第5話 ALL E

「どうやら、修正が必要になったようだね?」画面の中の祖父が神妙に語る。「どんな過ちを犯したのか、私には想像する以外にないのだが——いや、これはあまりにも邪推であったかな。ともあれ、自分の書き込みを削除したいという気持ちは尊重しよう。どのようなものであれ、取り返しの利くことであれば早急に修正した方が良い。修正や削除することによって意図通り、元通りの状態に復帰させることは十分に可能だからだ」


(まったく、その通りだ! だからこそおじいちゃん、その肝心の取り消し方を早く教えてよ! 大変なんだ! 大変なことになっちゃったんだよ!)


 カナタの顔面は真っ青であった。唇は血色をなくしてカタカタと震えているし、その息遣いは喘息を発症しかけというほどに荒っぽい。そのただならぬ怯えっぷりは、今まさにナイフを突きつけられて脅されているかのようでもある。

いったい、十一才の少年の身に何が起こったと言うのであろうか。



 時刻は暫しさかのぼる——。カナタは朝方、妙な夢を見た。

 学校へ登校してみると友達やクラスメイトが珍しく英語で会話をしていた。カナタはその輪の中に入ろうとして自分も英語を話そうと試みた。だが、そのうち彼らの流ちょうなスピーチについていけなくなり、たびたび言葉を詰まらせてしまうようになる。

 すると友達が呆れた顔を見せ、しかもアメリカンなオーバーリアクションでもって「Good griefグッド・グリーフ(やれやれだぜ)」などと言うものだから、カナタは落ち込んだ。

 その内ホームルームをすっ飛ばして国語の授業が始まった。教壇に立ったのは生粋の日本人教師。彼もまた国語の時間にもかかわらず英語以外喋らなかった。さらに黒板に板書する内容もすべて英語。そんな教師が教科書を開くようやはり英語で指示してきた。

 嫌な予感がしてカナタは教科書を開いてみた。するとやはり……その中身もすべて英語でびっしり。そうして指定されたページに目をやると——『GON FOX』とあった。


(ゴンフォックス? ——あ、『ごんぎつね』のことかな?)


 一応納得したカナタだが、英語で書かれた本文には流石に頭がくらくらした。だが、それもカナタだけのこと。彼の学友は誰一人それを苦にせず、帰国子女かよ、と思わずツッコミたくなるほどにスラスラと音読していく。

 カナタは焦った。もうじき自分の番がやってくる。ここで上手いこと音読できなければ、クラスメイトが一斉に肩を竦めて「Good grief」とか「Just greatジャスト・グレート」などと茶化してくるに違いない。あぁ——あぁぁ——もうダメだ!

 そんな強迫観念に駆られたところでフッと目が覚めた。目が覚めた瞬間、カナタはベッドからずり落ち、頭を床に強かに打ち付けてしまった。

「AHー!」

 少年はとても沈痛な声をあげ、痛む頭をさすった。今朝はなんて目覚めだろうか。カナタは頭をさすりながら、とりあえず夢が夢であったことにホッとした。

 カナタは軽く身支度を整えると、ズキズキと痛む頭をさすりながら一階へと降りていった。そのとき時刻は7時10分を回っていた。

 リビングに入るや、さっそく父母のあいさつが飛んできた。

「Good morning!(おはよう)Kanata!(カナタ!)」

どうやら今朝は英会話が基本らしい。カナタは慣れたものだと、

「Good morning, dad, mom.(おはよう、お父さん、お母さん)」とあいさつを返した。

 カナタの自宅ではあえて英会話で生活する習慣があった。とはいってもそれは朝の時間くらいのものであって、週に一度と言った頻度のもの。これのお陰でカナタは簡単な英語ならお手のものであった。

「You got up really early this morning.(今朝は早いねー)」父は爽やかに言った。「Did you get good shut-eye?(よく眠れたかい?)」

「Like a log, but my head hurts because fell off the bed.(ぐっすりだよ。だけど、ベッドから落っこちて頭が痛いよ)」

 英語で話しているとカナタはオーバーリアクションがちになってしまう。両親がそんなカナタを笑ったり、英語でなぐさめの言葉をかけたりする最中、カナタはテレビのリモコンをサッと手に取って戯れに電源を入れた。

 電源を入れた途端に目に入ったのは、日本国民であれば誰もが知っている内閣総理大臣の深刻な表情だった。大量のフラッシュを御身おんみに浴びて、一言も発してはいないが何故だか顔中汗でじっとりと湿っている。

 この頃の日本はねじれ国会だのなんだのと散々言われ続けていた時期で、国のかじ取りを任された与党は連日のように国民やメディアから厳しい批判を浴びせられていた。

 また何か問題でも起きたのかなぁ、とさして興味もなければ政治のことなどチンプンカンプンのカナタは番組を即座に切り替えた。しかし、切り替えた先でも首相の姿が現れる。カナタは嘆息たんそくしつつ次々とチャンネルを切り替えていった。しかし、その度に映し出されたのはやはり、首相の深刻そうな顔ばかりで——。

