010:あ、すみません! うちの人が!

「ただいま戻りました! 稲森君!」

「お、おかえりなさい……」


 日野さんが迎えに行ってから一、二時間ほどで、東条さんは帰ってきた。

 何となく玄関まで出迎えに行った俺の顔を見て、彼女はとびっきりの笑顔を浮かべる。


「帰宅すると稲森君が出迎えてくれる環境……幸せ過ぎますっ。こんなに幸福でいいのでしょうか! 私!」

「それは大袈裟だと思うけど……」

「まったくもって大袈裟なんかじゃないです! むしろ言葉が足りないくらいなんですよ?」


 彼女はえらく興奮した様子で、玄関を上がる。

 リビングのソファーに持っていた学生鞄を放り投げ、着ていたブレザーを脱いだ。


「あ、稲森君用に今日の授業の内容はすべてノートにまとめておきました。普段はあまりノートは取らないんですけど、今日だけは特別です」

「ありがとう……って、普段はノートを取ってないのか?」

「授業は基本的に一度聞いて全部覚えるようにしています。定期的にノートを提出しないといけない授業に関しては最低限書いてますけどね。手の方はいわゆる"内職"というものに対して使ってます。お父様から任せていただいたプロジェクトのアイディア出しとか、色々済ませられるものが多くて」


 それはきっと一般的な高校生の思う"内職"とはかけ離れている気がする。

 そもそも手の動きと考えていることをバラバラにこなすという話自体が、俺には理解できない。

 口に出すと傷つけてしまうかもしれないため言えないが、もしかすると脳の造りからすでに違う存在な可能性すらある。


「一応ボイスレコーダーにて座学関係の授業内容だけ録音してありますけど、聞きますか?」

「ぜ、ぜひ」


 鞄の中からボイスレコーダーらしき小型の機械を取り出した東条さんは、それを俺に渡す。

 何もかも至れり尽くせりで、きっとこの贅沢な感覚には一生慣れることはないだろうと思った。


「まあ、私と婚約さえしていただければ、もう勉強する必要もないんですが」


 チラチラとアピールするような視線を向けてくる東条さんを前にして、俺は思わず目を逸らした。

 いや、うん。

 まだそこまでの考え無しにはなれないということで。


「……あ」


 ここで俺は、何よりも優先的に伝えなければならないことを思い出す。


「お弁当、ありがとう。すごく美味しかった」

「ほ————本当ですかっ⁉」

「えっ? あ、ああ……本当に美味しかった」


 東条さんは、俺の目の前であの清楚な完璧美少女のイメージとはかけ離れた豪快なガッツポーズを掲げて見せた。

 

「よかったです……安心しました。これまであんまり人に食べてもらったことがなかったので、喜んでもらえて嬉しいです」

「そうなのか? 味見とか、日野さんにしてもらったりしてたんじゃ」

「朝陽は私の作った物でも食べてはくれませんから、今のところはないですね。本当は食べてもらいたいんですけど、まあ、プロ意識が高いことはいいことなのでそれを否定するわけでもないのですが……いつか、完全なプライベートな時間ができたら、その時は食べてもらうつもりです」


 日野さんとは今日会ったばかりで、ほとんど何も知らないが、彼女が仕事の中身以上に東条さんのことを大事に想っているというのは伝わってきた。

 きっとあの人も食べたいとは思っているはず。

 第三者から言うのは憚られるが、いつか東条さんの望みが叶ってほしいと思う。


「それにしても、あの鉄仮面と恐れられた朝陽を照れさせるとは、さすが稲森君です。やりますね」

「鉄仮面?」

「私以外の前では滅多に表情を崩さないんですよ、彼女は。でも私を迎えに来た時に様子がおかしかったので、気になって詳細を聞いてみたら……なんと稲森君に優しいと言われてどうしたらいいか分からなくなってしまったと言うではありませんか。あんなに照れた顔をした朝陽を見たのは久しぶりです」


