第3話 MB②

 閉じ切られたカーテンから淡い明かりが漏れ出していた。微かな暗がりの中で、赤毛の猫が少年の起床を不機嫌そうに見守っている。

 カナタは静かに目を開け、朝の到来を知った。ゆっくりと身を起こすカナタの身体に冷たい空気が這いあがってくる。カナタは布団を抱きしめ、再び横になった。

 三月末とはいえ熊本の朝方はまだまだ身に染みる寒さを残していた。暦の上では春だが、温かな響きを含んだその言葉ほどには快適とはいえなかった。

 ベッドのヘッド部分に備え付けられたデジタル時計がちょうどその時七時半を告げる。ピピピ……っと、けたたましい目覚まし音が響き、カナタは怠そうな声をあげるとアラームを中断させた。

 着替えを済ませたカナタは階段を小気味よく降りて行き、三段目に差し掛かったところでぴょんと飛び降りた。それはカナタ流のルーティーンワークと言っていい。

 向かう先はリビング兼ダイニングルーム。その開き戸の前に立つと、父と母の歓談が朝餉の香りとともに漏れ出てきた。

 カナタはゆっくり戸を開いた。すると彼の登場を狙いすましていたかのように、父母が「おはよう」と爽やかに呼びかけて来た。カナタは照れ隠しのつもりで少しぶっきらぼうに「おはよう」と返した。

 カナタの父エドワードは生粋の英国人。祖父譲りの彫りの深い顔と白い肌——少年の容姿の大部分は彼譲りなのだろう。そんな父の手には新聞が。日本語で埋め尽くされた日刊新聞を読んでいる様はちょっぴり不思議。英字新聞を読んでいる方がよほどお似合いなのだが、カナタにとってそれは当然の光景だった。

 カナタは父とは反対側の席へ回り込み、椅子を少し後ろに引いて、ぴょんと跳ねるようにして座り込んだ。あらゆるものがまだ彼の背丈にはちょっぴり大きかった。

「いいなー、カナタは春休みで」とさっそく父が話しかけてきた。

「春休みなんてあっという間だよ」とカナタは返した。

 父はハハッと笑い「二週間の休暇なんて、大人にはほとんどないんだぞ」と言った。

「夏休みくらいもっと長ければいいのにって思うけど」

 父は大げさに仰天した素振りを見せ、

「カナタは贅沢だなぁ——父さんは休暇が恋しいよ」と天井を仰いだ。

 二人の話の最中、母はカナタの前に朝食をテキパキと並べていく。ご飯と味噌汁、そこに目玉焼きとウィンナーにサラダがセットになったプレートが揃うと、それだけで朝食の準備は完了。彼らは毎朝同じメニューを食べている。

 だが、例外が一人。母だけは元来トースト派。初めの頃こそ皆に合わせて白米を食べていたのだが、いつの頃からか一人だけトーストを食べるようになっていた。

——と、カナタの朝食の準備を終えた傍から、焼き上がったばかりのトーストを早速立ち食いしている。

「一緒にご飯食べればいいのに」と父が言った。

「パンの方が早く済んで手間がかからないんだもーん」と、母は流し台の前に立って呑気に言った。

「お母さん、たまには僕もパンが食べたい」

「子供はご飯って決まっているのです」言って母は何故かどや顔を決める。

「えー、そんな決まりどこにもないでしょー?」

「いーえ、カナタが一生懸命お勉強できるようにって思って、朝ご飯は白飯って決めているのでーす」

「えぇ~、春休みの間くらい、いいでしょー?」カナタは唇を尖らせる。

「まぁまぁ」そこへ父が朗らかに仲裁に乗り出した。「昼間にでも食べればいいじゃないか。カナタはパンの方が好きなのか?」

「うーん、ご飯の方が好きだけど……」言ってカナタはトーストをかじっている母をチラと見た。「お母さんが食べてるのを見ると、何だか美味しそうに見えるんだもん」

「パンは美味しいわよー。トースターで焼くと、外はカリッ、内側はモチっ——そこにバターを塗ってごらんなさい……余熱で溶けて徐々に広がって行く黄金に輝く乳脂! それを見ているだけでもうよだれが零れ落ちそう——トレビアーン!」母はパンを口に咥えたまま、バレエダンサーのようにクルリと優雅に回転した。

 カナタ宅の朝食は総じて賑やかだ。黙々と朝食を食べるようなことは希なことで、父も呑気だが、母は呑気を越えて超能天気だ。カナタはそんな父母を眺めながらいつも可笑しそうに笑っていた。

 一年前であればそこにおじいちゃんの姿が加わりもっと賑やかだった。そのことを考えると少年の気分は少しだけ陰った。それでもカナタは努めて明るくしようと振舞った。しかし、それは何もカナタに限ったことではない。

