第1話 思い出は語る

 2012年3月某日

 【日本】熊本・阿蘇への入り口にて


 青海に流れる白い雲。その下に広がる小麦色の山々の連なりと平地を埋め尽くす長閑な田園風景。それらのロケーションを一挙に拝むことの可能なだだっ広い車道上を、空の色によく似た軽自動車が快走していた。

 前後に他の車両はなく、車道を独占するように走る様は実に気持ちが良さそう。大海原の大巨漢クジラのごととまではいかずとも、その伸び伸びとした走りは軽らしく、まるでイルカのようと言って良いかもしれない。

 だが、凪も束の間——。高波に乗り、背後からシャチが迫り来た。法定速度の上限を軽々と無視して猛然と突き進む様は、海原のギャングさながら暴虐的。

 シャチがイルカにグングン迫る。やつに狙われては、穏やかなイルカなどひとたまりもない。——いや、ここは大海原ではない。単なる国道上。黒塗りの高級セダンは方向指示器を出すことすらなく車線を変更。そのまま軽を横目にビュンと置き去りにしていった。


 離れていく黒いセダン——。

 ……それを追いかける少年の瞳。


 白人の少年は軽自動車の後部に座したままひとしきりセダンのお尻を眺めていたかと思うと、急に興味を失ったようにくっきりとした稜線を描く阿蘇の山々へと視線を移してしまった。

 山肌をさらう遊牧民のような瞳の動きは、稜線をうっすら染める雪化粧を捉え、次いで一角から空へと昇り行く灰色がかった雲を捉えた。下から上へのぼる珍奇な雲——その正体は阿蘇山の火口から立ち昇る噴煙である。お日柄が良ければ熊本市内からでも阿蘇の壮麗な山肌とともに、その噴煙の昇り行く様を拝むことができる場合もある。

 軽自動車を運転しているのは日本人と思しき女性。少年とはあまり似ていないようだが、親子だろうか。その女性はご機嫌にも鼻歌を歌いながらラジオのチャンネルを手慣れた手つきで切り替えていく。ようやく目当てのチャンネルを見つけたのか、スピーカーから流れ出した喉から絞り出すようなしわがれ声をキャッチして「キャッ」と歓喜した。

 ラジオの話し手は「くまじい」こと「熊次郎くまじろうじいさん」。熊本では言わずと知れたパーソナリティーで、リスナーのお悩みに対してすっとぼけ調子で応じる人気者である。

 ドライバーの女性が盛り上がるのも関係なしに、白人少年がふと右側に見える何かに目を留めた。どうやら【火口瀬かこうせ】との道標が流れていったようだ。少年はその火口瀬とやらがどこにあるのか目を凝らして探していたが、目線の先にあるのは現在の道路よりも一段も二段も低い土地に広がる田園と、まばらな家々が映るばかり。

 そのうち少年は景色を眺めることをも中断した。そして座席に腰を預けると、あとは沈黙するばかり。その少年の目には年相応にあるべき好奇心の光が欠けていて、どこか気の抜けたような、ロウソクの微火ほどのゆらぎしか灯っていないようだった。

「カナタ、大丈夫? 気分悪くなっちゃったー?」

 白人の少年——カナタ少年を気遣うように、ハンドルを握る日本人女性は前を向いたままに朗らかな表情でもって話しかけた。

 カナタはバックミラー越しにその女性の顔を窺うだけで何も言わなかった。

「熊じい面白いよ。笑ってればその内気分もよくなるからねー」

 女性の能天気な言葉に対し、少年は笑いもせずこう言った。

「大丈夫だよ、お母さん」

 暫く沈黙が続く。ラジオの音声よりも、カナタ少年の耳は軽自動車から発せられる機械的な音だけを拾っていた。華奢なエンジンの唸り——高速で回転する車輪の踏ん張り。勾配のきつめの坂道をウンウン唸りながら、小柄な車体が登る様はどこかいじらしい。