 鉄仮面か。言えて妙というか、なんというか。

 ただそれは本当に上辺だけの話であり、彼女に感情がないとかそういう話ではない。

 むしろ東条さん想いの優しい人というのが、やはり俺が抱いた印象である。


「……さて。申し訳ないのですが、十九時くらいまでお時間をいただいてもよろしいでしょうか? 今からお仕事の時間でして」


 東条さんはチラリと自室の方に視線を送る。


「俺はまったく問題ないけど、東条さんはこんなスケジュールで大丈夫なのか……?」

「何がです?」

「休みたいとか、思わないのかなって」

「うーん……思わない、ですね。やりたくてやっていることですし」


 あっけらかんと言ってみせる東条さんを前にして、俺は気圧されてしまった。

 彼女の言葉に嘘がなさすぎて、もはやそれが恐ろしくすらある。


「だって、私が働けば働くほど稲森君に苦労させないで済むかもしれないんですよ? そんなの、やらないなんて選択肢が出てきますかね? 普通」


 うん、普通は出てくると思う。


「もちろん働くこと自体が楽しいっていうのもあります。最近では他企業も含め優秀な人材をスカウトする仕事をお父様から任されたのですが、これがまた一癖二癖ある人が多くて、人間観察的にも結構楽しいんですよ」

「……すごいな。そんな仕事、よっぽど信頼されてないと任されないんじゃないか?」

「まあ、そうでしょうね。お父様とお母様は私の"目"を信頼してくれているそうで、よくこの目を使う仕事を任せてくれます」


 そう言いながら、東条さんは俺と目を合わせた。

 彼女の月のような目の色は吸い込まれそうなほどに綺麗で、視線が逸らせなくなる。


「ふふっ、稲森君も私がこの目で選んだ人だからこそ、お父様もお母様も何も言ってこないんですよ」


 東条さんは得意げにそう告げると、自室の扉へと歩み寄る。


「ではそろそろ働いてきますね。今日はリモート会議なのでもしかしたら話し声が聞こえてしまうかもしれませんが……その時は申し訳ありません」

「いや、そんなの気にしないでくれ。むしろ俺の方が静かにしておくから」

「むっ、会議中に男性の声が入ってしまって「あ、すみません! うちの人の声が入ってしまいました!」って謝ることに憧れてたんですが……」


 そんなものに憧れないでほしい。


「夕食は二十時頃になると思います。今日は少し豪勢に作る予定なので、楽しみにしていてくださいね?」

「……分かった」


 満足げに頷いた東条さんは、改めて自室へと入って行く。

 俺はソファーに深く腰掛けると、ボーっと何もついていないテレビ画面を眺め始めた。

 早くも東条さんと暮らす上での弊害が俺を苦しめる。


(……暇だ)


 テレビを見るという文化すらない俺には、この時間は少し辛い。

 とりあえずリモコンを使って画面をつけてみるが、夕方のニュース番組ばかりが並ぶこの時間帯はあまりにも真面目過ぎる。

 芸能人の不倫だとか、新しくできたテーマパークが大繁盛だとか、動物園に新しくパンダが来ただとか。

 画面越しにニュースキャスターが読んでいる台本に書かれていることは、どれもこれも他人事で。

 俺の退屈を紛らわせてくれるものにはなり得ない。


(勉強……そうだ、せっかくノートをもらったんだから、写さないと)


 東条さんは勉強する必要なんてないと言うが、その言葉に流されてはいけない。

 この一か月で愛想をつかされる可能性だってあるのだから、彼女がいなくなっても生活していけるだけの最低限の保険はかけておくべきだ。

 そうなると、今まで通りバイトを休むことはできない。

 交通誘導のバイトはクビになってしまったからもう働くことはできないが、学校終わりから夕方にかけてのコンビニバイトはまだシフトが入っている。


 次のシフトは————。


「明日、か」


 スマホのカレンダーアプリに入れていた予定を見た後、俺はそれをポケットへとしまった。

 

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