 父がそろそろ仕事に出掛ける、という頃になってカナタは一つ質問をしてみた。

「ねぇ、おじいちゃんって、昔は何の仕事をしていたの?」

「うん? おじいちゃんなら、大学の先生をやっていたよ」

「それ以外にも何か別の仕事をやってたの?」

「別の仕事? うーん、どうだったかなぁ——」

「パソコンとか、電子機器は得意だったのかな?」

「いやぁ、どうだろう……父さんの記憶にはないなぁ。未希(みき)は何か覚えてる?」

「わたし? わたしも見たことないわねぇ。お義父さんったらケータイすら持ってなかったでしょ? たぶんパソコンなんて触ったこともないんじゃない?」

「そっかぁ——」カナタは頬杖をついた。

「どうかしたのか?」

「ううん、何でもないよ。ちょっと気になっただけ」カナタはにこやかに笑った。


 その日の昼食はカナタの希望通り、トーストがメインであった。ただパンを焼いただけでなく、パンの上にトマトと千切りにした玉ねぎ、それに冷凍のエビやとろけるチーズを乗っけた簡易ピザトーストだ。カナタは喜んでそれを頬張った。

 昼食を済ませた後、カナタは部屋に戻り、ベッドに座り込んで再びタブレットを覗き込んだ。画面に映し出されているのは昨夜から変わらず特殊なアプリだけ。両親の話によれば祖父はPCすら使っていなかった可能性が高い。しかもケータイすら持たなかったと言うのだから筋金入りのアナログ人間だろう。そんな電子機器と無縁の祖父がタブレットを手にするなどと、原始人が狩りの道具に拳銃を愛用しているような違和感があった。

 昨夜の動画も思い返すと異様だ。内容はちっとも頭に入ってこなかったが、MBが大層な代物であるということだけは理解できた。だが、問題は祖父の話しぶりだ。祖父は魔法の話に詳しい人ではあったが、あれでは魔法に詳しい一般人というよりも、自分も魔法界の住人であったかのように思われなくもない。祖父は一度として「自分は魔法使いである」などとは言ったことがないのだ。

 タブレットそのものも奇妙だ。外部から遮断されているという割にアンテナマークはちゃんと機能している。見せかけだけの可能性もあるが、通常の端末同様、二本立ったり三本立ったりと電波の深度が時々刻々と変化する。

 もう一つ普通でない点があった。電池の残量がまったく減らないこと。昨夜電源を入れてからそれなりに使い込んだはずなのに、満充電の状態から一切減っていない。もしかしたら壊れているのかもしれないし、あるいは別の理由で減らない可能性もある。

 なにはともあれ、カナタはもう一度祖父の残した動画を調べることに決めた。しかし、彼は昨夜見た動画をもう一度再生しようとは思っていなかった。小難しい話を延々と聞かされても眠たくなるばかりだから。もちろん、どれもこれも自分には難しい話ばかりかもしれないのだが、ひとまずカナタは他の動画をタップしてみた。しかし——。

「あれ? 動かない……?」

 動画を再生しようと何度も試みるが『視聴制限が掛かっています』と表示されて見ることが出来なかった。

 うーん、と悩まし気に息を吐きながら、カナタは指で動画ファイルをゆっくり下へスワイプしていった。動画ファイルにはもれなくタイトルが付されているようで、昨夜見たファイルには『MBの概要』と書かれていた。他のファイルに目を通すと『MBの基本的な使用法』『MBへの書き込みについて』などと附されていることから、おそらくマニュアルであろう。しかし見られないのであればそれも意味を為さない。

 カナタは自棄になって画面を乱暴に弾いた。ファイルが高速で下へとスクロールされていく。文字や記号がすべて線のように繋がっては流れて行き、ついには底にまで達した。

 ——と、すっかり覇気の失われていたカナタの目に、唐突に明るい光が灯された。

「これ、もしかして、僕の名前……」

 間違いない。動画ファイルのタイトルが『Dear Kanata』となっている。カナタは食い気味にそれをジッと眺めたあと、意を決するやその動画をタップした。

 どうか見られますように——。その願い通り、動画ファイルは無事に再生され始めた。

 その動画は昨夜の動画と同様に、どこか薄暗い場所で撮影されたもののようだ。祖父は微笑んでいるのか苦笑しているのか、一言では言い表せない複雑な表情を浮かべている。カナタは祖父が話し出すまでジッと待った。


「これを観ているのがもしカナタだとすれば……おじいちゃんは少しばかり複雑な心境だ。カナタ……すまない。おじいちゃんは約束を守れなかったということだろう? 私は今、おまえの傍にいられなくなってしまった、そういうことだろう?」


 祖父が口をつぐんだ瞬間、カナタも同様に口をキュッと引き結んだ。祖父が語りかけてくれている。だけど、祖父の口調も、自分を思っているであろうその瞳も、実に悲しそうで、憂いに満ちている。


「カナタ、よく聞いて欲しい。すでに他の動画を観たあとかもしれないが、このタブレットはとても大変なものなのだ。君が望んで止まなかった魔法について、このタブレットはヒントを与えてくれる。いや、君が望んでいた通りのものをいとも簡単に与えてくれるはずだ。しかし、出来ることならこのタブレットは使わないで欲しい。むろん、このタブレットのことは誰にも言ってはならない。他人に知られては非常に危険なものなのだ。だからどうか、これを元の場所にそっと戻してくれないだろうか」