「もうすぐ赤橋あかはしが見えるわよー」

 そう母が言ってから約三十秒後、カナタの眺める右手の方向に、雄大な渓谷にかかる大きな橋が現れた。南阿蘇へと続く大動脈とでもいうべき阿蘇大橋である。

 橋にかかるフェンスがやけに高いなぁ、とカナタが意識した時にはもう橋は素通りされ、その次に見えたのは橋の傍の数件の家屋。どうやらその中の一軒は理髪店のようだが、ピンク色の派手めの壁が赤橋以上にけばけばしく見えた。

「どうして赤橋って言うの? 全然赤くないのに」とカナタ少年が聞く。その傍の店舗の方がよほど赤と呼ばれるに相応しいと思いながらの問いかけだった。

「それはねー、昔は赤色で塗装されていたからよー」

「せっかく目立つ色なのに、どうして塗り替えちゃったの?」

「赤色はね、心がワーって沸き立つ色なのよー。だからね、見る人によっては興奮しちゃって危ないんだってさ」

 カナタはふぅん、とわかったのかわからないのか曖昧な言葉を返した。質問をしてみたものの、それは彼にとってはどうでもいいこと。今は景色でさえも素通りするものでしかない。慰めにもならない。カナタ少年の頭の中を占めるもの、——それは景色などでは埋めようのないものだから。


(おじいちゃん……)

 

 阿蘇にある祖父の自宅を目指す道すがら、それはどうしても避けて通れない思い。

 いまだに実感することのかなわない、何かを喪ったという感覚。


(信じられない……信じられないよ。きっと——)

 

 カナタは今でも抗っている。毎月欠かさず遊びに来ていた祖父が、ぱったりと姿を見せなくなってからの二ヵ月。この二ヵ月はきっと、特別忙しくて姿を見せられなかったのだという願望。あるいは古郷イギリスへ里帰りしていて日本にいないのだという切実な願い。


(だけど、おじいちゃんなら絶対——)

 

 今年二月に誕生日を迎えて11歳になったばかりのカナタ。ささやかな誕生日の席上にできた大きな空白——。笑顔で祝福する父母の姿はあるのに、祖父の微笑みがどこにも見当たらない。


(おじいちゃんが……亡くなった?)


 今年の一月に祖父の訃報がもたらされた。ただ事故とだけ聞かされた。

 嘘のような記憶だけなら振り返ることができる。

 身内だけのお葬式——遺影の中で優しく微笑む祖父の姿——冗談のように淡々と進み行く時間——棺の窓を開けんとする誰かの手——。

 突然、ズキッと頭が痛み、カナタは顔を歪めた。当時のことを思い出そうとすると酷く頭痛がする。祖父の死に顔だけがどうしても思い出せない。

 カナタは首を小さく振り、そして再び車窓に目を移した。


(おじいちゃんがこの世に居なくなってしまった? そんな馬鹿な。そんなはずがない。だって、おじいちゃんは——)


 カナタは祖父との思い出を何度も何度も頭の中で思い返していた。



 カナタは幼い頃から魔法の世界の虜だった。彼は絵本やアニメが大好きで、特に西洋を舞台にした物語には目がなかった。彼は日本のあらゆるサブカルチャーに囲まれながら、常に魔法の世界に浸っていた。そんなカナタにとって最も心を掴んで放さなかったものは、史上最も有名な超大作、——闇の帝王に狙われて唯一生き残った男の子の物語である。

 彼が初めてその世界に出会ったのは5才の頃。大好きな祖父が、彼の自宅に魅惑的な魔法の世界を収めた円盤をもたらしたのが始まりだ。記念すべき第一作目を自宅のホームシアターで上映した時、カナタは大いにはしゃぎ回り、それでいて大事な場面では必ず黙り込み、食い入るようにしてジッと眺めたものだ。

 少年は何度も一作目をリピートした。次の日も、また次の月も——。カナタは両親の憩いの時間すら奪って何度も映画に見入った。両親は苦笑しきりだったが、息子の喜びようを見るのが如何にも幸せであると、両親もまたカナタが映画の台詞の一つ一つを覚えるように、彼の幸せそうな姿をしっかりと瞼の裏に焼き付けていった。

