012:とんかつとお味噌汁

「私はメインのとんかつを準備するので、それまでお味噌汁やサラダの準備をお願いできますか?」

「分かった、それくらいなら大丈夫」


 キッチンにて衣や油の準備を始めた東条さんの隣で、俺は言われた食材を手に取ってまな板の前に立つ。

 とんかつには欠かせないキャベツの千切りと、わかめと豆腐の味噌汁を作るのが俺の仕事だ。

 これくらいの仕事量なら、簡単な自炊の経験がある俺にとって丁度いい労力と言える。


「今日は適当に材料を買ってきてしまったのでわかめと豆腐ですけど、春幸君はお味噌汁の具は何が好きですか?」

「基本的に何でも食べられるから、これが一番好きっていうのはないな……夏ならナス、冬なら大根みたいな、季節ごとの美味しい物だと嬉しいってくらいだ」

「旬に合わせる感じですね、なるほどなるほど」


 インプットしましたとでも言いたげに、東条さんは自分のこめかみを指で叩く。

 さすがは聞いただけで授業を覚える超人。きっと一度覚えたことは忘れないに違いない。


「逆に聞くけど、東条さんは何が好きなんだ?」

「私はシジミですね。作る時は砂抜きとかちょっと手間ですけど、やっぱり貝の旨味は一味違うというか」

「ああ、気持ちは分からないでもない」


 シジミの味噌汁は俺も好きだ。

 具材によって多少なりとも味に変化が起きる味噌汁だが、シジミの時に関しては分かりやすく違いが分かる。

 俺の舌が鈍感だからかもしれないが、故に特別感を感じるのだ。


「近いうちにシジミのお味噌汁も作りましょう。その時はついでに日本食セットも用意しましょうか」

「それは魅力的だな」

「ふふっ、小さい頃は母の母国のロシアで過ごしたので、その反動で日本食が好きになってしまいまして。その分たっくさん練習したので、絶対に満足させてみせますよ」


 昨日の肉うどんの時から思っていたことだが、多分東条さんは出汁の使い方が上手い。

 日本食に自身があるという発言に関しても、そう言った部分から来る自信なのだろう。


「こっちはキャベツを切るけど、そっちはどうだ?」

「油が温まったので、ここから揚げに入ります」


 パン粉をつけた分厚い豚肉を持ち上げた東条さんは、それを油の中へと落とす。

 じゅわという子気味良い音がして、豚肉が熱された油によって調理され始めた。


「揚げ物はやっぱり油の処理など厄介な要素が多いせいで気軽には作れませんが……たまにこうして張り切ってみると楽しいものですね」


 それに、隣で春幸君が手伝ってくれていますし————。


 彼女は火から目を離さないようにしながら、嬉しそうにつぶやいた。

 しみじみとそう告げられてしまうと、今までのやり取りとはまた違う照れが襲ってくる。


「これからも、その……時間がある時に手伝ってもらうことってできますか?」

「ああ、むしろこっちからも頼ませてほしい。それくらいの仕事はもらえないと、さっきも言った通り耐えられなくなってしまうから」

「……はいっ!」


 俺に頼むに当たりどこか緊張の面持ちを浮かべていた東条さんは、その表情をまるで花を咲かせたような笑みに変えた。

 やっぱり彼女は俺の知る誰よりも可愛らしい。

 こんな人が自分を好いてくれているなんて、俺の人生にあるはずのなかった幸せだ。

 まだ二日目にして、俺は東条さんとの今後の生活が楽しみになってしまっている。


◇◆◇

 俺たちの目の前の皿に乗っているのは、綺麗なきつね色をした分厚いとんかつ。

 その下には俺が千切りにしたキャベツが敷かれ、隣には炊き立ての白米が乗ったお茶碗と、わかめと豆腐の味噌汁が置かれていた。

 湯気を立てるそれらの料理は、どこからどう見ても美味しそうで、自然と涎を誘う。


「我ながら焦げることもなく上手くできたと思います。中身も赤くないですし、ばっちりですね」


 満足げに頷く東条さんと共に、手を合わせて「いただきます」と告げる。

 まずは味噌汁。

 最終的な味噌や出汁の調整は東条さんにやってもらったから、塩味も風味もバッチリだ。

 落ち着く白味噌の味が、体の中にしみ込んでくる。


 次に手を付けたのは、メインディッシュであるとんかつだ。

 ソースとからしをつけ、口に運ぶ。

 衣はサクッと、そして肉は簡単に嚙み切れてしまうほどに柔らかい。

 じわぁ、と旨味の詰まった油が、何か危ない成分でも入っているんじゃないかと思うほどに幸せを感じさせてくれる。


「ふふっ、人がお肉を食べると幸せを感じるのには、実はちゃんと理由があるらしいですよ?」

「え、そうなのか?」

「専門的な用語は避けますけど、お肉に含まれる一部の栄養素が頭の中で至福物質と呼ばれる物に変化して、それが幸福感を生み出す要因になっているそうです。ちゃんと科学的根拠があるのが面白いですよね」