 画面の中の祖父は眼鏡を外すと、自身の額に手を当てて下を向いた。そうすること数十秒、祖父は再び正面を向き、カナタと向かい合った。祖父の瞳は潤んでいた。


「だが、もしもカナタの思いがことのほか大きく、純粋に魔法を求めているのであれば、おじいちゃんはもはや止めはしない。——その代わりにどうか約束して欲しい。君が自分の決断に責任を持てるようになるまでは、これを使わないと。これはおじいちゃんからの最後のお願いだよ」そう言って祖父は自身の胸に手を添えた。


「——カナタ。できることなら指切りでもしたいところだが、あまりにも遠すぎるよな。結びたくても結び難い——この距離はもはや埋めたがたい」


 カナタの頬を涙が静かに伝った。止めようと思っても、もはや止めようがなかった。彼は祖父とともに涙を流した。啜り泣きとともにカナタを呼ぶ声が何度も響いた。さらにカナタに対して祈りのような、願いのような言葉を一生懸命に語りかけてきた。

 カナタの顔は涙と鼻水でクシャクシャになってしまった。それはお別れの言葉なのだ。出来ればずっと、祖父の死を受け止めることなくいたかった。だが、もう意識せずにいることなど不可能……。おじいちゃんとはもう絶対に会えないんだと、この時、カナタは初めて現実を受け入れた。

 時を超えて繋がった二人の緩やかな時間——。それもやがて終わりに近づいていく。カナタはようやく目元を拭い、そして何度目かの深呼吸を繰り返したのちに画面を見た。その間、動画は止まることなくずっと再生され続けていたが、不思議なことに祖父はモノ言わずカナタを見つめていた。慈愛に満ちたグリーンの瞳——優しく温かな瞳。それはまるで、カナタが泣き止むのを、落ち着くのを、ジッと待っているかのようであった。

「——おじいちゃん、僕、大丈夫だよ。寂しいけど、僕はちゃんと受け止めるから」

 画面の奥で祖父が頷いたような気がした。そんなことはあり得ない。これは動画なのだから偶然そう思えただけだ。カナタはしかし、祖父の思いが今ここに存在しているかのような、そんなあり得ない何かを感じていた。


「カナタ、よく聞いて。マスターブックはね、世界中のすべての神秘が詰め込まれている。それはもう気の遠くなるような長い時をかけて、たくさんの人々によってこの本が作り上げられてきたという証なんだ。カナタが信じたあの魔法の世界に似た世界も、この本によって作り上げられた世界の一つなんだよ。この本一つあれば、その世界以上のことを知るきっかけになる。この世界には我々の想像の及ばないほどの広大な世界が広がっているということをね。……素晴らしいとは思わないかい? だが、それだけにとても危険なものだと言うことも理解して貰わねばならない。カナタにも、それはわかるね?」


 カナタはおじいちゃんに向かって小さく頷いた。


「カナタは賢いからな。きっとわかってくれているだろうね」満足そうに微笑む祖父。「——さて、そんなカナタのために、最後にヒントをひとつだけ伝えておこう。カナタはおそらく、マスターブックを開くことが出来なくてさぞやがっかりしたことだろう。だが安心しなさい。君はすでにその答えを知っている。その答えは君の心の中にこそある。いいかい? 常に正しい心で、自分の真心を偽ることなく正直でいなさい。そうであれば君はきっと真実に辿り着く」


 おじいちゃんはそう言うと、優しい微笑をカナタへ向けた。カナタはその言葉とともに、おじいちゃんの姿を永遠に留め続けた。瞼を閉じれば脳裏に浮かぶ。どれだけ時が経とうとも色あせることなく、永遠に。


「カナタ——愛しているよ。お父さんとお母さんのことを、大切にするんだよ」


 そう言い終わるや、動画は唐突にストップし、元の一覧へと戻ってしまった。動画ファイルがズラーっと居並ぶだけの画面。そこへ眼を落したまま、カナタは暫くの間身動き一つできなかった。


「おじいちゃん……僕もおじいちゃんのこと大好きだよ」


 カナタは背筋を伸ばすと思い切り伸びをし、そのまま天井を仰いだ。しっとりとしたしめやかな気持ちを徐々に解きほぐし、最後に流れてきた涙を拭った。そして彼の中に残ったものは、夢を見据える少年の心であった。

 祖父ははっきりと明言した。この世には魔法があるということを。しかもマスターブックもといMBを開くことが出来れば魔法の力を使うことが出来るようになると。さらに、MBに辿り着くための鍵もすでに知っていると言った。それはつまり、日々の生活の中に、あるいはこれまでのカナタの記憶の中に、その答えがあるということを示唆しているのではないか。しかし、そうはいっても記憶などというものはあやふやだ。どうしても忘れてしまうものだ。これまでの十一年間、たかが十一年とはいえ、刻んだ時間は膨大で、さらにその間に起きた思い出の数々も莫大なものだ。

