第2話 中井隆久の拡散
「それでさー、実際やっぱり怪しいと思ったのよ、私は」
ざわめきが眩しい中央食堂での昼食後、瑞穂はテラスでただれた関係である中井隆久にしなだれた。相対する中井はそれはそれは色男で名の通った現代の光源氏とも呼び声高かったが、三国一の美人――この場合、三国とは北関東隣県三県を指す――と名高い瑞穂には、弱い。
「ええと、何がだっけ?」
隆久は頭を巡らせる。
ええと、昼飯を食う約束をして、そのあとは三限サボって昼下がりの情事に励もうとしていた。はず。アオカンって言うのもいいかもしれないけど、学内はちょっとナ……。
「ねえ、聞いてる?」
豊満な胸部を強調する仕草が、その少し低めの身長と相まって特殊な性癖の持ち主では決してない隆久をも惑わす。はっきり言って、爆発寸前だ。
――やっぱりアオカンはマズいな。うん。女は他にもいるわけだし。
所謂レピュテーション・リスクを考慮して天秤にかけ、当初の予定通り連れ込んでの情事に持ち込むことに決定する。
「うん、聞いてるよ。……話の続きは、ウチでどう?」
――☆――
すう、とアメスピ5ミリを吸い込む。アメスピにも色々な色があるが、黒はダメだと隆久は思う。あれは肺がんになる、ありゃあいかん。
背中に瑞穂の気配を感じながら、ふう、と紫煙を吐く。入居の規約では、麻雀と喫煙とペットを飼うことは禁止。麻雀は雀荘以外でやる気は起きないから、喫煙とペットだけ気を配ればよいのだと引越し当初は思っていた。一年生の頃だ。
セフレのことをペットと言うのはちょっとイキってるな、と隆久は思う。キャンキャン鳴く――鳴かせているかもしれない――のはペットとは変わらないが、愛情を掛ければそれなりに懐くのは――これもペットと同じか。じゃあペットじゃん!
パタンと背中側に倒れる。きゃっ、とペットが鳴く声が聞こえる。さて、この天井の黄色いシミはどうしたものか。
「やっぱり私たちって相性良いと思わない?」
瑞穂が隆久の頬を撫でる。少し熱がこもる。無論、下半身にだ。隆久は20歳なのだ。元気溌剌。
「そうだね」
寝ころんだ姿勢のまま、右手を瑞穂の頬に伸ばす。実際、相性がそれほど良いかと問われるとNOである。少なくとも、この部屋に週に何度も訪れる他の女の平均程度に留まっている。しかし、返答はYESしかない。そういうものだ。
「でね、さっきの話の続きなんだけど」
ガフっと煙が詰まる。少しむせた。
これがこの女の悪いところだ。変に利口ぶっており、その実下半身先行の思考体系であるというのが学科一般からの評価である。
「またその話かい?」
隆久もその意見に異論はなかった。
「……まあいいや、話してみてよ」
しかし投資は必要ではある。この女を自分の手の届くところに置いておくというのは、下半身の問題解決に繋がるとともに、隆久の名誉欲にも繋がるところだった。三国一の美人は伊達ではない。もっと下半身が緩く――これは文字通りの意味ではない――て、そして下半身がキツい――これは文字通りの意味だ――女はたくさんいるが、瑞穂は隆久にとってそのカテゴリーの女ではない。無論、ヤレればそれはそれでいいのではあるが。
「今さ、なんか伝染病って流行ってるらしいの、知ってる?」
隆久にとっては、「うっすら」というレベルだ。別に直ちに人体に影響があるワケでもないし、生活はいつも通り送れている。時々入院した人がいる、という話は聞くけれど少なくとも自分の周りではいない、と答える。
「実はね、あれは日本政府の陰謀でね」
はじまった、と思った。しかし隆久はぐっとこらえる。我慢が投資だ。とりあえず大きくタバコを吸いこみ、
「聞こうか」
もみ消す。そして二本目に火をつけた。
瑞穂曰く、伝染病というのは実はそんなものはなく、日本政府の流したデマ情報である。時々入院した人がいる、と言われているのも真っ赤な嘘。その証拠に、メディアには息がかかっている、とスプリングナンセンスに書いてあったと。外国の偉そうなメディアも東アジアを中心に蔓延し始めている伝染病に警戒すること、と言っているがよくよく文献を見てみると、地方紙やタブロイド紙ではそれに反対する意見があるとのこと――英語が読めないのでTwitterの情報であると瑞穂は付け加えた。
日本政府がそんなことをする義理はない――と上の空で答えると、また堰を切ったように瑞穂がしゃべりだす。仕方がないので、こちらも三本目。そのかわいい口は俺のを咥えるだけにしてくれればいいのに。
曰く、日本政府は、実は若者を管理することにはほとほと疲れたらしい。投票にもいかない、Twitterで好き勝手文句を言う。労働もしない。そんな若者を自在にコントロールするために、マイクロチップを詰め込んだワクティンを打つ。そのために、伝染病が蔓延していることをアピールしている、と。
「で、そのワクティンってのはなんなんだい?」
「うーん、知らない」
力が抜けて、タバコを落としそうになった。危ない危ない。鼻から煙が出た。
「なんか注射で打つらしいけど、打ったら病気が治るんだってよ。でも、そんな病気なんか実在しないから関係ないわ」
日本政府もバカを相手にして大変だな。俺もヤラせてくれるから話を聞いているけれど、一億総田中正造では、官僚なんかたまったもんじゃないだろうな。
紫煙をくゆらす。
「でも俺達には関係ないことだろう」
先ほどまで瑞穂の頬にあてていた右手を、そのまま下に数十センチ動かす。アンっ、とまたペットが鳴いた。
「ん……実はそんなことないのよ」
その右手が外される。残念。
「あなた、友達多かったわよね」
濡れた瞳で見つめてくる。ちょっと低めの身長に、猫っぽい目。色気ではないけれど、ぐっと引き込むようなそんな瞳だ。
「多い……かどうかは相対的なものだけれど、少なくはないね。少なくともテニサーにはどこでも出入りできるし。Twitterのフォロワーもファッション系で多いかな」
セフレも多いよ、と付け加えたくなるが隆久はそこまで野暮ではない。
「私が今言ったようなこと、みんなに伝えて欲しいのよ」
濡れた瞳が美しい。君の瞳に……完敗だね!
