005:本気
「では改めまして……もうお風呂が沸いているはずなので、お先にどうぞ。入浴剤も並べておいたので、お好きな物をお使いください」
「にゅ、入浴剤?」
「お使いになられたことありませんか?」
生憎家族と住んでいた頃もそういう物には興味なかったし、一人暮らしを始めてからはそんな物を買う余裕がなかった。
というか、浴槽に浸かるという行為自体していなかったはず。
「では説明した方がよさそうですね」
ついてきてほしいという東条さんの後に続き、浴室の方へと向かう。
脱衣所にまで入った俺に対し、彼女は洗面台に置いてあった無数の小さな袋を見せてきた。
どれもこれもカラフルなパッケージになっていて、それぞれ名前らしき物が英語で書いてある。
パッと見た感じでは、花の名前が多いようだ。
「ローズやラベンダーなど、定番はとりあえず揃えてますけども」
「えっと、俺本当にこういのに疎くて……東条さんがよく使うのはどれですか?」
「私と同じ香りが使いたい――――そういうことですか⁉」
途端にテンションが上がる東条さん。
その勢いに再び気圧されそうになるが、別にそう取られても構わない意味ではあったため、目を泳がせながらも頷く。
本当は誰かが使っている物である方が失敗しなさそうだって思ったからだけど。
「ではこの柚子をお使いください。私の一番好きな香りです」
「あ、ありがとうございます。お言葉に甘えますね」
柚子の香りの入浴剤を受け取り、俺は浴室へ入るために服に手をかけた。
――――が、しかし。
「あの……脱衣所から出て行ってはもらえないんでしょうか?」
「へ? もしや、見られたくない……?」
「当たり前でしょ⁉ 恥ずかしいですよ!」
「気になさらずとも大丈夫です! 私たちはいずれ夫婦になるやもしれないのですから!」
「まだ夫婦じゃないんだから気にしますって!」
強めな拒絶を俺が吐いたことで、東条さんはようやく思いとどまってくれたようだ。
頬をめちゃくちゃ膨らませてかなり不満げではあるけれど、観念したように脱衣所から出て行く。
「ふぅ……」
一人になってからようやく俺は服を脱いだ。
かなり汗をかいてしまっていたようで、作業着の下に着ていたシャツがほんのり汗臭い。
去り際、彼女はこれらもすべて洗濯機に入れておいてくれと俺に告げたが、正直気が引ける。
とは言え、他にどうすることできないのだが。
「……やむを得ん」
俺は申し訳なさを重々抱えつつ、ドラム式洗濯機の中に作業着とシャツを入れた。
この服に関しては後日返却しなければならないため、汚いままにはしておけない。
浴室の扉を開き、中へ足を踏み入れる。
「広い……」
思わず独り言が漏れる。
俺の知っているものと比べると、この家の風呂は二倍近く大きい。
浴槽なんて大の大人が二人で入れそうなほどに広く、壁には何故かモニターが設置されていた。
気になって備え付けのボタンを押してみると、電源がついたようで先ほどまで俺が見ていたテレビ番組が流れ出す。
(こんなところにもテレビがあるのか……)
妙な感動を覚えつつ、俺は風呂の椅子に腰かけて、とりあえずシャワーを出した。
初めは低かったシャワーの温度は徐々に温かくなり、すぐに適温となる。
「あ、そうだ」
風呂の広さに驚いたせいで忘れかけていたが、入浴剤を入れなければならなかった。
少し濡れてしまった手で封を破き、中の粉末を浴槽に入れる。
すると柚子の甘酸っぱい香りと共に、お湯が黄色く染まっていった。
浴槽の方はこれでいい。
俺は再び椅子に戻り、まずシャンプーで頭を洗った。
やはり汗をかいた後のシャワーは身も心もリフレッシュできて心地がいい。
泡を流しきって、いざ体を洗うべく置かれていた洗体用のタオルに手を伸ばしたその時、何故か浴室の扉がゆっくりと開かれ、そこからシミ一つない生足がぬるりと現れた。
ここで思わず顔を上げてしまったのが、最大の敗因。
体にタオルを巻いただけの東条さんと目が合ってしまい、頭が真っ白になる。
「稲森君、背中を流させてくれませんか?」
ほんのり頬を赤く染め、彼女はゆっくりと浴室へと入ってくる。
体にタオルを巻いただけと言ったが、よく見れば自分の手で押さえているだけで、固定すらされていなかった。
胸の辺りでタオルを押さえているせいか、東条さんの決して無視することのできない大きな胸がこぼれそうになっている。