 探し出すことなど不可能なのではないか、そんな思いがカナタの脳裏を一瞬過ぎる。だがすぐに思い直した。祖父はカナタにならきっと辿り着けると断言した。ということは、それはきっと難しいものではなく、単純で明快なもの——いや、自分の心に深く根付いている言葉に違いない。何となく過ぎて行くものではないはずだ。日々の生活に埋没してしまうようなものでもないはずだ。学校や家庭でのなんてことない雑談なんかはきっと忘れてしまう。そもそも祖父が知っていると明言したのだから、祖父との思い出の中にこそそのヒントはあるはず。

 カナタは思いを巡らせながら、ベッドから立ち上がった。そして部屋の中をウロウロと歩き回り、何度も天井を見上げてみてはタブレットに目を落とし、それはさながら、名探偵が事件の謎を追うために延々と推理を重ねているようであった。

 考えているだけではらちが明かない。カナタは試しにいくつかの候補をパスワード画面に入力してみた。結果はダメ。しかし思い浮かぶ候補は軽く十個を超えていた。だが、どんなワードを入力したところで『Wrong Password』が積み重なるばかり。

 カナタは次第に小さく可愛らしい呻き声を発しながら、右の耳たぶを人差し指で弾いてもてあそび始めた。そうして祖父が動画の中で言っていたことを思い返してみた。


 思い出——思い出——心の中にこそある——常に正しい心で——真心を偽らない——正直さが真実にたどり着く鍵——。


 少年の頭の中を様々なワードが巡る。ぐるぐる。ぐるぐると。言葉は星のように意識に散りばめられ、種々の輝きを放った。それらは強く明るく、あるいはか細く、時には明滅を繰り返し、あるものは遊ぶように流れて行く。それらは銀河の渦を作り、天の川のように少年の頭を言の葉の光で埋め尽くした。

 カナタは背もたれに勢いよく寄りかかり、大きくプハーっとため息を吐き出した。それはさながら深海に潜っていたクジラが空気を求めて浮上した時のように。

 のどの渇きを覚えたカナタは気分転換をしようとリビングへ飲み物を取りに行った。

 リビングでは母がソファーの上に正座をしてジーっとテレビに見入っていた。

母はテレビに集中すると目つきが悪くなる。画面の中の人々を睨みつけているようにも見えなくもないが、ただ真剣なだけなのだ。

 カナタは冷蔵庫へ向かう道すがらテレビをチラッと覗いた。

『偉大なるファラオ ラムセス二世』とテレビの右隅っこにタイトルが表示されていた。エジプトの砂漠を背景に、ヒゲが印象的なふっくらとした男性がうんちくを披露している。どうやら最近あった特番の録画を観ているらしい。

 母は古代史に目がない。とはいえそれは学術的な興味関心があるという意味ではなく、世間一般が有する歴史ロマンの類を好んでいるというに過ぎない。さらに付け加えるなら、オーパーツであったり、バミューダトライアングルであったり、都市伝説と言ったものを母は大いに好んでいる。

 ちなみにカナタもそういった類の話が大好きだ。母とそのような話をし出すと夜中まで話し込んでしまって気付いたら0時を回っていた、などということは珍しくもなかった。ツタンカーメン王墓を発掘したメンバーが呪いで次々と不審死を遂げたとか、ギザのスフィンクス像はピラミッドが作られた時代よりももっと大昔に作られた、だとか、根も葉もないデマであると世間では否定されているようなことであっても、彼らは心のどこかでは信じている。そして何より、母は魔法と言ったものの存在は信じていないのにも関わらず、呪いだのあの世だのと言った話は信じているようなのが、カナタにはちょっぴりおかしくもあった。

 カナタは冷蔵庫の扉を開くと、二段目の棚から缶ジュースを二つ取り出して見比べた。一〇〇%ぶどうジュースと、同じく一〇〇%リンゴジュース。そのパッケージをジーっと見定めること数秒、——カナタはリンゴの方を選んだ。そして飲み口をキュポっと軽快に開けるや、一気飲みした。

「うっわー、すっご。どんな色男だったから子供一〇〇人も作れたっていうのかしら」と母は大口を開けてテレビに向かっている。

 テレビの中では上半身裸の浅黒い男が、女性たちに囲まれて典雅に微笑んでいた。この世の全てを手に入れた男とでもいうような、自信に満ちた表情がなんとも眩い。しかし、カナタはそれを特別羨ましいとは思わなかった。