 そんなカナタも成長する。成長するにつれて、徐々に魔法に対する愛も薄まるかと思われたが、魔法世界への愛情はとどまることを知らず、日々が過ぎるにつれてますますその愛情は肥え太って行った。

 そのうちカナタは映画だけでなく本を買い与えられた。欧米を舞台にしたファンタジー作品であればどんなものでも嬉々として愛した。しかし、やはり彼は最強ファンタジーと銘打たれた作品への、額に稲妻型の傷を持つ少年の勇気への、止めどない愛情を抑えることが出来なかった。

 この世界を読み込めば読み込むほどに心がざわつく。心がドキドキと早鐘を打ち出す。そのうち尋常じゃないくらいに両の手のひらがじんわりと熱を帯びだし、そうしてカナタは自分以外に誰もいない自室の中で、お風呂の中で、家族が寝静まった後のリビングのテーブルの上に登って、手を突き出して呪文を唱えた。そんなカナタの心の高揚に、現実は追いつかなかった。彼がどれだけ呪文を唱えようとも、その掌から魔法が放たれることはなかった。些細な奇跡のひとつさえも。


(きっと魔法の杖がないから奇蹟が起こらないんだ)


 そう思いながらも、いつか自分も魔法を使えるようになることを少年は心から夢に見ていた。そんな夢見がちな少年の心を支えた一番の理解者が、誰あろう彼の祖父だったのである。


 カナタ少年8歳の時。それはまだ両親と祖父が一緒に住んでいた頃のことだ。

ある日、カナタは突然「魔法なんて存在しないんだよ」と父に諭された。8才といえば小学生時代の未熟な時期——、いまだにヒーローなどの特撮ものに憧れていたとしてもおかしくない年ごろだろう。

 カナタはしくしくと泣いた。否定されたことがショックで、夕飯の最中にもかかわらず、リビングを飛び出して部屋に閉じこもってしまった。それも自分の部屋ではなく、祖父の書斎に。

 カナタが書斎に籠ってからすぐ、祖父もまた部屋の前へとやってきた。彼が扉を開けると、書斎の中は明かりもなく真っ暗で、たまに嗚咽だけがヒクヒクと聞こえて来るだけであった。数秒ほどじっとしていた祖父は、音を立てないように扉をそうっと閉じた。そして灯りをつけることなく静かに、音だけを頼りにカナタを探し始めた。

 祖父はこっそりと机の後ろに回り込み、そして机の下の狭いスペースに視線を落とした。暗闇の中により一層黒い塊がカタカタと震えているのが見えた。

 祖父は光を灯すラテン語の呪文を小さく呟いた。カナタの耳がその呪文を微かに聞き取った。少年が上を向いたタイミングで、部屋の一部にパッと明かりが灯った。その明かりに照らされていたのは、やんわり微笑む祖父の顔。カナタと同じ、白人の顔立ち。だが、祖父の顔の彫りの方がより一層深かった。その祖父の手の中には懐中電灯が一つ。なんてことはない、かの世界の呪文の再現のつもりなのだろう。

 祖父がゆっくり腰を落とすと、懐中電灯の明かりが机の裏側に当たった。薄柔らかい明かりが彼ら二人をぼんやりと照らし出し、ようやくカナタの顔が暗闇の中にポッと閃いた。おじいちゃんは優しい眼差しでもってカナタを見つめていた。カナタの顔は涙でしっとりと濡れていて、今もまだ鼻を鳴らしながら、手でしきりに涙を拭い、悲しみに抗えないでいるようであった。

 それから数秒して、祖父は口を開いた。

「カナタは本当に、魔法の世界が好きなんだねぇ」

 数秒の間と嗚咽の後に、小さく「うん」とだけ答えが返って来た。

「魔法のない世界は耐えられそうにないかい?」

 カナタは少しだけ考えた。考えた末に「そんなことないよ……だけど」と言い、それから声を詰まらせながらも「魔法がないと、ちょっとだけ——ううん、とっても寂しい」とようよう言葉を吐き出した。

