第5話

 「エルムの指導者28名が洗礼を受けた」


 第二主教・パトリックの言葉の意味を、クリスティーネはしばらくの間理解できなかった。あまりにも恐ろしいことで、理解することを心が拒絶しているかのようであった。

 国王勝利の報がもたらされて5日後、クリスティーネは第二主教に呼び出されていた。司教補でしかない自分が主教に直々に呼び出されるというのは尋常なことではない。主教の執務室に入ると、そこにはロレンス枢機卿と、ラヴェンローナ公・マクシミリアンの姿があった。

 マクシミリアンは、国王・ラウル七世の異母弟である。ラウルが戦場の英雄であるのに対して、マクシミリアンは物静かな学者肌の人物と見られており、聖公会の教義をよく学んでいる。マクシミリアンの幼少時の家庭教師が、当時まだ司教であったパトリックであった。クリスティーネやロレンスの属する第二主教派の宮中代表がマクシミリアンであると言って良い。

 跪拝するクリスティーネに、パトリック主教が席を勧めた。そして、件の知らせを聞かされたのである。クリスティーネは蒼白となり、しばらくして、狂おしいほどの怒りに体を戦慄かせた。

 「一体、誰が…?」

 それまで聖公会の教理を知らなかったものたちに、集団で洗礼を施す場合、まずは主教会議において洗礼の可否について協議され、洗礼が認められれば、宣教局が中心となってその地での教育制度を整え、聖公会の教義を理解したと認められたものから順次洗礼を施していくというのが慣例であった。エルムへの洗礼については来月の司教会議で議論される予定であったはずだし、本来、新領地住民への洗礼を主導すべき宣教局はこの件について何一つ知らされていない。局長であるロレンス枢機卿をはじめ、宣教局の面目は丸潰れだ。

 「洗礼を施したのは、教理局のミハイル司教だそうだ」

 ロレンスが吐き捨てるように言った。

 「兄がエルムの指導者と、ミハイル司教を引き合わせ、洗礼を受けさせたのです」

 ラヴェンローナ公・マクシミリアンが沈痛な面持ちで、ロレンスの後に言葉を続けた。

 「ミハイル司教が…」

 クリスティーネは呆然と呟いた。クリスティーネとミハイルは、郷里が近いこともあって、比較的親しい間柄であった。ミハイルの信仰心の厚いことは、クリスティーネもよく知っている。そのミハイルが、これほどまでに慣例を蔑ろにしてまで蛮族どもに洗礼を施したということが、司教補には衝撃だった。

 (あの人でさえ、政治と妥協するのか)

 たとえば、ロレンスのような男が、国王に懐柔されてエルムに洗礼を施すというのは、良いか悪いかは別として、あり得ることだとクリスティーネは思っている。自派閥の領袖たる第二主教・パトリックにしても、さほどに敬虔な信徒とは思っていない。パトリックが第四主教に反発するのは、国王と結託した第四主教の力が大きくなるのを警戒しているからでしかない。聖職の世界と言えども、所詮は打算と駆け引きと妥協の世界であって、真の信仰者など数えるほどしかいない。クリスティーネは、ミハイル司教こそはその数少ない本物の信徒であると思っていた。そのミハイルが魚肉を食う連中に洗礼を施したなどとは信じたくない、というのが本音だった。

 「次の主教会議では、第四主教がエルムの残りの者たちにも洗礼を施すように主張するだろう。我々としてはこれを阻止しなければならぬ。第五主教と第七主教は我々に同調するだろうが、第三主教などの動きが読めぬ。クリスティーネ司教補、そなたは第三主教の側近たちと親しかったであろう。その者たちに接近して、第三主教の腹を探ってもらいたい」

 「恐れながら主教猊下、もはやそのような根回しをしているような状況ではないと存じます。第三主教はもちろん、第五主教・第七主教も、第四主教派に付いたと見るべきでしょう」

 クリスティーネは政治を嫌っている。そのようなものは信仰にとって邪魔にしかならない。しかし、不本意なことに、貧窮から身を起こして、聖公会という官僚機構の中で生きていくために、教会内部の権力争いと無縁ではいられなかった。名門貴族の次男であるが故に、何の苦労もなく順調に出世してきたパトリックにはわからない人間関係の力学が、クリスティーネには見えてしまう。クリスティーネは、そんなことに心を配っている自分が、ひどく卑しい人間に思えてならなかった。

 主教会議で第四主教派の主張を斥ける心算でいたパトリック主教は、あてにしていた主教たちがすでに敵方に付いているのであろうというクリスティーネの読みを聞かされてひどく困惑した。

 「洗礼が施される前なら、洗礼を認めるべきか否かという議論もできたでしょう。しかしながら、すでに洗礼は行われてしまいました。取り消すことも叶いません。もはや、洗礼の是非が主教会議で議論される段階は終わった、とほとんどの主教はそのように考えることでございましょう」

 パトリックの顔が怒りと屈辱に歪んでいた。

 洗礼は、上級司祭以上の位階を持った聖職者であれば誰でも施すことができる。しかし、洗礼そのものは神の名においてなされるものであり、洗礼を施したのが誰であろうと、ひとたび洗礼を受けたものは、その者は生まれる前から聖公会の信徒であることが運命づけられていたものと解される。すなわち、ミハイルによる洗礼が慣例を無視した、宣教局の職分を侵すものであったとしても、もはやエルムの指導者たちが洗礼を受けたという事実を取り消すことは不可能なのである。指導者たちに洗礼が施されたという既成事実が出来上がってしまった以上、他のエルムの民への洗礼に反対する理由もなくなってしまう。主教会議ではエルムの洗礼を追認するしかなくなってしまったのだ。

 「猊下、今考えるべきことは、洗礼のことではございません。国王の次の狙いをいかに阻止するかを考えるべきかと存じます」

 ラウル国王は、今回のことで聖公会に700万の新たな信徒を獲得させることになった。これはグランディアハン帝国史上比類のない功績であり、この功績によって国王を皇帝に推戴すべきと第四主教が主張すれば、主教会議にはそれを拒むどのような根拠もない。しかし、クリスティーネはラウルのような不信心な男が帝冠を授けられることは容認できなかった。

 「司教補には、何か策があるのだな?」

 パトリックが縋るように言う。帝国は、王権ではなく教会の権威によって導かれなければならない。クリスティーネのエメラルドの双眸に、決意の色が浮かんだ。

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