011:下の名前で
「んー! 今日も無事にお仕事終了です!」
ニュース番組たちがゴールデンタイムのバラエティ番組に変わり始めた頃、体を解しながら東条さんが自室から出てきた。
二時間以上はデスクワークをしていたはずなのに、その顔はまだどこか楽しそうで、疲れている様子はない。
自分で言っていた通り、仕事自体を楽しんでいるのだろう。
「お疲れ様、東条さん。これよかったら」
「え?」
俺は暇な時間を利用して買ってきた缶コーヒーを、東条さんに向けて差し出す。
ブラック派かそうでないかで迷ってしまったから、間を取って微糖を買ってきた。
本当はコーヒーでなくとも何か飲み物をこの場で淹れてあげられたらよかったんだけど、さすがに許可も取っていない他人のキッチンでそれはできない。
「私に、ですか?」
「ああ、微糖でよければだけど……」
東条さんは凄く恐る恐ると言った感じでコーヒーを受け取ると、それを両手で握りしめた。
「張り切って仕事を終わらせたら……稲森君がコーヒーを持って労ってくれる生活……幸せ過ぎませんか?」
「そ、そう言ってもらえて嬉しくはあるが……やっぱり大袈裟だと思うぞ」
「大袈裟なんかじゃありません! よく想像してみてください。自分の好きな人が、長い勉強の後や、激しい運動の後や、大変な仕事の後に自分の好きな飲み物を持って待ってくれている瞬間を」
頭の中で、言われた通りに想像してみる。
好きな人と呼べる人間が俺にはいなかったため、申し訳ないが東条さんで想像させてもらうことにすると————。
「————うん、幸せかもしれない」
「そうでしょうそうでしょう? それだけで疲れが吹き飛ぶってものですよ」
得意げに胸を張る東条さんの姿は、形容しがたい可愛らしさで。
大袈裟だ大袈裟だと言い続けていた俺は、いつの間にかそんな彼女によって納得させられていた。
「さて、では夕飯を作りますね。申し訳ないんですが、稲森君にはもう少し待ってもらって————」
「いや、できれば手伝いたいんだけど……駄目か?」
「そんな……稲森君は座っているだけでいいんですよ?」
「それだと、俺が辛いんだ。何もしないですべてを東条さんにしてもらうだけの生活なんて、多分耐えられない」
誰もが羨む生活。
そんなことは理解している。
だけどこれまで忙しくてんてこ舞いな生活を送っていた俺にとって、何もしなくていい時間というのは行き過ぎると苦しくなるということが分かってしまった。
退屈さの他に、自分は何もしていないという事実が罪悪感となって俺に圧し掛かってきていたんだと思う。
手伝う程度でその罪悪感を薄れさせようとしている時点で増々申し訳ないのだけれど、せめてそれくらいはさせてもらえないと頭がおかしくなってしまうかもしれない。
「頼む、東条さん」
「……そうですね、私は少し冷静さを欠いていたようです」
東条さんは酷く反省している様子で、顔を伏せた。
「稲森君のことを理解しているつもりになって、もしかしたら何も分かっていなかったのかもしれません。私が愛しく想うくらいに優しいあなたが、この環境を息苦しく思ってしまうことなんて予想できていたはずなのに……」
「そ、そこまで気に病む必要はないぞ?」
「いえ、ちゃんと反省すべき点は反省していかなければ、今後活かしていくことができません」
普段通りの表情に戻った東条さんは、一度大きく息を吐いて、そして頭を下げた。
「稲森君……これから夕食を作るので、手伝ってもらってもいいですか?」
「……ああ、喜んで」
不思議なやり取りに、俺たちは顔を合わせて笑ってしまう。
だけどこれで、彼女との生活はもう少し気持ち的にも楽になるはずだ。
「あ、でももう一つだけ……私の方からお願いしたいことがあるのですが、聞いてもらえないでしょうか?」
唐突な申し出に一瞬きょとんとしてしまったが、すぐに意識を帰還させる。
自分のお願いを聞いてもらったばかりなのだ。
俺にできる範囲のことなら、ここで聞くのが筋というものだろう。
「内容を聞いてもいいか?」
「えっと、その……あの」
何故か言い辛そうな東条さんの様子を見て、俺は疑問符を浮かべる。
そんなに難しい願いなのだろうか?
