第3話

 国王・ラウル七世は王都・グランディアハンに帰還すぐに、聖公会教理局主席調査官・ミハイル司教を部屋に呼んだ。ミハイルは第四主教・ディミトリの腹心であり、ラウルにとっては姪の夫でもある。

 「歴史的な大勝、祝着至極に存じ上げます」

 ミハイルの挨拶は、言うところの歴史的な大勝(事実、この勝利は後世長く称えられるのだが)を祝う言葉にしてはごく簡素だったが、背が高く立居振る舞いの優美な青年司教の重厚な物腰は、決して相手に不快感を与えない。ラウルにしても、おべっかを聞きたくてミハイルを呼んだのではないのであって、格式ばった挨拶は求めていなかった。

 「エルムの民は、いつ洗礼を受けられる?」

 42歳の国王は、髭も生やしていないので若々しく見えるが、それだけに、ときとしていつも何かに急かされているような、落ち着きのなさを感じさせてしまうこともある。ミハイルには国王のそういうところを、些か飽き足りなく思うこともある。

 「やはり、魚の肉を食べるのは受け入れ難いという意見が、主教会議でも強うございます。第二主教猊下はもちろん、第五主教猊下や第七主教猊下も、洗礼を施すのは少なくともエルムの食文化を改めた後にすべきではないかと」

 ミハイルの仕える第四主教・ディミトリにしても、大筋において国王を支持しているが、それでも魚肉を口にする人間を信徒として受け入れるのは内心不愉快に思っている。

 「わからんね。何を食ってるかがそんなに大事か。信仰というのは心の問題ではないのか。魚を食うのをやめたら、神を敬うようになるのか」

 国王は軍人として、政略家として類まれな才能の持ち主だが、それゆえに、そのあまりにも現実主義的な思考が、信仰の問題について目を曇らせている。ディミトリ主教が国王と直接顔を合わせず、如才ないミハイルを間に挟んでいるのは、この種のことで国王と直接に対立したくないから、という面が強い。

 「仰せの通り、信仰の本質は心にあります。しかしながら、心のありようを表現するものは形式でございます」

 「そういう言葉遊びを聞いているのではない」

 「言葉に定められた形式こそ本質なのでございます、陛下。陛下はこの世の成功をほしいままにしておられますゆえ、神に頼ることが少うございます。しかしながら、現実の富や名誉を手にできないものたちが、それでも誇りを持って生きるには神に頼らねばなりません。しかし、神の姿は見えません。神の言葉も聞こえません。それならば、人はいかにして神の恩寵を信じることができましょうか。己の生き方が神の意に沿っていると、いかにして信じられましょうか。天の定める形を守ことで、人は己の何者であるかを確認できるのでございます」

 ミハイルの長口上は、国王の耳には入っていなかった。ミハイルも、こればかりはどうにもなるまいと半ば諦めている。

 「ともかく、エルムの民はすでに帝国の市民だ。新たな市民に、相応しい待遇を与えられるよう、主教猊下には善処していただきたい」

 ミハイルは深々と頭を下げて、王に気付かれぬように小さくため息を漏らす。

 「もとより我らもそのつもりですが、陛下におかれましても、身辺にお気をつけくださいませ」

 「どういう意味だ?」

 「勝っている時ほど、敵も増えるものでございます。第二主教猊下や、その周囲の者たちも、このまま手をこまねいているわけでもございますまい」

 ミハイルは、第二主教を恐れてはいなかったが、第二主教派に属しているクリスティーネを警戒していた。能力もあり人望もあり、狂信者ではないかとさえ思わせるほどの信仰心の強いクリスティーネが、このまま黙っているとは思えない。

 「その手の連中を抑えるためにも、審問院を復活させてくれと言っているのではないか」

 そういうことを軽々しく口に出してくれるなと言っているのだ、とミハイルは言いたかったが、この国王にその類のことは理解できない。国王は宗教心も希薄なら、政治についての感性にも欠けるところが大きかった。正義に基づいて行動し、結果を出せば誰もが自分を支持するはずだと素朴に思い込んでいる。

 審問院とは、その名の通り異端審問のための機関であったが、厳格な異端審問は人心を不安にさせるという理由で、長らくその活動を停止している。ラウル国王は、その審問院を復活させ、自らその総裁の座に就こうとしている。この当時、教会の腐敗は著しく、聖職者の汚職や不正は甚しかった。教会の綱紀粛正は世論の要求するところであり、ラウル自ら、教会改革を推進するつもりでいる。とはいえ、40年もの間動いていなかった審問院を復活させ、しかも国王自らその総裁に就任するなどという話を、教会が素直に認めるはずがない。この件についてはミハイルや第四主教・ディミトリが水面下での工作を進めているところであり、そういう計画があること自体、人に知られることは避けたかった。

 「今は特に、何事にも慎重を期すべきときと存じます」

 ミハイルはかろうじて、それだけを言って国王の部屋を辞した。

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