夜Ⅱ



 結論から言うと、不破が見せられた仮想現実は至極普通のものだった。

 仮想現実の中の不破はどこか知らない学校の生徒たちと一緒に普通の日々を過ごしていた。仮想現実の中の生徒は特別善良な生徒が集められたらしく、彼らは不破がちょっとでも誰かに親切をすれば褒めてくれるし、不破が困っている素振りを見せれば助けてくれた。


 だが、それでも俺は不破が感じたと思われるどす黒い感情を追体験することが出来た。


 あるとき、不破はクラスメイトの一人がとても大事にしていたキーホルダーを盗もうと思い立った。どうもそれは仲のいい友達に誕生日にもらった物で、おそろいのものらしい。

 ということは彼女がそれをなくせば、あげた側も悲しむかもしれないし場合によっては二人はそのまま仲違いするかもしれない。


 不破にとってその程度のことであればそこまで楽しみにするほどでもないが、退屈な日常の暇つぶしぐらいにはなるだろう。

 そして彼女がいない隙を狙ってキーホルダーを盗もうとした。

 その時だった。たまたま教室に、キーホルダーをあげた男子の友達が戻ってくる。そしてキーホルダーを盗もうとしている不破を見る。


「いや、これはちょっといいなと思って見ていただけなんだ」


 不破は咄嗟に言い訳をする。

 不破は昔から嘘をつくのが得意で、この手の言い訳であれば息を吐くようにすることが出来た。

 それを聞くと男子は言う。


「そんなに欲しいなら君の分もプレゼントするよ」

「いいのか? 二人お揃いなんだろ?」

「ああ。だって僕たちももう友達じゃないか」


 彼に無垢な好意を向けられた不破は久し振りに不快感を覚えた。今まで他人がどれだけ暴言を吐いているのを見ても何とも思わなかったのに。


 何でこいつは他人のことがこんなにすぐ信じられるんだ?

 そして大してよく知りもしない俺にそんな好意を向けることが出来るんだ?


 理解出来ないという気持ちは容易に不快に転じていった。


 もちろんここに来るまでにも似たようなことはあった。

 しかし現実の人間は不破が「変な人」だと分かればすぐに距離をとり、それ以上に好意を注いでくることはなかった。


 だが、この仮想現実の人間は無限の好意を不破に向けてきた。


 そして似たようなことがいくつか重なった。

 最初は不破も彼らをお人よしで他人を疑うことを知らない愚かな人種だな、と思っていた。


 が、次第に言いようのない、得体のしれない気持ち悪さに包まれていく。自分が何をしても彼らはいい方に解釈してくれるし、仮に何か被害が発生しても不破の適当な言い訳を信じてかえって不破を心配してくれるという有様だった。


 不破自身も、理解出来ないとはいえなぜ好意に自身がここまで不快感を覚えるのかはよく分からなかった。


 そんな訳で次第に不破は仮想ではない現実でも精神に変調をきたすようになっていった。言うまでもないが、これまでの人生で不破が病んだことは一度もない。


 一度だけ不破はそのことを学園の教員に訴えた。もちろん事実をそのままに伝えるのではなく、仮想現実の実験で疲れてしまっているから何もなしに寝かせて欲しい、などと適当な嘘をついて。


 が、それ以外のことであれば大抵の希望は叶えてくれる教員もそれだけは「そういう教育方針だから」と頑として譲らなかった。


 加えて時々仮想現実を見せられるのとは別に、研究施設に連れていかれてそこで不破は脳をよく分からない装置に繋がれた。

 その装置に繋がられると、勝手にこれまでの記憶を思い起こせられた。

 一度何なのか聞いてみたが、どうも不破から記憶や感情を取り出せるかという実験をしているらしい。


 それを聞いた不破はこの時、自分がモルモットに過ぎないことを確信した。

 そして考える。

 これまで自分は他人の反応を見るために物を盗んだり、ウサギを殺したりしてきたが、そんなことはこの狂った大人たちの前では子供の遊びのようなものに過ぎない。自分は本物の狂気の中に囚われているのだ、と。


 もしもこれが不破でなければ彼らの「狂気」に気づかずに、「何か素晴らしい研究なんだな」ぐらいにしか思えなかったのかもしれない。


 しかし彼らに比べると中途半端とはいえ、似たような性質を持っている不破には彼らの本質と言うべきものが理解出来てしまった。


 とはいえ、さすがの不破もこの離れ小島から脱出することは出来なかったし、仮想現実の装置がある自室に帰らずに別のところで夜を明かそうとしたこともあったが、狭い島の中なのですぐに見つかって連れ戻されてしまった。


 このままここで暮らしていてもいずれ発狂してしまうだけだ。


 そんな時不破は仮想現実であれば他人に何をしても罪に問われることもないのではないか、ということに気づいた。


 現実ではウサギを殺しただけで大騒ぎになり、変なところに飛ばされた。

 しかし仮想現実ではこの頭がお花畑のクラスメイトたちを殺したところで捕まることはない。これまで不破は無意識のうちに、ばれない犯行の方がスマートだと思い込んでいた。


 しかし彼らの目の前で包丁を取り出して人を刺せばいかに善良な彼らでも自分たちのお人よしの思考が通じないだろうと思い至るだろう、と気づく。そうすれば彼らもさすがに絶望するだろう。

