第4話 MB③

 カナタがMBを放り出したその日、夕飯時にちょっとした騒ぎが起こった。

「あれれ? 赤飯? 珍しいねー」

 カナタの父は、赤みがかったご飯を眺めながらしげしげと呟いた。

「そうなのよー! 今日はねー、お祝いしなきゃって思っちゃってさー」

 母は異常なまでにご機嫌だった。

「お祝い? なになに? いったい何があったっていうのさ」

「それがねー」と、母はまな板を持ち上げると目元の辺りまで掲げた。ちょうど目から上だけが見える様な状況で、その眼は明らかに嫌がらせのように笑っていた。

「カナタがねー、ちょっぴり、大人になっちゃったみたいなのよー」と言うやキャーっと悲鳴をあげて、今度は完全に顔を覆い隠してしまった。

 そんな母を見て父は大げさに仰天顔を見せた。ついでに「My god!」なんて呟いて。

「カナター、おまえ、ついにママ以外に興味のあるレディが現れたのかぁ?」

 父はカナタの方を振り返った。その父の目に映ったのは、そんな妙な会話が始まる前からずっと白けきった顔をしているカナタの姿であった。

 カナタは返答に窮した。いや、返答をする気にもなれないというのが正しい。お母さんは昼間の勘違いを本気で信じ込んでしまっているようだ。ありもしないことを妄想し、赤飯などと、今時お祝いの仕方としては時代錯誤も甚だしいやり方で示してきたのだ。

 ——いや! 事を大げさにしているのだ。カナタとしてはその状況には我慢ならなかった。——否定したい、否定したくてたまらない。だが、やけっぱちに、あるいはムキになって否定すれば逆効果になることは目に見えている。こうなった両親はもはや馬の耳に念仏どころか、焼け石に水というか火に油を注ぐと言うのか、とにかくSNS上では珍しくもないかまってちゃん以上に厄介なのだ。

「もっちろん、お赤飯だけじゃありませーん! カナタの大好物のハンバーグにぃ、これまたカナタのだーい好きなポテサラもたっくさん作ったんだから~!」母はそういうとカナタにウィンクを飛ばした。「カーナタ、いっぱい食べてねー」

 ウキウキルンルンと小躍りしながら母が持ってきたのは、どんぶりに山盛りどころか扇状に盛りつけられたポテサラである。大好物だが、悪ふざけとしか思えない。カナタは食卓に並べられたご馳走を前にして思いっきりふくれっ面をした。

 そうしてディナーの開始直前になって父はこう言った。

「うーん、美味しそうな料理だねー! しかしだ! せっかくのお祝いというのなら、これだけでは全然足りないだろ? 違うかい、ミキィ⁉」

「エドワードったら、何かいいアイデアでもあるの?」

「もちろん! こんな時こそ、あれが必要だろう?」と男爵声を張り上げると、父はリビングの外へ颯爽と出て行き、どこかの扉を開いたり、階段を上り下りしたりする音を響かせたかと思えば、出て行ってからわずか30秒ほどで食卓に舞い戻って来た。父の眩しいほどのスマイルが、カナタには憎々しくてたまらなかった。

「ジャジャーン!」と言って父が恭しく掲げたのは秘蔵のワイン。

「キャー! ル・パン、ル・パ~ン!」

 二人してわいやわいやとお祭りのように騒ぎだしたかと思うと、ワインのコルクを小気味よく開栓し、二つのワイングラスへトクトクと注いでいった。

「カナタ、おまえも一口どうだい?」なんて息子へお酒を進める不良両親。

「僕、お酒なんか飲まないよ」カナタはむくれっ面のままそう返した。

 とにもかくにも、両親はウキウキとした顔で「ルネッサーンス」なんて一昔前に流行った芸をまねては乾杯を繰り返した。カナタはそんな両親を見やり、重苦しいため息を吐き続けた。そして「おめでとー」と事あるごとにカナタの方を見やってくる両親を睨みつけながら——おめでたいのはお父さんとお母さんの頭の方だよ、と心中で悪態を吐いた。