「みんなに伝えてどうするんだ? 球根栽培の伝道師にはならないぞ?」
「何を言ってるのよ。私が言ったことをそのまま伝えてくれればいいだけよ。簡単でしょ?」
やはり腹腹時計ではないか――と隆久は思った。
さて、ここで隆久の頭の中で天秤が登場する。左側には隆久の人格、右側にはこの女――をいつまで手籠めにしておけるか。今天秤は、圧倒的に左側に傾いた。そりゃあそうだ。こんな陰謀論に加担することになったら、今まで築き上げた人脈はもちろん、輝かしい将来――隆久はもちろん広告代理店に入りたい。常々「飲み会やって金貰えるのって最高じゃん」と思っている――はどうなるのだと。三国一の美女とはいえ、流石に釣り合わない。
今左に傾き過ぎた天秤を心の眼で眺めて、そして右側に別れを惜しまんとする――いや、待てよ。もしかすると、左側に乗っているものがおかしいのではないだろうか。ちょっと工夫すれば、もしも「ちょっとした脚色」が許されるのなら、それは十分に天秤をフラットに、ともすると右側に傾くくらいになるのではないか。
現代の光源氏、はたまた学内一の色男とは仮の姿、その実態は口のうまさにあると自負しているこの俺なら、この困難を乗り越えられるのではないか――いや、できる!
と決まれば話は早い。
「わかったわかった。じゃあそれは手伝うよ。で……」
瑞穂の下半身をまさぐる。
「もう一回、どう?」
結局、隆久は20歳だった。悲しいかな、抗えない。
――☆――
「っていう話があってさ」
「いや、女とヤった後に別の女とヤった話すんなや」
あくる日。隆久の本命は背が高く、切れ目で、そしてタバコを吸う女だった。ところがどっこいこの女、絶滅危惧種のレディースである。そしてそういう女は、一度転んだ男に弱い。いつか自分にちなんだ妙な刺青を入れるんじゃないかと隆久は危惧していたが、その予想は当たっており、島原美千代はモグリの刺青屋の予約を今日入れたところということは、隆久は知らない。
「ごめん、全然聞いてなかったわ。もっかい話して」
私にわかるようにね、と言いながら隆久の性器がぎゅっと握られた。今度は隆久が犬のような悲鳴を上げるはめになり、美千代は笑った。
痛みと興奮に呻きながらも、こういう点で美千代は瑞穂よりも断然賢いと思う。無知の知とはよく言ったもので、身をもって実感せざるを得ない。
「――いやつまりね、俺の友達……じゃないんだけど、なんと言うか」
「セフレだろ」美千代が右手を強く握る。
「イヒッ……まあそうなんだけどさ。で、そのセフレが……あの、ちょっと離してくんないかな」
「でも大きくなってる」
「だからだよ」
名残惜しいが、これでは脳に血が足りなくなるので話が出来ない。自分から「でろん」と引き抜く。液体が少し美千代の手につく。
演技ばって咳を払い、タバコに火を付ける。
「で、そのセフレがさ」
もうセフレでいいか。実際そうだし。
「そのセフレが言うには、なんでもワクティンってのはよくない。実はそれは政府の罠だ。だから打つな、打たないようにしよう……ってことをみんなに知らしめたいんだと」
俺もよくわかんないんだけどさ、と予防線。
ふうん、と美代子は興味がない様子。右手で隆久のそれを弄ぶ。
「で、なんでその話を私にするのよ」
煙を大きく吐く。下半身が怒張するのが自分でも分かる。しかし分からんのが、なんで俺がこの話をしなきゃいけないからの説明だ。
「……君のことを大事に思っているからさ。それで十分だろう?」
美代子がけたたましく笑った。流石に臭すぎたと自分でも思う。ちょっとハズしたかなと自嘲気味に笑うと、急に美代子の顔のアップ。キス。
「……アリガト。仲間にも言っておくよ」
慌ててタバコをベットの外に追いやる。上手く灰皿に入ってくれないとまたカーペットが焦げる。火を点けるのはハートで十分だ、というのはダサすぎるので流石に口にしないし、そんな言葉を思いついてしまった自分がクソダサくて、また笑った。
そしてまたくんずほぐれつ。
――まあ別にいいか。これで一応10人目だ。大半がピロー・トークだけれども。Twitterでもそんなようなことを少し書いたし、義理は果たしただろう、と性欲に支配されつつある頭の片隅で隆久は考える。
――☆――
結局、隆久の打った10本の矢のうち、大当たりに突き刺さったのは美代子に放ったものだった。レディースの頭、というのは伊達ではない。
族、というのは仲間意識があり、総長の言うことは絶対の掟に近いようで。
そして族というのは話題に事欠く集団のようで。
あっという間に隣の族、上のチンピラ、その上のヤクザ屋さんとトントンと話が昇って、ついには山川組の若頭補佐の吉村健三の耳に入った。無論、吉村健三は「いいシノギになるかもしれない」、としか考えていなかったのだが。
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