「ふむ」とおじいちゃんは口の端を緩めた。

「魔法があるとしたら、実際に使ってみたいかい?」

「うん……だけど、魔法なんてないんでしょ……パパに言われたばっかだもん」

 カナタは父とのやり取りを振り返ったのか、また少しだけ悲しみを思い出したようである。グスグスと鼻をならし、両目から再び涙が零れ落ちてきた。

「何にも考えたくないよ……思い出したら、涙が出るんだもん」

 おじいちゃんはカナタの頭を優しく撫でた。手のひらが二度、三度とカナタの頭を滑り、最後には頭頂部へと大きくも柔らかな温もりが留め置かれた。

「今から話すことはね、誰にも内緒だよ」

 カナタはしゃくりあげながら、おじいちゃんの顔を見た。

「魔法はね、あるんだよ」

「ウソだ……ないって言われたもん」

「本当さ。魔法はあるんだ」

 そう言われても、今のカナタにとってその言葉はただの残酷な追い打ちでしかなかった。

「やめてよ。もうないってわかったから——」

「カナタ」と祖父の言葉が放たれた。有無を言わさぬ何かがあった。横暴で威圧的なものとは明らかに異なる、大空のような懐の広い何かが——。

「おじいちゃんの言葉を信じて」

 重なる瞳——。カナタは祖父の瞳にくぎ付けになり、

Bonjour tristesseボンジュール・トリステッ」と祖父が囁いた。

 するとどうだ、急に心がポカポカし始めた。暖かいスープを飲んだ時のような、どこか心地の好い温もりが体中にしみ渡っていく——。気がつくとカナタの心の悲しみはすっかり薄まっていた。嗚咽をあげるどころか涙すらも止まっていた。

「おじいちゃん、今、何をしたの?」

「はてさて? おじいちゃんの気持ちがカナタに伝わったのかもしれないな」

「えー、何それ?」

 祖父はフフっと微笑み、そしてカナタの頭から手を下ろした。

「いいかい? まずは聴いてくれるかい?」

 カナタは小さく頷いた。

「まずはお父さんの話をしよう。お父さんはね、カナタに魔法のことを一つも考えないようにと、頭ごなしに叱ったわけではないんだよ」

「……でも、もう魔法のことは考えるなって言われたよ」

「うん。だけどね、お父さんは心配しているんだ。カナタが魔法に夢中になりすぎてしまって、やるべきことをやらなくなってしまうんじゃないかって」

「どういうこと?」

「それは学校の勉強だったり、習い事だったり、友達と一緒に外に遊びに行ったりするような、普通の子供が当然にやることだよ」

「僕、ちゃんとやることやってるよ! 宿題だって毎日しっかりやってるもん」

 カナタは興奮して腰を浮かしあげた。すると彼の頭は机の裏にぶち当たり、ゴツンと派手な音を立てた。そんなカナタを見て、おやおやと祖父は笑った。だが、カナタにとっては痛恨事——今にも悲しみとは別の涙があふれそうになった。

「知っているとも」祖父はカナタの頭をやんわり撫でた。「おじいちゃんは、カナタが毎日しっかり学校で勉強していることも知っている」

「僕、テストはいつも満点だよ……国語はちょっと苦手だけど」

「それは仕方ないかもしれないな。なんたって、おまえには英国人の血が半分混じっているからね。そのぶん英語が他人よりちょっとだけ得意だろう?」と冗談めかして笑った。

 カナタも少しだけ笑みを返した。

「冗談はさておき——お父さんは心配なんだ。なにせお父さんは仕事で忙しいからね。カナタのことを知りたくてもお母さん以上に一緒にいる時間が少ないんだ。だからお父さんはもっと魔法以外にカナタのことを知りたがっているんだよ。わかるかい?」

 カナタは目線を少し上向けて考える素振りを見せたのち、再び祖父と瞳を重ねた。

「うん。何となく」

「よしよし」と、祖父はカナタの頭を再度優しく撫でた。

「これまで通り魔法のことは考えたっていいんだよ。だけど、お父さんとお母さんと一緒にいる時は魔法以外の話題をもっと喋るようにするんだ。そうすればきっと二人も安心してくれる。本当はお母さんたちに魔法のことを聞かせたくて仕方ないだろうけど、これからはおじいちゃんが全部聞いてあげるからね」