「お母さんは僕の他に子供が欲しいって思わなかったの?」

「えー、なになに?」母はカナタの方へ正座のまま振り返った。「弟でも欲しかったの?」

「うーん……特に考えたことはないけど」

「そうねー、三人も四人もいたらきっと賑やかだったでしょうねー。だけど——うん——わたしはカナタがいてくれただけで十分幸せかなあ」

 母はいつもの調子で、しかし、とても朗らかにそう語った。

 カナタは少しだけ面食らった。急に気恥ずかしくなり鼻頭をひと掻きする。

「いきなりそんなこと言われたもんで、照れただろー? カナタくーん」

「別に! そんなこと全然ないよ」と、まったく動揺を隠しきれない少年。

「ふっふー、わたしはねー、カナタを一目見た瞬間に、運命だ! って感じたのよねー」

「意味わかんないよ」

「まぁまぁ、照れちゃってかっわいいー!」

 母はクスクス笑いながらカナタを冷やかした。

「運命だなんて、そんなのは初恋の人に対して思うことなんじゃないの」と、カナタはいよいよ顔を真っ赤にして言った。

「ふふー、愛いやつよのぉ」なんて茶化しつつも、母はニコニコしながら「だけど、本当にそう思ったのよ。この子はきっとわたしを幸福にしてくれるってね。カナタくん一人いればじゅーぶん! わたしには一〇〇人の娘、息子は手にあまりまーす」と言って快活に笑うや、テレビの方に向き直ってしまった。

 そんなことを恥ずかしげもなく言える母にカナタは絶句した。そして照れをどうにか振り払おうとして頭の中では一〇〇人の赤ん坊の姿を思い描いていた。

みんなが一斉にお腹を空かせて泣き始め、その泣き声が四方八方から津波のように襲い掛かってくる。あやしてもあやしても誰も泣き止まず、しまいにはカナタもその泣き声に唱和する。かくして一〇一人の泣き声が世界を震撼させる、世にも珍しきベビーハウスの誕生。——いやいや、そんな光景は保育園でもあり得ないだろう。

 カナタは母がテレビに集中している間にこっそりリビングを抜け出した。耳まで真っ赤になってしまった顔を、母に見られたくなかったからだ。

 それにしてもエジプトか。まさかこんな話になるなんて思いもしなかったなぁなんて思いながら階段を上がっていると、突如カナタの脳裏に閃くものがあった。


(——エジプト! そういえばおじいちゃんの好きな言葉、あれがあったっけ。どうして忘れてたんだろ……バカだなぁもう!)


 カナタは自室に一目散に駆けこんだ。机の上には起動しっぱなしのタブレットがパスワードを入力しろと要求している。さて、早速パスワードを入力してやろうじゃないか——と、そこで気が付いた。なんて入力すればいいかわからない!

(どうやって入力しよう……日本語入力? でも、それだと弾かれるかも。アルファベットで入力しなきゃダメなんじゃ。——あぁでも、綴りがわからないよ!)

 カナタはモモ上げでもするかのように机の前でジタバタした。

 下に降りてパソコンで検索しようか、あぁでも、下に降りるのが面倒だ、なんて考えながら知らず指でタブレットをいじっていると、何を触ったのか突然、キーボード入力に代わって別の機能が作動した。

 いつの間にか画面上にマイクのマークが灯っていた。カナタは試しに収音部分を指で小突いてみた。すると波ひとつない水面に石を投げ入れた時のように、そのマイクのマークを中心にして幾筋もの波紋が広がっていく。

 カナタはドキドキしながらマイクに向かって声をかけた。すると喋った内容がちゃんと画面上に反映された。

 あぁでも、発音が正しくないと認識しないかも——うーん、もうやぶれかぶれだ!


「マアト!」


 カナタはマイクに向かって叫んだ。するとこれまでの無機質な回答とは異なり、南京錠が解かれる簡素なアニメーションが流れ、パスワードが解除された。

 マアト——それは古代エジプト語のひとつ。その言葉一つに実に多くの意味が内包されていて、ずばり「心臓=心」を意味し、さらに「真実」や「正義」、それに「法」といった意味をも有する多義的で厳格な言葉だ。さらにマアトという言葉はやがて神格化され、エジプトの女神にまでなったという。

(これでようやく『MB』が起動できる!)

 カナタの目は歓喜に輝いた。そして本が開くかと思いきや、その期待を裏切ってまたもや入力を要求された。

「えーと、『Who are you?』ということは——」つまり名前を聞かれている。マイクのマークがまだ点灯していた。そのため、カナタはマイクに向かって自分の名前を呟いてみた。すると、画面に「OK」という文字とともに、今度は文字入力を要求する項目が現れた。しかもキーボード入力ではなく、筆記入力しなければいけないらしい。

 カナタは一旦椅子に腰を落ち着けると机にタブレットを置いた。ここまで来たら面倒などと言っていられない。どこかワクワクするような気持ちでタッチパッドに自分の指先を滑らせていった。

 カナタの文字は細く小さく、それでいて汚かった。両親のどちらに似たのかわからないが、本人に悪筆の自覚はない。辛うじてローレンス・カナタと認識できる文字に向かって、カナタは誇らしげに微笑むとエンターを押した。