 逮捕されることのない仮想現実であればむしろその方が満足感は大きいだろう、と思い立つ。


 それすらも大人たちの術中のような気もしなくもなかったが、せめて仮想現実の中でくらい自由でいたい、と不破は計画に夢中になる。


 そんな訳で実際に不破は包丁を持って学校に行き、特に親切にしてくれるクラスメイトを後ろから包丁で刺そうとする。


 が。ポケットから包丁を取り出してもどうしても彼を刺すことは出来ないのだ。

 彼の背中に包丁を構えたまま不破は文字通り固まってしまう。


 おかしい。


 ウサギの時はどれだけ残虐なことも平気で出来たのに。


 もしやあの大人たちに干渉されているのだろうか。

 彼らであれば目の前に餌をぶら下げて「待て」をすることも平気で出来るだろう。

 そして、こうして不破が殺せずにいるうちにまたいつものパターンになるのだろうか。


「おいおい、いくら何でも包丁を学校に持ってくるのは危ないぞ」


 そうこうしているうちに先生がやってきて、不破が持っていた包丁はすっと取り上げられてしまう。


 その経験で不破は愕然とした。

 こいつらを絶望させることは出来ないのか。

 俺はこの優しさに包まれた空間で生きていかなければならないのか。


「おい、こんな実験やめてくれ! こんなことをするぐらいなら素直に少年院か何かに送ってくれ!」


 その後不破はもう一度教員に訴えた。

 そして紆余曲折があった末、もう少し偉い人の元に通される。一応この学校の責任者らしい。ちなみに校長とは別の人物だった。

 おそらくこいつも例の大人たちの仲間だろう。


「やめてくれ、頭がおかしくなりそうだ!」


 訴える不破に責任者の男は表情一つ変えずに言い放つ。


「今君に施しているのは一般人のほとんどが善良な性格に育つという実験結果が出ている教育プログラムだ。君は俗に言うサイコパスの傾向がある。その君でさえも更生させることが出来れば今後はサイコパスの人間には片っ端からこの更生プログラムを行わせようと思っている」


「そんな! 人を実験道具みたいに扱いやがって!」

「何を言ってるんだ。自分だってクラスメイトの反応を見るためにウサギを殺しただろう? 君がやったことと今我々がやっていることは何が違うんだ?」


 男はそう言いつつも、まるで不破がウサギを殺したことを悪いと思っていないようだった。


「お、俺が悪かった! もうあんなことはしないから許してくれ!」


 生まれて初めて不破は本気で他人に謝った。

 今後同じようなことをすればまたここに送られる、と思うとさすがにあんなことをしようとは思わなかった。

 が、男は首を横に振る。


「我々は別に拷問による恐怖で無理矢理サイコパスを更生させる気はない。それでいいならいくらでも人を変えることは出来るが、さすがにその方法は問題がありすぎる。教育により君の中にある価値観を根本から変える。それが我々の目的だ」

「そんな! こんなものは教育じゃない、洗脳だ!」

「ふふ、それなら君には教育と洗脳の違いが説明できると言うのかい?」


 男はまるでその二つに大した違いはない、と言いたげだった。

 それを聞いた不破は絶望した。

 彼らの考えが中途半端に理解出来るからこそ、自分の力では彼らを翻意させることは出来ない、と分かってしまったのである。

 あの時自分はどれだけウサギが必死で抵抗しても殺すのをやめなかった。

 それと同じだ。


 その後不破は様々な抵抗をしたが、皆失敗に終わった。

 やがて不破は本格的に精神を病んだため、学園から病院のような施設に移され、そこで自由を制限されて仮想現実による矯正を受けるようになった。

 そして昼も夜も問わずに、生暖かい仮想現実を見せ続けられた。


 そしてこの場に呼ばれたという訳である。

 ちなみにではあるが、そんな不破の陣営は「村人」であった。


 もっとも、正直この回想の後ではそんな事実は限りなくどうでも良くなっていたが。

 

 

「で、こんな気持ちの悪い回想を見せて何がしたいんだ?」


 回想が終わると俺はピエロ男に尋ねる。

 不破の回想には色々と驚くところもあったが、正直に言うと「まあそういうこともあるだろうな」という感想だった。


 ここまで露骨なことが起こっているとは思わなかったが、他人に恣意的な仮想現実を見せるとはそういうことである。

 それに不破はあのように言っていたが、勝手に仮想現実を見せつけられることを除けば不破が外で送っていた学校生活と大差ない。


 そして俺が体験してきた仮想現実も不破が体験したものと大差がない。

 基本的に俺の周りにいた人間たちも善良で優しい人ばかりだった。


 そのため俺は比較的自分が善良な価値観の人間に育っているのではないかと思っている。俺の場合はこういう仮想現実を幼いころから見せた場合ともう少し成長してから見せた場合の対照実験とかそういう意図だろうか。


 俺がそんなことを考えていると、ピエロ男が口を開く。


「さあ? 何にせよ、これで霊媒師のターンは終わりです。ではおやすみなさい」


 ピエロ男が芝居がかった口調で言うと、俺の意識は沈んでいくのだった。

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