 カナタはやけ食いを決心した。だが、料理に箸をつけ始めると、そんな苦々しい思いもどこ吹く風と消えてしまった。

 ハンバーグのお腹から大量に溶けだしてくるチーズと肉汁——カナタは目を丸くし、大いに喜んだ。ほっぺたを押さえて満面の笑みを浮かべた。

(まぁいっか、お母さんの料理は神ってて美味しいもんね。勘違いのお祝いも捨てたもんじゃないや——)

 結局、カナタも夕餉を楽しんだのである。

 

 その日再びMBをいじろうとは思えず、カナタは放置しっぱなしのリュックサックに目を留めると、おもむろに中身の整理整頓を始めた。

 リュックの中身は実に他愛のないものばかりで、ほとんどが趣味の本で占められていた。それに加えて春休みの宿題一式。そういえば宿題やってなかった、とカナタは両頬を押さえて「オーノー」なんてカルキン君の真似をしてみた。

 ——と、リュックの中から見覚えのないものが出てきた。それは一枚の白黒写真。妙に古めかしくところどころ赤茶けて掠れてしまっている。肝心の写真の被写体はといえばレトロカーを背景に見知らぬ若い男女が微笑みを浮かべているようだが……。

 外車だろうか。きょうび見かけない形状の車だ。……いや、それよりもそこに映っている見知らぬ男女二人の方が気にかかる。二人ともにおそらく西洋人だろう。具体的な国籍までは求められそうにないが、女性の肩に手を回して如何にもキザに微笑んでいる男性は——カナタは目を細めてじいっと注視した。

 髪型はオールバック。髭は綺麗に剃り上げられていて、若々しくも自信に満ち溢れた目鼻立ちをしている。その全体的な印象にこれといって覚えはないが、下唇の下に薄っすら見える影には何かピンとくるものがあった。

(——あ、もしかしてこれ、おじいちゃんの若い頃の写真かな? すると、隣に写っているのは、もしかしておじいちゃんのお嫁さん——僕のおばあちゃん?) 

 カナタは写真を裏返してみた。すると、そこには何やらアルファベットで文字が書き込まれていた。

「アナスタシウス……ミル……マイル? 何て読むんだろこれ」

 おそらく名前ではあろうが、カナタはその文字をはっきりと読むことが出来なかった。

 カナタは諦めてもう一つの文字に目を移した。そちらの方も悩みはしたものの、どうやら「アリシア」と読めるらしいことだけはわかった。

 おそらくどちらも名前が記されているのであろうが、そうなるとカナタにはまったく縁のない人ということになる。祖父の名前はジョン・ローレンス……まったくの別人だ。

(友達の写真かな? というか、なんでリュックに入っているんだろう?)

 改めて考えてみるに、慌ててタブレットをリュックに仕舞った際、一緒に紛れ込んでしまったということが現実的な答えであった。

 おじいちゃんの宝物の一つであれば失くしてしまっては一大事だ。カナタはそれを大事に机の引き出しの中にしまい、それからすぐに彼の関心は別のものに向かった。

 机の上に放置されていたタブレットを脇にどけると、宿題のプリントを机の上に並べていった。「うげぇ」と呻きながらもカナタは宿題に取り組んだ。そうして夜はどんどん更けていった。



 それから数日が経過した。三月もついに残り一日となり、翌日からは新年度が始まるというタイミング。

カナタは部屋の開け放った窓から外をジィッと眺めていた。その様はさながら年月の移り変わりを待ち望む旅人のようで、少年はこの日、一つの決断を下そうとしていた。

 カナタ少年はその後もMBについて主に祖父の動画を参考にしながら調べ続けていた。その甲斐あって、MBの主な使い方について理解を深めていた。

 MBを用いれば古今東西ありとあらゆる魔法(神秘)について参照することができ、しかも電子化したことで検索が容易になり、そこへさらに翻訳機能のオマケつきときている。

 しかし、その肝心の翻訳機能はまったくあてにならないとあって、カナタはいささか落胆せずにはいられなかった。

 祖父は翻訳作業に取り掛かるつもりであったらしいが、このMBという全体の大枠を作り終えるのに時間をかけ過ぎてしまったようだ。つまり翻訳作業に入る重要なタイミングを前にしてこの世を去ったということだ。しかし、祖父はこうも言っていた。そんな事態も見越して前もって別の手段を仕込んでいると。それはつまり、翻訳作業をAIに託したということである。それもただのAIではなく、魔法的AIなどと呼称していたが、そのAIによっていつかはほぼすべての項目を日本語で参照可能になるというからには、それに期待を寄せる以外になかった。

