008:必要な存在

 目に刺さるような眩しさを感じ、俺は目を覚ます。

 見慣れない部屋の天井。

 そこで俺は自分が東条さんの家に泊まったことを思い出した。


「ん……うぅ」


 体を起こし、大きく伸びをする。

 恐ろしく体の調子がいい。

 昨日までの疲れが全て取れてしまったかのような清々しさを感じる。

 

「東条さん……?」


 周囲を見渡して声をかけるが、部屋の中に彼女の姿は見当たらなかった。

 何となく拍子抜けしてしまった俺は、頭を掻きながら枕元のスマホを手に取る。

 ずいぶん前の安い機種を買ってしまったせいでかなりガタが来てしまっているが、最低限の連絡や時間を見る程度なら十分だ。

 

 黒い画面に光が灯り、現在時刻が表示される。

 現在時刻は————十時半。

 平日の十時半・・・・・・である。


「やばい……!」


 今日は学校が休み、なんて奇跡が起きるわけもなく。

 間違いなく通常授業の日であるし、行かなければ欠席になってしまう。

 というか、東条さんは起こしてくれなかったのか。

 いやまあ起きなかった俺が悪いのは当然として、声をかけてくれるくらいいいじゃないかとも思ってしまう。

 

 声をかけた上で、俺が起きなかった可能性もあるけれど————。


(とりあえず行かないと)


 ベッドから立ち上がり、まずはリビングへと向かう。

 やはり東条さんの姿はなく、学校の友人用のスマホがなくなっているところを見るに、学校へ行ってしまったと見て間違いないらしい。

 

 彼女の姿はないものの、代わりに置手紙のようなものがテーブルの上に置かれていた。

 それと一緒に、プラスチック製の箱が二つ重なって置かれている。

 とても弁当箱っぽい。

 ともかく、まずは手紙の内容から確認するべきだろう。


『稲森君へ————おはようございます。何度も声をかけたのですがまったく起きる気配がなかったので、疲れているのだろうと思いそのままにしておくことにしました。学校には体調不良と伝えておきますので、今日のところはゆっくりとこれまでの疲れを癒すというのはいかがでしょうか?私の秘書役(あくまで役ですが)を家に置いていきますので、制服などを取りに行かれてもいいかもしれませんね。それと机の上にあるお弁当は稲森君用に作った物なので、ぜひお昼時に食べてください。では、行ってきます』


 ————すごく達筆な手紙だ。

 書かれた字すらも酷く上品に感じられる。


「……ゆっくり疲れを癒す、か」


 思い返せば、休みたいと思う日はあっても、実際に休めた日はなんてほとんどなかったように思う。

 自分は大丈夫だって勝手に思っていたし、実際昨日までは問題なかった。

 しかし、これまで通りの生活を続けていたせいで呆気なく壊れてしまう自分の姿も容易く想像できてしまう。

 学校を休むという行為は極力避けたい————避けたいが。


「今から登校しても、学校側からは驚かれてしまうと思われますが」

「うわっ⁉」


 突然聞こえてきた自分以外の声に、驚きのあまり思わず声が飛び出す。

 振り返れば、そこにはスーツの女性が立っていた。

 背が高くスラっとした立ち姿は美しく、黒いスーツがよく似合っている。

 顔立ちもずいぶんと整っており、後ろで一つにまとめた黒髪は、艶やかで手入れが行き渡っていることを証明していた。


「お初にお目にかかります。東条冬季様の秘書を務めさせていただいております、日野朝陽と申します」

「は……初めまして」


 自分に対して頭を下げられたことで、俺も反射的に頭を下げてしまう。

 この人が東条さんの秘書役。

 彼女の側にいる人間だからか、この人からもただ者ではないというオーラを感じる————気がする。


「本日、冬季様の指示により稲森様のお世話をさせていただくことになりました。ご希望がありましたら、何なりとお申し付けください」

「あ……りがとうございます」


 ご希望、ご希望かぁ。

 置手紙にもあった通り、自分の荷物を取りに行くというのは絶対にやっておかなければならないことだと思う。

 明日は学校に行きたいし、少なくとも制服は必要だ。


「じゃあ、俺の家まで連れて行ってもらえますか?」

「かしこまりました。マンションの前まで車を回しますので、しばらくお待ちください」


 キリっとした表情を崩さないまま、日野さんは部屋を出て行った。

 大変失礼な話だが、日野朝陽という明るい名前に似合わずどこまでもクールな人という印象を抱いてしまう。


 しばらくして、俺は日野さんが回してくれた車に乗り込んだ。

 車の名前に詳しくないため具体的な名前は分からないが、座席の座り心地や装飾を見る限り、これも間違いなく高級車だろう。


「真っ直ぐ稲森様のアパートに向かいますが、よろしいですか?」

「はい、お願いします」


 車がゆっくりと走り出す。

 景色が流れていく速度が徐々に速くなり、やがて車は大通りへと飛び出した。

 東条さんのマンションから俺の家までは、実は大して離れていない。

 車で十分ほどだろうか。歩きでは少し辛い程度の距離である。


「このまま、東条さんと過ごすことになったら……やっぱり俺の家は解約すべきですよね」


 車内での沈黙が少し苦しくなった俺は、ふと生まれた疑問を日野さんへと投げかける。


「そうですね。冬季様と婚約なされる場合は、私の方で大家へと連絡を取り、稲森様のサイン一つで解約できるよう手配します。引き渡し時にはその場にいていただく必要があるかとは思われますが、ご容赦いただければと」

「自分の家ですし、その時は当然立ち会わせてもらいます……その、とてもありがたいです」

「……そう言った質問をするということは、冬季様の願いは前向きに考えていただけているということでよろしいのでしょうか」

「うっ……まあ、俺にとって悪い話って一つもないですし、少なくとも後ろ向きには考えてないです。ただ、ちょっと男として情けなくなってしまうというか」

「————僭越ながら言わせていただくのであれば、男として、女としてという言葉は些か時代に合わない考え方かと」


 日野さんは運転のために前を向いたまま、言葉を続ける。


「向き不向きという言葉があるように、物事に重要なのは適切な場所に適切な人間を置くことです。冬季様は間違いなく人の上に立つことで力を発揮するお方。人を見る目は母親であるアリーナ様譲りですし、仕事の手腕は父親である総一郎様譲りです。そんな冬季様に並び立てる人間というのは、そう現れないことでしょう」


 それはそうだろう。

 人としてのレベルが違うんじゃないかとすら思うほどに、東条さんは優秀だ。

 俺がどれだけ頑張って働いたところで、きっと彼女と同じところには立てない。


「しかし、多忙になることが予想される冬季様の将来に、同等の忙しさを持つ人間は必要ありません。ご本人がおっしゃっていましたが、それでは共にいる時間がほとんど確保できず、夫婦でいる意味がないからです」

「……確かに」

「冬季様に必要なのは、家にいて、ご自身の帰りを待つことができる人間なのです」


 個人的な意見を言わせていただけるのであれば————。


 日野さんは横目で俺の顔を見て、わずかに口角を上げる。


「稲森様は、冬季様に必要な存在だと思われます」


 視線を前に戻した日野さんが、それ以上言葉を発することはなかった。

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