 テレビの全チャンネルがドジョウ首相ばかりを取り上げるなんて、どうやらただごとではなさそうだ。だが、カナタは嘆息するばかりでその深刻さに気が付いていなかった。

 テレビを消そうとしたところで母が慌てて「Wait!」と叫んだ。カナタはびっくりしてリモコンを取り落としてしまった。

 恐る恐る母親の顔を見上げた。母は何故だか片手にオタマを握りしめ、口を半開きにぼうっと立ち尽くしている。……いや、母ばかりかその背後に見える父も同じ。二人ともに間の抜けた顔でテレビに食い入っている。

 カナタは呆然としつつ視線をテレビの方に移した。そうしてテレビの端っこに「LIVE」と表示されていることにようやく気が付いた。ついでによくよくテロップを見てみると、『内閣総理大臣緊急記者会見』と書いてある。

 と、おりしも会見の開始がアナウンスされた。緊張の面持ちの首相が佇まいを直すとマイクに向かい一礼。そして、首相が開口一番に放ったのは、


「The governmentガバメント declaresディクリアーズ an emergencyエマージェンシー.」だった。


「非常事態を宣言します」とは穏やかではない。だが、いったい何があったというのか。

 だが、その後も首相が話す内容はとにかく小難しく、カナタの頭では英語を聞き取ることだけで精いっぱいだった。しかし、カナタにもようやく何かがおかしい、ということだけは察することが出来ていた。

 首相は何故だか会見の冒頭からずーっと英語で話している。通訳を介しているわけでもなければ海外向けの報道でもないのに。どうしてここまで英語にこだわるのだろうかと、このドジョウ首相が英語と無縁そうでいながら流ちょうに話す様に感心すらしていた。

 と、そこへ両親たちが「No way!」「seriously!?」と何やら騒ぎ始めた。どちらも「冗談でしょ?」と言っているらしいが、カナタには何が冗談なのかさっぱりわけがわからない。

「No!? I can’t speak really!(ウソ⁉ ホントに話せない!)」

「It can’t be!(そんな馬鹿な!)」

 両親は手足をばたつかせて「何で⁉」「どうして⁉」と互いに尋常じゃないくらいに英語で騒ぎ回った。

 こんな時くらい日本語で話せばいいのに、とカナタは日本語で落ち着いてよ、と言おうとして「Please calm down!(落ち着いてよ!)」と叫んでしまった。叫んでしまって(あれ?)と首を傾げた。


(どうして英語で喋ったんだろう? 自分こそ落ち着かなきゃ)カナタは深呼吸した。


 そうしてカナタは落ち着いての〝お〟を言葉に出そうとして愕然とした。——言葉が出せないのだ。何度試しても普通に〝お〟ということが出来ず、「おぉう」「おぅふ」とか妙な声ばかりが代わりに出てしまう。

 そのうち、「Why!?」「What!?」とカナタも両親に交じって狂乱に陥った。カナタの家の中で英語がこれでもか、というほどに飛び交いまくった。

 テレビの中でも日本人が英語で首相に質問攻めを繰り返し、もの凄い動揺が溢れかえっていた。どうやら、日本人全員が日本語を話せなくなってしまったらしい。

 そのうち両親は、まぁいいか、特に問題でもないし、と突然潔く諦めたかと思えば、そのまま食卓テーブルについて落ち着いてしまった。しかも父に至っては普通に日本語で書かれた新聞を手に取り、その内容に目を留めて「hum」と頷いている。カナタは両親の異常な順応ぶりにおののきつつ、そのときふと疑問が頭をもたげた。


(あれれ? 日本語自体は読めるのかな?)


 カナタは父が新聞を読む様に目を留めた。話すことは出来ないけど、読むことは出来る——。そして突然あることを思い立った。


(あぁ、まさか……!) 


 カナタはリビングから飛び出すと一目散に自室へと舞い戻った。机の引き出しを乱雑に引っ張り出し、もたつきながらもタブレットを取り上げ、素早くMBを起動させた。

 カナタの目的、それは昨晩の書き込みについて。慌てる手つきで最終ページまで一気に飛ばし、表示された最後のページに目を落としたところで——カナタの目は点になった。

 最終ページには日本語でこう書かれていた。


『ローレソス、カンタ、英語しかしょべれぬくぬる』


「What the hell!?(なんじゃこりゃ⁉)」

 まったく、なんじゃこりゃ、だ。カナタはこんなことを書いた覚えはまるでなかった。しかし、よくよく思い返してみれば、昨夜のカナタはダダダーっと走り書きをしたのである。眠気と格闘しながらの、さらに彼の生来の悪筆とが相合わさって、おそらくこのように解釈されてしまったのだろう。

 しかし、それにしてもだ——それにしたって、こんな、たかが一文だけで、こんな大騒動になってしまうというのだろうか。今頃世界中の日本人が日本語を話せなくなってしまい、英語でてんやわんや焦りまくっているかと思うと、カナタは気が気でなくなった。そうしておじいちゃんの昨夜の警告がありありと思い出されてきた。


