009:卵焼き
自分の家に戻り、制服や数少ない普段着を日野さんが準備してくれたキャリーバッグに詰めた俺は、そのまま彼女の車で東条さんの家まで戻った。
日野さんは東条さんが帰ってくるまでの間、リビングにて待機するらしい。
その際、3LDKのうちの一部屋に案内された俺は、驚愕の事実を知ることになる。
「こちら、稲森様のために用意された部屋になります」
「……え?」
部屋の中にあったものは、大きなクローゼットと、簡易的な机と椅子。
およそ五畳ほどの広さの部屋にこの程度の物しか存在しない光景は、何とも言えない独房感を生み出していた。
「元々来客用の部屋だったのですが、冬季様は滅多に他人を自宅に上げない方ですので、実質使われない部屋となっておりました。故にご自由にお使いになってください————とのことです」
「至れり尽くせりですね……」
「家具等必要な物があればお気軽にお伝えください。私の方で取り寄せておきますので」
では————。
そう一言残し、日野さんは部屋をあとにした。
残された俺は、たった今から自室となった部屋の中を見渡す。
埃一つない綺麗な室内は、今まで俺が住んでいた1Kのアパートよりも広く感じられた。
「……とりあえず服を仕舞うか」
クローゼットを開き、中に設置されていた棚にTシャツや下着を仕舞う。
正直この部屋自体に不釣り合いというか、どれもボロボロ過ぎて申し訳なくなってしまった。
それが終わったタイミングで、丁度十三時くらい。
自分が空腹であることに気づいた俺は、リビングへと戻ることにした。
そう言えば、日野さんは昼食を食べるのだろうか?
俺は東条さんが作ってくれた弁当があるけれど、少なくともテーブルの上には彼女の分は置いてなかったはず。
そんなことを気にしながらリビングの扉を開けると、そこには何か本を読んでいる日野さんの姿があった。
「あ……日野さん」
「どうかされましたか?」
思わず声をかけてしまうと、彼女は本に栞を挟んで顔を上げる。
「その、昼食はどうするのかと思いまして……」
「そういうことでしたら、冬季様がお作りになられた弁当を食べればよいかと」
「あ、いえ……日野さんの分はどうするのかって話でして」
日野さんは俺が何を言っているのか分からないといった表情を浮かべ、しばらく沈黙した。
なんとも言えない気まずい時間が流れ出す。
やがて再起動した日野さんは、咳払いを一つ挟んだ後に口を開いた。
「勤務中は水以外の物を飲まないようにしていますので、お気になさらず」
「え、それで大丈夫なんですか?」
「動けるように訓練を積みましたので」
この人もしかして、ただの秘書じゃないのか?
「そう言えば、伝え忘れていましたね。私の詳しい仕事は、冬季様の秘書兼ボディガードです。いざと言う時に普段と違うことをして体調に変化を生まないよう、食事は毎日決まった物を決まった時間に食べております」
「ボディガードって……じゃあ学校に行っている間とか、本当なら今だって東条さんの側にいないといけないんじゃ————」
「本来ならそうするべきですが、冬季様は校内にて自分が特別扱いされることを良しとしません。故に送り迎えの時間が来るまで、私は待機していることが多いのです」
東条さんとの関係性はまだまだ浅い方だが、何となく"らしい"なって思ってしまう。
校内ですらボディガードをつけたまま歩いているようなことがあれば、それがいらない反感を買ってしまうということを理解しているのだ。
「もちろん私がいない時に万が一の場合が起きたとしても、すぐさま問題を解決できるよう対策はしてあります。ご心配なく」
それっきり日野さんは、手元の本の世界へと戻ってしまう。
俺はしばし彼女とテーブルの上の弁当を見比べた後、弁当の方を持って日野さんの隣に座った。
「じゃあ、失礼しますね」
「はい、お気になさらず」
気にするなと言われてもそれなりに気になってしまうのが人の性だと思いつつ、わざわざ部屋に戻って食べるというのも何だか変だし、結局はリビングで食べることにした。
「おお……」
弁当箱を開けてみると、そこには綺麗に揃えられたおかずたちと、敷き詰められた白米があった。
おかずは野菜とメインのバランスがちょうどよく、白米もべちゃっともしていないし、硬くもない本当にちょうどいい炊き具合。
どこからどう見ても美味しそうだ。
手前のおかず————卵焼きに手を付ける。
「……うまっ」
一口目を咀嚼した瞬間には、もうそんな声が漏れていた。
優しい卵の甘味が口に広がり、だしの風味が鼻に抜ける。
肉うどんの時もそうだったけど、すごく俺好みな味付けというか、もはやドンピシャというか。
卵焼きにもしょっぱい路線と甘い路線があると思うが、東条さんのは甘い路線だ。
俺はこっちの方が好きなため、有無を言わさず大歓迎である。
まさか俺の好みまで調べ抜いているというわけではないはず————いや、ないと思いたいが、少なくとも味付けが合うというのは俺にとっては嬉しいことである。
卵焼き以外にも、アスパラの肉巻きやしっかりと味のしみ込んだ筑前煮、どれもこれも絶品だった。
そして調理する必要のない野菜に関しても、まあミニトマトなどはともかくとして、ブロッコリーなどが食べやすいサイズになっているこの細かい優しさがありがたい。
「————美味しい、ですか?」
俺が夢中になって東条さんからもらった弁当を食べていると、隣からそんな声が投げかけられた。
顔を上げると、真剣な目をした日野さんと目が合う。
「あ……は、はい。美味しいです」
「そうですか……それはよかったです」
日野さんは車の中で浮かべたものよりもさらに緩んだ笑みを浮かべ、再び視線を本へと戻す。
一瞬彼女も弁当が食べたいのかと思ってしまったが、きっとそうではなく、もしかすると東条さんの作った料理が褒められたことが嬉しかったのかもしれない。
仕事という以前に、日野さんは東条さんのことを大事に思っているのだろう。
「————すみません、日野さん」
「何故謝るのですか?」
「俺、日野さんのこと少し怖い人なんじゃないかと思ってて」
「怖い人、ですか」
「でも、誤解してたみたいです。日野さんは、東条さん想いの優しい人だったんですね」
一度でも見かけで人を判断してしまった自分が恥ずかしい。
今の謝罪は、そんな自分への戒めも込めたものだった。
「そ、その……あ、ありがとうございます……?」
彼女は何を言われているのか分からないといった様子で、動揺を露わにする。
唐突で意味不明だっただろうか?
だとしたらまた悪いことをしてしまった。
「あ……そろそろ冬季様の迎えの時間なので」
本を閉じ、日野さんはいそいそと部屋を出て行ってしまう。
スマホを確認してみれば、まだ授業中だと思われる時刻が表示されていた。
やはり何か日野さんが気まずくなるようなことを言ってしまったらしい。
少なくとも一か月は東条さんと一緒にいる予定なのに、そんな彼女と近しい人から変な印象を抱かれたら、必要のない心配事が一つ増えてしまう。
「……後でもう一度謝ろう」
一旦意識を切り替えた俺は、空になった弁当箱を持ってキッチンの流しへと向かうのだった。
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