリです」
————何だかとんでもないものが入ってしまったぞ。
「アプリを起動して、画面中央に出る赤いボタンを押せば朝陽が普段からつけているインカムに音声が入るようになります。声を出せる状況なら要件を言えばいいですし、もし声が出せない状況であれば、自動的にGPSが起動しますので朝陽が現場に急行します」
これで誘拐されても大丈夫です! と笑顔で言う東条さんを前にして、俺は増々住んでいる世界の差を感じるのであった。
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