 ——不用意な書き込みは控えること。誤字脱字には気を付けること。何度もそれを確認すること。世界的に影響を及ぼす可能性があるということをしっかり留意しなければならないということ——。


 全部、すべてにおいて、カナタは警告通りの失敗をしてしまったのだ。


 ——そして、物語はこの章の始まりへ。


「さて、修正の仕方だが、それ自体は簡単なことだ。アプリのメニューコマンドで〝魔法を削除する〟を選べばいい。その際には指紋認証が必要になるが、これは説明の必要はあるまい? そして、肝心の消す項目を指でなぞるのだ。そうすれば、君の書き込みは初めからなかったことのように消え去るだろう」


 カナタはさっそく実行に移そうとした。が、おじいちゃんの「もう一つ大事なことがある!」と強い語気に耳を摘ままれ、カナタの手は止まってしまった。


「削除できる内容は自分の書き込みに限られる。先人たちが残した文章は意図的に削除できないように私がそう設定した。先人たちの偉業を損なうことは歴史の否定に他ならない。画面の前の君は、これを傲慢ごうまんだと思うかね?」


(そうは思わないけど、おじいちゃん早くしてよ!)


「最後にもう一度だけ言う。書き込みを消すのは良いが、今後は後悔するようなことがないよう十分注意して行動して欲しい。——おっと、これもまた邪推であった」


 動画が止まった瞬間がカナタにとってのクラウチングスタート。彼は先人の築き上げてきた世界を壊すつもりなど毛頭なく、とにかく自分の作ってしまった妙な魔法ルールを削除せねばならないという使命感だけに取り憑かれていた。

 祖父のマニュアル通りに操作して、そしてあっという間に、誤字だらけのカナタの文章はMB内からきれいさっぱり消えてしまった。

 カナタはとにかく、それで元通りになることを信じた。昨夜とは逆に、カナタは何度も英語ではなく日本語が喋れるようになることを必死に祈っては何度も言葉にした。それでも元通りになる気配がない。相変わらず日本語ではなく英語が口をついて出てしまう。

 カナタはいつの間にか「I’m sorry.」と何度もつぶやいていた。そうして目には涙を浮かべながら、「I feel very regretful.(本当に反省しています)」と繰り返した。


 それから二分ほどが経過した。


 すっかり項垂れるカナタ。彼が「「please forgive me…(どうか許してください)」と何度目かの祈りを呟いてすぐ、階下から母の呼び声が聞こえてきた。

「カーナター! 朝ごはんできたよー。せっかくの出来立てお味噌汁なんだから。冷めたら美味しくなくなっちゃうよぉ~」呑気で朗らかな声音であった。

 カナタはばっと顔をあげた。それから恐る恐るながらも「はーい!」と返事を返した。


(やった……元通りに戻ったんだ!) 


 目を真っ赤に腫らしつつも、カナタは鼻をズズーっとすすり上げて嬉しさから真上に飛び上がった。

 階下では両親たちが「あれ? 結局元に戻っちゃったね?」なんて会話を交わしながら大笑いをしている。

 それらとは対照的に、テレビの中の首相は笑顔を取り繕いつつも、非常事態宣言まで出しておいて結局元通りになったこの事態に対し、如何に対応すべきか苦慮していた。どこかタジタジながらも、弱弱しくもなければ、力強く、マイク映えのする声音でもってしっかりとした演説をぶち上げ、そして朝の騒動は早々に終結した。


 ——それから数日が経った。『英語騒動』があったのは、奇しくも四月一日のエイプリルフール。そのため、諸外国のメディアでは『日本人が粋な(あるいはやりすぎな)ジョークをかましてくれた!』と連日報道され話題となっていた。

 当の日本では海外の盛り上がりの比ではない。テレビメディアはもちろん、ネット上でも連日のお祭り騒ぎ。あることないこと自由勝手気ままに情報は更新され続け、隣国のマインドコントロールだの、宇宙人の襲来だの、フリーメーソンが新たな世紀の始まりを告げる世界的な実験を行っただの、とにかく根も葉もない噂があらゆるところで流された。それらは〝ジャパニーズショック〟と総称され、一日たりともその騒ぎを耳にしない日はなかった。なにしろ日本国民全員が体験した貴重な出来事だったのだから。

 カナタにとってとりわけ印象的だったのは、超常現象否定派の象徴たる大槻教授と、超常現象肯定派の急先鋒たる韮澤編集長とのトークバトルだ。今回ばかりは大槻教授の分が悪いかと思われたのだが、教授ときたら「その日は昼間まで寝ていて騒動を知らない」発言からのからめ手の連続で、圧倒的優位のはずの韮澤編集長他を圧倒してしまった。

「そんな騒動は日本国民全員がでっちあげたドッキリでしかないでしょぅ」との大槻教授の発言を聞きながら、カナタは本当にそうであってくれたらどれだけ幸いなことかと身を震わせた。

 とにもかくにも、その騒動があって以降、カナタはMBに何かを書き込むことはもとより、MBを開くことすらどこか怖くなってしまった。そのため、騒動があった日以来、暫くの間はまったくタブレットに触れることすらしなかった。

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