 これで完了か? いいや、まだまだ……。生年月日に血液型、国籍に使用言語ときて、さらには好きな書籍や将来の夢などといった訳の分からない項目が次々に示された。だが、この時のカナタのテンションはハイになっていた。すべての質問に疑問を持つことなく馬鹿正直に答えていき、いったい何項目に答えたことだろう、ようやく最後の入力にまでこぎつけた時には軽く五分を要していた。

『両手のひらを画面に合わせてください』

 子供の手は小さいとはいえ、両手を同時に合わせるのは無理がある。そのため、カナタはまず右手のひらを画面に収まるように軽く押し当ててみた。すると一瞬スキャナーのような光が画面の隙間から走ったかと思うと、エレベーターが到着の合図を報せるようなピンポンという音がなった。

 画面から手を離すとカナタの手形がモニターに浮かび上がっている。カナタは自分の右手のひらとそれを交互に眺め、同じ手相であることがわかると頷いた。さらに今度は左手のひらを画面に乗せた。すると先ほどとまったく同じことが起こった。

『両手の指紋認証が完了しました』と画面にはそう表示されている。そういえばいつの間にか案内文が日本語で表示されるようになっていることに、カナタはこの時点でようやく気が付いた。


『MBはただいまを持ってあなた専用のものとなりました。

ローレンス・カナタ、どうか良きMBライフを』


 画面に表示されたその文字は次第にフェードアウトしていき、そして残されたのは重厚感たっぷりの本の表紙だけである。カナタは、満を持して画面をスワイプしてみた。するとその指の動きに合わせて本の表紙が重々しく開いていき……。

 ——途端に画面の中から眩いばかりの光が溢れてきた。光の奔流に押されてカナタの体が椅子ごと背後へつんのめる。まるで強風に煽られるかのように、カナタの体はその光にがっぷりと飲み込まれてしまった。

 カナタの絶叫が響く。

 熱くもなければ冷たくもない光。確実に言えるのはその光は質感を伴っているということ。風が当たる感覚とは似て非なる——だが、形容するには猛烈な暴風が吹き荒れているとしか言いようがない。

 カナタは咄嗟に目を閉じ、さらに画面を遮ろうと両手を突き出した。だが、あまりの光量にいくらカナタが画面を遮ろうとしても掌の方が押し返されてしまう。さながら間欠泉のお湯を手でふさがんとするかのような無謀な試みに似ていた。

 吹き出す光に乗って、何やら不思議な音が聞こえてくることに気が付いた。人の囁き声に似ている——かと思えば獣のうめき声や鳥のさえずりのようにも——いや、もうわからない——虫の合唱の様にも、雨音が弾ける音の様にも——ともすると原始的な打楽器のリズムにも。また近現代的なクラシカルな響きにさえも——それはもう、地球のありとあらゆる物音をごちゃまぜにしたような、到底頭で捉えきれるような響きではなかった。

 カナタは踏ん張った。腕をグッと伸ばし、画面を一生懸命両手で遮ろうとした。が、光はカナタの両手の隙間を見つけると容赦なく漏れ広がり、レーザー光線のように少年の目を眩ませ、明るい部屋をさらに明るく照らし出そうとした。

(眩しい!) 両目を閉じているのにもかかわらず、光が瞼を貫通する。このままじゃ両目が焦げてしまう——。そんな恐れを抱きながら、カナタはタブレットをどうにかひっくり返した。すると光の奔流が治まり、同時に賑やかな物音もピタリと止んだ。

「びっくりしたぁ——」カナタの心臓はドキドキと早鐘をうっていた。さながら絶叫マシーンでさんざんにビビらされた心地。

『びっくりしたねぇ』と、そこへ聞き覚えのない相槌が。

 カナタが咄嗟にベッドの方へ視線を向けると、そこには妙な人影があった。

『ちょっちゅね、太陽が降って来たかと思ったよね。ちょっとだけどね』

 カナタの目は点になった。

ベッドの上に見知らぬおじさんが立っている。それもただのおじさんではなく、手のひら大のちっさなおじさんが!

 カナタの視線に気が付いたのか、ちっさなおじさんは「ハッ!」と息をのむや、たちどころにベッドの下へ潜り込み、そうして姿を消した。カナタは急いでベッドの下を確認した。だが、ベッドの下の隙間に何かが潜んでいる気配はなかった。

(……幻覚?)

 なんとなくヨーコーさんに似ていた気がする……なんてことを思っていると、今度は騒々しい足音が部屋の外から響いて来た。階段をズダダダっと駆け上り、それはカナタの部屋へ迫ってくる。

(やばい、お母さんだ!)