「へぇ……ただ美味しいからって話じゃなかったんだな」

「もちろん美味しいことは前提だと思いますけどね」


 確かに、いくら肉自体にそういう成分があったとしても、そもそも味が美味しくないならプラスマイナスゼロだ。

 むしろマイナスである場合が多いだろう。


 あっという間に食べきってしまった俺たちは、再び手を合わせた後に空いた皿たちを流しへと持っていく。

 汚れた皿を東条さんと協力して洗っていると、ふと気になることが一つ思い浮かんだ。


「それにしても、東条さんってそんなに細いのに意外とよく食べるんだな」

「お仕事や勉強をした後って、やたらとお腹が空いてしまうんですよね……胸に脂肪がつく体質だったのがせめてもの救いでした」


 そんなことを言われてしまったせいで、一瞬————本当に一瞬だけ、彼女の胸元に視線が寄ってしまった。

 こういう視線に女性は敏感だと言うけれど、東条さんも例外ではなかったようで。

 俺の視線に気づいた彼女は、からかうような様子で微笑んだ。


「別に気にする必要性はないですよ。むしろ少しでも意識していただけて嬉しいです」

「い、いや……でも普通に失礼だと思うから……」

「よく知らない相手や友人程度の関係性だったらそれは失礼に当たると思いますが、好きな人から意識されている分には問題ないですし、むしろまったく意に介していない様子を見せられてしまうよりは安心しますよ」


 ————あくまで私は、という話ですけどね?


 そんな言葉で締め括った東条さんは、照れ臭そうに髪の先を指でいじり始めた。


「春幸君に限っては注意するまでもないとは思いますけど、他の女の子に変な視線を向けては駄目ですからね? その人に不快な思いをさせてしまうかもしれませんし、私もすごく嫉妬しますから」

「東条さんは……嫉妬深い方なのか?」

「はい、とっても」


 さっきから可愛らしいばかりだった東条さんの表情が、突然冷え切った笑顔へと変わる。

 その顔が決して冗談を言っていない顔だということは、すぐさま理解できた。

 こんな環境に置かれて他の女性を好きになるようなこともないが、せめてお試し期間中は東条さんを悲しませるようなことはしないようにしよう。

 多分後が怖い。


 皿洗いを終えた俺たちがリビングのソファー周りに戻った時、俺は彼女に伝えておかなければならないことを思い出した。


「そうだ。明日からまたコンビニのバイトのシフトが入ってるから、夜帰ってくるのは十九時から二十時の間になると思うんだけど……」

「むぅ……もう無理にバイトしなくてもいいんですよ?」

「お試し期間が終わったら辞めるかもしれないけど、それまでは一応辞めない方がいいなって」


 勢いで辞めてしまって、またバイトを探すっていうのも結構な労力だ。

 散々考えた結果、東条さんとの婚約が決まるまでは、少なくとも仕事を手放さない方がいいというのが結局のところの俺の判断である。


「————そうですね。慎重になる春幸君の気持ちも分かりますし、ここは私が折れることにしましょう」

「ありがとう。助かるよ」

「しかしながら、可能な限りシフトが入る日数を少なくしていただけませんか? 今までは週に五日以上は入っていましたよね?」


 土日に関してはフルで働かせてもらっていたし、東条さんの言う通り一週間の中のかなりの日数をバイトに割いていた。

 その日数を減らす程度なら問題はないだろう。

 東条さんとの婚約が成されなかった時は、またシフトを増やしてもらえばいいだけの話なのだから。


「分かった。明日店長に言って、バイトの日は最低ラインの三日にしてもらう」

「いくつも我儘言ってしまってすみません……」

「我儘だなんて思わないって」


 むしろ頼り切りになってしまっているのは、俺の方なのだから。

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