007:心臓の音

「予備の歯ブラシしかないんですけど、大丈夫ですか?」


 そう言って彼女は新品の歯ブラシを何本か見せてきた。

 幸い俺が家で使っていた物と同じシリーズのブラシがあったため、それを選ばせてもらう。

 

「稲森君は柔らかいブラシが好みなんですね。私はちょっと硬いのが好きなんですけど」


 何だか艶っぽい言い方に聞こえてしまって、心臓がドキリと跳ねる。

 駄目だな。こうやっていちいち反応してたら、本当に心臓が持たない。


 二人して鏡の前で歯を磨き、口をゆすいでからリビングへと戻る。

 

「あ、先に寝室の案内をするべきでしたね。こちらへどうぞ?」


 東条さんは、リビングの隣にあった扉を開く。

 そこはダブルベッドが置かれた部屋だった。

 大きな本棚が壁際に並んでいるのも見えるが、置いてある本が外国語で書かれたものばかりでどんな内容であるかは分からない。


「このダブルベッドも、あなたと寝室を共にするために用意した――――と、言いたいところだったのですが、元々私はベッドにはこだわる方でして。極力短い睡眠時間でも体力が回復できるように、マットレスの質と広さに関しては私好みにオーダーメイドしてもらった物なんです」

「え、でも広さにもこだわったなら、俺が一緒に寝ない方がいいんじゃ……」

「そこはご心配なく。確かに初めは広ければ広いだけいいと思っていましたが、寝てみると意外と寂しさを感じるものでして。むしろ稲森君が隣に並んでくれることで完成すると言っても過言ではありません」


 完成するというのは多分過言だと思うけれど。

 ただ気を使われている雰囲気もないし、俺が迷惑でないというのは本当のことらしい。


「じゃあ、一緒に寝ましょうか」


 俺はもう頷くことしかできなかった。

 促されるがままに寝室に入り、ベッドに近づく。

 まくらは二つ。

 片方のまくらの中心が凹んでいるところを見るに、こっちが普段から彼女が使っている方なのだろう。

 となると、もう片方は新品か。


 跳ねる心臓をなんとか押さえつけながら、東条さんと一緒にベッドに入る。

 何がともあれ――――近い。


「ふふっ、稲森君の温もりを感じます」

「ほ、ほんとに……緊張しすぎて寝られないかも……」

「うーん……そこまで意識していただけるのは嬉しいですけど、明日に疲れが残ってしまうのはまずいですね」


 やはりソファーで寝させてもらおうと提案しようとした、その瞬間。

 突然東条さんが俺の頭の後ろに手を回し、想像以上の力で胸元へと引き込む。

 柔らかく巨大な二つの塊に頭が埋もれ、俺の頭は本日何度目か分からないフリーズを起こした。


「……実は、私もドキドキしてるんです」

「え?」


 東条さんの体から聞こえる、ドクドクという心臓の鼓動。

 その音は確かに普段通りとは思えないほどに激しくなっていて、彼女も相当緊張しているということが窺えた。


「好きな人がこんなすぐ近くにいるんですよ? ドキドキしないわけがないじゃないですか」


 彼女が耳元で言葉をささやくせいで、背筋にゾクゾクとした快感が駆け抜ける。

 だけど、不思議と俺の心臓は落ち着きつつあった。

 心音は人の心を落ち着かせる効果があると聞いたことがあるが、自分の身で体験してしまうと信じざるを得ない。


「色々と……強引な手ばかり使ってしまってごめんなさい。でも……どうしても私の気持ちを知ってほしかったですし、それに————」

「……それに?」

「偉そうな物言いになってしまって恐縮なんですけど……今日まで頑張り続けた稲森君に、"頑張ったね"って言ってあげたくて……」


 東条さんの指が、俺の頭を撫でる。

 まるで繊細なガラス細工に触れるがごとく、彼女の手はどこまでも優しかった。

 優しすぎて、不思議なことに俺の目からは涙が溢れ始める。

 

 誰かに褒められるために働いていたわけじゃない。

 親戚にタンカを切ってしまったから、生きるために必要だったから。

 両親が亡くなってしまったこと以外、やっぱりすべて自分のせいでしかなくて。

 いつの間にか弱音を吐くことすら忘れて、俺は親戚どころか周りにいる人間を頼るべきではないと、勝手に自身に縛りを課していたのかもしれない。

 

 だから――――その"頑張ったね"の一言が、俺の凝り固まった涙腺を解してしまった。


「私からすれば、稲森君は生きているだけで十分えらいのです……って、これはさすがにあなたの扱い方を間違えているでしょうか?」

「……いや」


 恥ずかしさはどこへやら。

 俺は東条さんの体に縋りつき、甘えるように顔を埋めてしまった。

 甘い香りが鼻腔をくすぐり、相変わらずの心音が、徐々に眠気を誘い始める。

 

「そう言ってもらえて、すごく嬉しい」

「……なら、よかったです」


 体がかなり疲れていたせいか、抗えない眠気の波が襲ってきた。

 そうして間もなく、俺は眠りに落ちる。


◇◆◇

(可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い)


 安らかな顔を浮かべて眠りに落ちた稲森君。

 私の胸の中で眠ってくれるのは、本当に嬉しい。

 でもこれだけ彼が近くにいると、私の方はいつも通りには寝られそうになかった。


(所々髪の毛が跳ねてて可愛い。男の子にしては睫毛が長くて可愛い。寝顔は子供みたいで可愛いのに、体は見た目以上にがっしりしていてかっこいいし、手は少しカサついてて、ゴツゴツしててかっこいい……!)


 ああ、もう鼻血が出そうです。

 この人の嫌いなところが一つも見つからない。

 でも好きなところなら百個でも千個でも言えてしまいそうな気がする。 

 こんなに赤の他人を好きになったことがないせいで、正直私自身もどうしていいか分かっていない。

  

 どうしよう。今ならキスしてもバレなかったりするでしょうか?

 

 ――――そんな邪なことを考えていると。


「んぅ……」

「っ!」


 突然、稲森君が私を抱き寄せていた腕に力を込める。

 私たちの密着度がさらに増して、彼の体温が一層伝わってきた。

 

(お父様、お母様、申し訳ありません。私は今日死んでしまうかもしれません)


 もう本当に幸せ。幸せしかない。

 これでまだお試し期間だというのだから驚きです。

 もしもこのまま正式な夫婦になれたら、幸せ過ぎて頭がおかしくなってしまってもおかしくはないでしょう。

 

「う……ん……」


 私の方からも抱き寄せる力を少し強めると、稲森君はちょっぴり苦しそうな声を漏らした。

 これはよくない。

 今でも十分密着させてもらっているし、これ以上は控えておくことにしましょうか。


(この人がいれば……私はもっと羽ばたける)


 私の心が折れそう・・・・・・になった時・・・・・に、稲森君の頑張る姿があと少しを走り抜けるための力をくれた。

 その時、私は確信したんです。

 稲森春幸という男の子は、私にとって必要な存在だって。


「……おやすみなさい、稲森君」


 彼が私の胸元に顔を埋めているのであれば、私は彼の髪に顔を埋めよう。

 自分と同じシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、それだけのことが何よりも嬉しくて。

 絶対にこの幸せを永遠のものにしたい――――ただ、そう思った。

 

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