 カナタはアタフタしつつ机の上にあったノートを引っ掴むとそれをタブレットの上に重ねた。そして鉛筆を逆さまに握ると同時に——。

「カナタくーん⁉ 大丈夫⁉」と母が荒々しく扉を開いて参上した。

 カナタはビクッとしつつ、入り口の方へと向き直った。

母は目を皿のようにして部屋のあちこちを見回している。

「な、何のこと?」

「いま叫んだでしょ⁉ てっきりママ、窓ガラスをぶち破って鳩とカラスがカナタの部屋で大戦争を始めたんじゃないかって慌ててきたんだから」

 なるほど、それで母の手にはほうきと塵取りが握られているわけか。

「大丈夫だよ!」カナタは大きく頷いた。「ちょっと宿題につまずいちゃって——あんまり難問だったから、そのうち叫んじゃったんだ!」

「宿題~?」母は疑わし気にカナタを見た。「本当に? それにしても尋常じゃなかったけど——」

 カナタは本当だよ! と叫びださんばかりに首を上下に何度も振った。

母はふぅっと嘆息した。すると普段の呑気な表情に戻り、

「大丈夫ならよし——ところで、わからないならママが手伝ってあげよっかぁ?」と、母は右手に剣、左手に盾を握ったまま無遠慮に部屋の中へ踏み入って来た。

(やばい、本当は宿題なんてやってないのに——)

 カナタは慌てて「大丈夫! 大丈夫だから! もう解けたよ」と言いつつ、母が机に近づけないように通せんぼした。

 そんな我が子の様子に母は「怪しい——」と呟きつつ腕を組んで目を細めた。なぜだろう、その様はまるで悪人が何かを企んでいる時に見せる表情と似ていた。と、母はまさに悪だくみを思いついたかのようにニヤリと微笑み、「ま、いいでしょう!」なんて言ってカナタの部屋から潔く出て行った。

 カナタは何だか嫌な予感がするなぁ、としばらく入り口をジーっと睨んでいた。案の定母は部屋の隅から顔だけをひょっこり覗かせてきて「あんまりエッチなものばかり観てちゃダメなんだからね~」なんて言って、後はニッシッシ~と奇妙な笑い声だけを残して部屋の前から去って行こうとした。

「——ち、違うし!」と、カナタは咄嗟に叫んだが、母の嫌がらせのような笑い声はいつまでも止むことなく続いていた。

(まったくジョーダンじゃない。エッチなものなんて見てないし!)

カナタは憤慨しながら母が閉じ忘れていった扉を力任せに閉じた。

 ため息を吐き出し、暫し瞑想——。

 先ほどの小さなおじさんも気になりはしたが、カナタは改めてタブレットの方へ意識を向けた。画面を開いたらまたさっきのようになりやしないか——、カナタはおっかなそうな顔をしつつ、ゆっくり——慎重に——画面を元通り上向けにしてみた。

 光は溢れ出してこなかった。その代わりに画面の中には光輝く文字で溢れかえっていた。いや、ともするとそれは記号にも見えなくなかった。

 カナタはその文字のようなものを象形文字や楔形文字といったものと照らし合わせてみて、それらとは違うと感じた。どう形容したらいいのか考えた末、あぁ、幼児の落書きに似ているかもしれないと思った。さらに文字の輝き方は電子的なエフェクトを超越していて、目前で虹が輝いているかのように錯覚させた。

カナタは画面をスワイプし始めた。数ページに渡ってその何とも作りようのない、得体の知れない光る落書きが続いている。あまりに続くものだから永遠にこれが続いているのではないか、と思われた矢先、ようやくそれとは別の、しかしながらそれもまたカナタにはまったく理解の出来ない記号・文字が現れた。光る文字と形は似ているが、もはや光を発していない。

 カナタはページを最初に戻し、再び輝く文字と対峙した。そしてジーっと見つめているうちに微かな物音が聞こえることに気が付いた。

 カナタは画面に耳をそばだてた。その音は先ほど光の奔流に紛れて聞こえていたものとまったく同じ音のようだ。しかも面白いことに、どうやらその音はスピーカーから発せられているわけではないようで、画面そのもの、おそらく輝く文字から発せられているらしい。今はとても穏やかであるためか、同じ音でもまったく別の心地がした。

(変な感じだなぁ——)

 カナタは画面を眺め続けた。その文字を見ていると不思議と心が落ち着いた。さらに瞼を閉じると、とあるイメージが思い浮かんできた。

 地球から放たれたカナタは宇宙の真っ暗な空間に浮遊し、月を越え、火星を越えて、木星、土星と惑星巡りをした。ふと背後を見た。太陽は遠くにあるのに、それでも存在感は抜群。星々が綺麗だった。そうして瞼を開いた途端に、カナタは地球へと帰還した。

 カナタは俄然輝く文字に興味を持った。それが何であるかを知りたくなり、何かヒントはないかと画面の中を見回した。そうして画面端に幾つかのマークが用意されていることに気が付いた。その中の一つ、「○」の中に「?」がついた記号に触れてみると、さっそく『ヒントを参照しますか?』と表示された。

 カナタは一緒に表示された『はい』のボタンを押した。すると現れたのは画面の四分の一大の動画ウィンドウ。どうやら『WILL』の動画ファイル内にあったものとそれはリンクしているようで、タイトルにはこうある——『最初の数ページについて』と。