下側に関してもかなり太ももの付け根に近い際どい感じになっていて、目のやり場に困り散らかしてしまった。
「なっ――――何してんだあんたはァ!」
「大丈夫です! 恐れることは何もありません! 痛いことなんて一切しませんからっ!」
「そういう問題じゃねぇ!」
「暴れないでください! タオルが落ちちゃいますから……」
「あ、ごめっ」
東条さんのこの発言が罠だった。
俺が一瞬我に返って大人しくなった瞬間を見計らい、彼女は俺の後ろに回り込む。
そして反射的に立ち上がろうとした俺を、肩を押さえて封じ込める。
「ほら、お風呂の床は滑りやすいですから、暴れちゃ駄目ですよ?」
「で、でも……」
「でもじゃないですっ。心配せずとも一線は越えないようにしますから、安心して楽にしてください」
そういう問題ではないし、この時点ですでに一線を跨いでいると思う。
何とかやめてもらおうと言葉を吐く前に、東条さんは洗体用のタオルにボディーソープを垂らしてしまった。
慣れた手つきでそれを泡立てた彼女は、そのタオルで俺の背中を擦り始める。
「強かったら言ってくださいね」
「ちょうどいい、ですけど……」
しばらく、浴室にはタオルと肌が擦れる音だけが響いていた。
何か会話しようと思っても、学校のアイドルに背中を洗われているというこの状況の異常さに言葉が出なくなってしまい、結局口を開けない。
そして突然――――ふにょん、という柔らかい感触が、背中に伝わってきた。
「え、はっ⁉」
「どうでしょう? 私、大きさと柔らかさには自信があるんですよ」
彼女の言葉で、俺の背中に当たっている物の正体が分かった。
タオル越しではあるものの、この柔らかさに匹敵する物は世の中にほとんど存在しないだろう。
これは、男の夢だ。
男の欲望が詰まった夢であり、そして、そんな男を狂わせる二つの山。
さっき手で触れてしまった時よりも、その感触は極めて鮮明だった。
(これがおっ……いや、胸の柔らかさ?)
この世の真理に到達してしまった俺の頭の中に、宇宙が広がっていく。
正確には、宇宙を想像して現実逃避をしているだけではあるが。
「私と結婚してくだされば、私のことを好きにできるんですよ?」
「いっ……かげつは、お試し期間だって話じゃ」
「そうですよ? 私はこの一か月で、あなたを虜にしなければならないんです。だから、使える物はなんでも使います」
東条さんの声色があまりにも真剣だったせいで、目先のことしか考えていなかった俺の背中に寒気が走った。
――――彼女は本気だ。
俺なんかが思っているよりも一層覚悟を決めてここにいるし、多少拒否した程度では引き下がらない。
どう考えても不健全なはずの東条さんの行動が、途端に誠実なものに見えてきた。
いや、さすがに誠実に見えるというのは言い過ぎたかもしれない。
普通に不健全だと思う。
「お試し期間が終わった後……あなたに断られてしまってから"ああすればよかった"って悔やんでも遅いんです。後悔だけは、したくないんです」
「っ!」
背中に当たっていた柔らかさの圧力が、さらに強まる。
鼓動がうるさい。
このままではのぼせてしまいそうだ。
「ふふっ、すごく熱くなってきてますよ? お湯は出てないですし、気のせいでしょうか?」
「こ……これ以上はっ」
「……そうですね。この先はお試しの範囲外になってしまいます」
背中の感触が遠ざかっていく。
ホッとすると同時に名残惜しく思っている自分がいることに気づき、俺はそんな自分を殴りたくなった。
「今度こそ私は外で待ちますので、ゆっくりお湯に浸かってから出てください。あ、最後に少しシャワーを借りますね?」
弱めのシャワーを出し始めた東条さんは、自分の前面についた泡を軽く流してから浴室を出た。
一人残された俺は、頭を抱えて悶える。
どうしよう……やっぱり断るメリットってないんじゃなかろうか?
「――――う~~~~~! 淫乱だって思われたでしょうか……? でもネットではこうすれば男性はイチコロだと書いてありましたし……うー! 恥ずかしいけど、頑張るのです! 私!」
浴室の外。
俺の見えない所で東条さんが同じように頭を抱えていただなんて、この時はまだ知る由もなかった。
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