 ならば、少年に出来ることは待つことだけだろうか。

 ——いや、そうではない。MBにはもう一つ、参照すること以上に強烈な、裏技のような使い方が説明されていた。それを知った時の彼と来たら、注意されることがわかっていながらにして火遊びに興じてしまいそうになるやんちゃもののように、何度も危険な誘惑に駆られてはそれを跳ねのけたものだ。だが、それももう我慢の限界に来ていた。

 カナタは窓を閉じると夜気をシャットアウトした。さらにカーテンを閉じて暗闇の侵入さえも防ぐ。机へ向かう前にベッドのヘッド部分に置かれた時計を見た。時刻は二十四時に迫っている。カナタは椅子に座り、机の上のタブレットを軽く持ち上げた。画面には既にMBの重厚な表紙が映し出されていた。

 複雑な螺旋模様を眺めながら、カナタは右手を胸にあてて心臓の鼓動を確かめた。

 ドクリドクリ——と、その脈動はいつもよりもずっと力強く、早く弾んでいる。

 好奇心がさざなみのように騒めき始めた。そうしてゴクリと喉を鳴らした。

 今度こそ引き返すまい——、そのような心地でゆっくり人差し指をタブレットに当て、左へと滑らせた時、その動作に合わせて書の表紙が指でめくったかのように翻っていった。

 一瞬、反射的に目を閉じかけた。——が、神字がすさまじい光を放つこともなければ謎の圧力を投げかけることも、奇妙な音響を響かせることももはやなかった。文字は静寂と神秘的なオーラに包まれて、虹色にキラキラと輝くばかり。

カナタは画面端の便利ボタンをヘビの潜む穴に指を差し込まんとするように、恐る恐るタッチした。居並ぶ項目——カナタの視線は一点のみに注がれた。


『新たな魔法を作る』


 それはカナタが見た動画の中でも特に注意深く説明されていた。祖父曰く、この書の真の意義は、参照することにあるのではなく、新たな魔法を作り出すことある、と。

 カナタは意を決してタップした。

『!WARNING!』との赤文字が殊更に不安を煽り来た。続けて『現実世界に影響を及ぼしかねないため、使用には十分注意してください!』との仰々しい警告文まで表示された。

 カナタは祖父の忠告を思い出してみた。——不用意な書き込みは避けること。どんな結果が反映されるかもわからないため、ふざけた書き込みは絶対禁止とも。また誤字脱字にも十分注意せよ、とも。さらに恐ろしいことにはこんなことも。


「先の忠告にも絡むことではあるが、最後に、絶対にしてはいけないことを声高に伝えておこう。ずばり世界が滅亡するなどと言った不穏当な書き込みだけは絶対にしてはならない。書き込んでしまえば——言わずともわかろう? この世界でこれまでと変わらず安穏としていたいのであれば、それがどれだけナンセンスなことであるか馬鹿でもわかるはずだ」


 そう言う祖父の目は怖いくらいに真剣だった。


「この書は魔法を作り出すだけでなく、世界の構造そのものを変えてしまう程の影響力を秘めている。到底信じられないことであろうが、ただのその一文が現実に影響を及ぼすということをちゃんと胸に刻むことだ。わかったかね?」


 カナタは思い出してみて特別怖がると言うことはなかった。子供特有の全能感とでも言うのか、あるいは物事への深い考察を省きたくなる性と言うのか、そういったものを、多くの子供たちの例にもれず、カナタも有していたから。だがもちろん、興味本位から世界を滅亡させるようなことはしないし、「押すなよ、絶対に押すなよ!」と念を押されてお約束通りのことを起こすような少年でもない。とにもかくにも、カナタは魔法が使いたかったのだ。

 タブレットの画面に指を落としかけて、カナタはいったん深呼吸する。すると、ふととある場面が思い起こされた。大好きな小説の主人公が、期せずして闇の帝王の日記を入手し、それに書き込みをした時の場面。それとこれとでは状況も深刻さも何もかも違うけど、初めて書き込もうとした時のドキドキ感だけはきっと、今の僕と似ているんじゃないか。