 カナタがタップするまでもなく、動画は独りでに動き始めた。


「最初の数ページ、試しに開いてみたかな? 初見の人は驚いたことだろう——私も驚いたからな」はっはっはっ、とおじいちゃんは豪快に笑うと、居住まいを正して改めて話を続けた。「ちなみにこの現象はひと月ほど期間を置いた場合に起こるようだ。これは本が閉じられている間に魔法の力が本の中に蓄積されていくためだと思われる。なので、次からはこまめに開くようにすることで同様の現象は二度と起きなくなる。覚えておくといい」


 先ほどの慌てぶりを思い返して、カナタは苦笑した。


「さて、輝く文字について簡単に説明するとしよう。この最初の数ページに記されている文字は——古文書や先人たちの言葉を借りるなら——〝神字〟と呼ばれている。神の文字と言うだけあって神の言葉、あるいは宇宙の真理が込められていると言われている。しかし、残念ながらこれを解読できたものはいない。これを理解することができたものがいるとすれば、それはこの本を最初にたまわった者と、その共同体くらいのものではなかろうか」祖父は頭をポリポリと掻いた。

「——というわけで、神字についてわかっていることはほとんどない。ただ、先人たちが口を揃えて言うことがあるとすれば、この本を特別足らしめている要因は何よりこの神字にあるということだ。この神字があるからこそすべての神秘の存在が証明され、これがなければ世界中のあらゆる神秘が存在しないということになる。つまり、このページを失った瞬間から、書は力を失い、魔法と言われるすべての神秘はこの世から消え去る、そう言われている。ただし、もっと恐ろしい説を唱えるものもおるのだが——まぁそれについては省略しよう。これを電子化するにあたって諸所の心配はあったが、なにはともあれ成功した。くれぐれもこれをたかが文字と冒涜することがなきようお願いしたい」


 動画はそこまで。これによってカナタにも大体の内容が把握できた。つまり、このページのお陰で世界に魔法の奇蹟が存在しているということと、このタブレットが壊れてしまえば魔法が使えなくなるということ。その二つがわかればとりあえず十分だった。

 さらにカナタはMBの内容をじっくり改めてみた。MBの中身はあまりに膨大だった。ただ繰ろうと思えば、いくらページを開いていってもまったく終わりが見えないばかりか、まったく理解できない記号ばかりで終始するのではないかとさえ思われた。

 もう何ページ開いたかわからない。三〇〇ページはとっくに超えているだろうが、カナタの目に映るのは相変わらず謎の紋様ばかり。アルファベットですらないし、とにかく記号の羅列としか思われない。ところどころで動物や人の姿らしき絵が描かれているページも見受けられた。それは大昔の壁画とかで見かけるような、そういった図像に似ていた。やっと見覚えがあるものが現れたかと思えば、それも楔形文字だったり、象形文字だったりと、結局カナタには意味を理解することができなかった。結局、そのような調子が延々と続き、ページを繰る指にも疲労が蓄積し始めた時、いったいこれだけ膨大なものがどうやって本として形を保っていたというのだろうかと、カナタはふとそんな疑問を持った。

 これではきりがない。いったん手を止め、カナタは画面の中をさらった。画面端にはヒントボタンとは別のボタンがあった。それは「三」という文字を均等に伸ばしたようなボタン(後にカナタはそれを『便利ボタン』と呼称した)だ。

 便利ボタンをタップすると大量のコマンドがズラリと表示された。カナタはその中からページを『飛ばす』『検索する』という項目を見つけて、試しに『飛ばす』という項目をチョイスした。

『何ページを開きますか?』という言葉と一緒に表示されたページのカウンター数を見て、カナタはギョッとした。

(一〇〇〇万ページを軽く超えてる⁉)

 途轍もない……。途方もない……。到底にして一冊を読み終えようがないし、読破しようと思えばカナタが生まれてからヨボヨボになるまでを十回繰り返してもおそらく読み終えることはかなわない。

 カナタは項垂れ、そして疲れ顔のまま最後のページまで一気に飛ばしてみた。

 ——あ、やっと読める! と思ったのも束の間、最後に表示されたページは確かに読めることは読めるのだが、そこに書かれていたのはMB自体のことのようだ。日本語と英語が入り交じるだけでなく見たことのない言語も織り交ぜられていて、カナタにはそのほとんどが理解できなかった。わずかにわかったことはと言えば、タブレットだのなんだの、どうやら本をタブレットに変換する旨が記されているらしいということ。おそらく祖父の作業の痕跡だろうとカナタはあたりをつけた。

 結局、カナタはその後も暫くはMBを繰っていたが、有意義な情報を探し出すことが出来ず、根負けしてしまった。

 祖父はいとも簡単に魔法の力を手に入れることができると言った。だけど、こんな膨大な情報の中から探し出すなんて無理に思える。まるで壮大な嘘物語、あるいは詐欺に引っ掛けられているかのようだとカナタは感じた。

 ——もう疲れちゃった。今日はもういいや、とカナタは立ち上がった。部屋から出ようとしてタブレットの置いてある机の方を一瞬振り返った。しかし、カナタはスリープ状態に戻すこともなく、不用心にもそのまま自室を出ていってしまった。

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