それだと対応しきれない可能性もあって、少し不安だ。
「————っ、春幸君って呼んでもいいですか⁉」
「……へ?」
「ず、ずっと好きな人を名前で呼ぶことに憧れがありまして……! 稲森君が不快に思わないのであれば、ぜひ呼ばせてもらえたら嬉しいんですけど……」
彼女の顔が赤くなっていくと同時に、声もか細くなっていく。
初日に見せつけてきた女性的余裕はどこへやら。
目の前にいたのは、恥ずかしがりやな普通の女の子だった。
「そんなことでよければ、全然。東条さんから呼ばれる分には、不快どころか嬉しいくらいだ」
「本当ですか⁉ じゃ、じゃあ……これから春幸君で」
東条さんは普段の美人な印象とは違う、可愛らしいにへらという笑みを浮かべる。
その凄まじい破壊力に、俺の心臓は強く高鳴った。
「どうかされました? 春幸君」
「い、いや……何でもない」
赤くなった顔を隠すために、横を向く。
そんな俺の顔を前からのぞき込もうとする東条さんから逃げるため、再び別の方向を向いた。
さらに彼女がそれを追ってくるため、何度も何度も回転する羽目になる。
最終的に二人して目を回してしまい、それがまたおかしくて笑った。
「ふふっ、照れた春幸君も可愛いです」
「か、勘弁してくれ……東条さん。これでも女子から下の名前で呼ばれた経験なんて小学校の頃しかないんだから」
「ほうほう。じゃあ今の学校であなたのことを下の名前で呼ぶのは、私しかいない感じですか?」
「男友達を除けばそうなるけど……」
パッと笑顔を花開かせた東条さんは、小躍りしそうなテンションを抑え込むかのように、頬に手を添えた。
「ふふっ、ふふふ! 最高です……! こんなに嬉しい日はそうそうありません! 私は本当に幸せ者ですね!」
また大袈裟だと言ってしまいそうになり、思わず口を噤む。
俺が東条さんのことを名前で呼ぶことを許されたとして、それが男の中で俺一人だったら、それは何にも代えられぬ優越感に繋がるだろう。
もちろん俺と東条さんの立場は大きく違うため、前提からおかしい部分は存在するが、それでも限りなく近い想像はできているはずだ。
「私だけ下の名前呼びっていうのも少し変なので、よろしければ春幸君も私のことを下の名前で呼んでください。そのまま冬季でも、冬ちゃんでも、ふゆっちでも、春幸君に呼ばれるなら大歓迎です」
「ま、まだそれはハードルが高いな」
「そうですか……残念です」
冗談だと分かるように、東条さんは露骨なまでに残念がって見せる。
端々から喜びのオーラが見え隠れしてしまっているのが、また可愛らしい。
「————そろそろ夕食作りに移りましょうか。春幸君と話す時間は楽しいですが、さすがにこれ以上遅くなってしまうと食事の時間が遅くなりすぎてしまって、太りやすくなってしまいます」
「分かった。そう言えば、何を作る予定だったんだ?」
「ふっふっふ、手伝っていただけるということなので、先にお見せしましょうか」
東条さんは最新っぽい冷蔵庫まで近づくと、中からピンク色の何かを二つ取り出した。
「……なるほど、
「はい! 有名な牧場の三元豚を買ってきました! これで肉厚のとんかつを作ります!」
鮮やかな赤みと、綺麗な白い油の部分。
その二つの割合のバランスが素晴らしい肉厚の豚肉は、調理前の姿でさえ食欲をそそる。
「さあ、頑張って揚げていきましょう」
東条さんから予備のエプロンを受け取った俺は、そのままキッチンへと向かった。
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