 その時ちょうど、時刻は零時を回り、ついに日付が変わってしまった。それから間を置かずして、両親が二人とも部屋の扉の前で「おやすみ」と声をかけて行き、「あんまり遅くまで起きてたらだめよー」なんて言って通り過ぎていった。ついでに「エッチなことも控えなさいよ~」などと母が言っていくものだから、カナタは不躾な母にデリカシーが備わるよう書き込もうかなどとほんの一瞬だけ考えた。

 いやいやダメだ。そんなことのために使うものか。魔法を使うのだ。魔法を——。

 しかし、そこでハタとカナタの指の動きが止まった。

 ……ちょっと待てよ。魔法を使いたいから魔法が使えるようになると書いて、それで実際に使えるのか? 具体的に内容を決めないといけないのではないだろうか? 

 カナタは机の上の手近なノートを引っつかむと荒々しく開いた。これまた乱雑に置かれた鉛筆を一つ鷲掴みにし、カリカリとノートに文字を打っていく。空に浮く——ものを浮かす——何かを燃やす——透明になる——窓ガラスがひゅっと消える——。いろいろな候補が次々と現れていき、同時に時間もコチコチと過ぎていく。

 長いこと思案しているうちにカナタの頭は混乱してきた。そのうち突拍子もないことが思い浮かんだ。

 ——ちょっと待てよ。魔法が使えるようになったとして、魔法の学校がもしもあるとして、僕はそこにどうやって入学するんだ? 小説のようにフクロウが入学案内を届けてくれるのだろうか。——いやいや、僕はもう十一歳だ。あの古城の学校にはどうあがいても入学できない。あぁ、そんな……。——いやいや、そもそもあの世界は現実に存在しない。だけど、もしも魔法学校が存在するとして、それは日本に存在するんだろうか。もし日本になく、海外にしかないとしたら——あぁ! 英語が話せないとまずいんじゃないか? 日常会話なら大丈夫だけど……。

 それはもはや妄想、夢物語。いや、錯乱していると言えた。

 時が零時半を刻んだことにも気づかず、意識朦朧、あるいは混濁と言って差し支えないほど煮詰まってしまったとき、カナタはついに決断した。どうせこれは実験なのだ、と。

 カナタはノートを放りやり、タブレットを自分の前面に持ってきた。端末画面は一瞬たりとも休んだりせず、少年の判断をひたすら待ち構えていた。

少年は指を走らせた。入力にはキーボードではなく自身の指で筆記せねばならなかった。

 カナタの頭の中ではこんなフレーズがお願い事のように繰り返されていた。英語が喋れるようになる——英語が喋れるようになる——、と。そうして書き上げるや否や、大して確認することもなく、カナタは自信満々で決定ボタンを押した。

『書き込みが完了しました』と表示された瞬間、体の中から何かが風船のように音をたてて萎んだ。カナタは喜ぶより前に大きな欠伸をした。そして、その成果を確認しようとして頭の中でとある名句を思い描いた。それはカナタの大好きな魔法世界の名シーン。校長先生が、最後に主人公たちの寮へ加点する際に送ったとびきりの名言。

 だが、さっそく英語訳してみようとして、しかし、戸惑った。

(あれれ? おかしいなぁ……英語が喋れるようになるって書いた筈なのに、ちっとも英語に訳せそうにないぞ?)

 カナタは暫くウンウン唸りながら、なんとしても英語訳しようと考え、さらに口ずさんでもみた。……が、その時はついぞ来なかった。

(もしかして、効果が出るまでに時間がかかるのかも)カナタはため息を吐くと、時計を見て慌てた。——夜中の一時⁉ あぁ、もういい加減寝なきゃ!

 そうしてカナタは、MBの中身を再度確認することなくいそいそとベッドに潜り込み、そのまま三分とも経たないうちに眠り込んでしまった。

 彼の口から「Zzzzzz」との寝息が漏れ出した。のんきな少年は既に夢の中へ……。彼は知らない。この日の書き込みが、人生最大にして最悪の結果を生み出してしまうということを。

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