 祖父はそう言うとウィンクした。カナタもまた祖父に対してニコッと微笑みを返し、「うん、わかった」と快活に返事をした。

「聞き分けのいい子だ」と祖父もまた満面の笑みを浮かべた。

「ねえねえ。それよりも、魔法が本当にあるって、どういうこと?」

「おっと、そういえばそうだったね。——その前に机の下から出ておいで」

 カナタは祖父に促されるままに机の下から這い出し、部屋の中央へと回り込むと祖父と向き合うようにして絨毯の上に座り込んだ。

「早く早く」と急かすカナタをなだめながら、おじいちゃんは懐中電灯の灯りを上向きにして床へと置いた。一直線に伸びあがる光は天井を飴色に焦がし、弱弱しい微光に包まれた二人は、まるで月明りの膝下にいるかのよう。

「少しショックを受けることになるかもしれないが、それでも話を聞く覚悟はあるかい?」

「大丈夫」と言いながらも、カナタは緊張からゴクリと喉を鳴らした。

「この世界にはね、魔法は確かにあるんだよ。それはカナタの大好きな作品の世界観に似ているとも言えるが、実際にはまったく異なっているとも言えるんだ」

 少年は小首を傾げながら「それは……あの小説のような世界は、この世にはないってこと?」と聞き返した。

「あぁ、そういうことになるね」

「そっかぁ——」というと、カナタは下を向いた。少しだけ気落ちしているようにも見えたが、少年は居住まいを正すと素早く祖父の方へ眼を向け直した。その眼はとても純粋で、ツルツルに磨かれた水晶のように輝いていた。

「だけど、魔法はあるんだよね。その世界では短い杖を使うの?」

「使うこともあるよ——正確に言えば、使う人もいる、ということになるのかな。魔法の世界と言ってもひとくくりにはできないほどの大きな世界が存在しているからね」

「うーん……よくわからないよ」

「それじゃあカナタ、この世にはいくつの国が存在しているか、知っているかい?」

「えー……百か国くらいかな?」

祖父はふふっと笑い、「その二倍近くの国が存在しているんだよ」と言った。

「そんなにあるの?」とカナタは驚きをあらわにした。

「そうだよ」言って祖父は嬉しそうにうなずいた。「それぞれの国には様々な違いがあるだろう? 言語の違いや、文化——衣装や食べ物など、その国特有の生活感がある。たとえば日本で着物を愛用している人がいるように、インドではサリーが。南米のチリではポンチョが。それに英国のスコットランドにはキルトなどの伝統衣装があるだろう?」

 カナタは祖父の話を聞きながらうんうんと頷いた。

「魔法の世界もそれと同じなんだよ。それぞれの地域に見合った魔法というものが存在していて、それはそれは途方もない広がりを持っているんだ。つまりね、小説や映画で語られているよりももっとずっと自由で、見たことも聞いたこともないような魔法が世界には存在しているんだよ」

 少年の目はまん丸く照り輝いた。まるで朝焼けに抱かれる地球のように。そうして「凄いや……!」と興奮交じりの歓声をあげた。

「じゃあ、日本にも魔法使いはいるの?」

「いるとも」

「もしかして、おじいちゃんには日本の魔法使いのお友達がいるの?」

「ふふふ……どうだろうねぇ?」

「教えてよ!」

「そうだねぇ……魔法使いとは少し違うけど、忍者のお友達ならいるとも」

「えぇ⁉」カナタの背筋がググっと伸びあがった。「ほんと⁉」

「本当さ」

「いいなぁ! 僕にも紹介してよ」言ってカナタは祖父に飛びついた。まるで飼い主にじゃれる仔犬のように。

「忙しい人だからねぇ……機会があれば会えるかもしれないね」

 そう言いながら祖父はニコニコと微笑んでいた。それから駄々をこね続ける孫をなだめると、彼の頭を優しく撫でた。

「カナタがもう少しだけ大きくなったら、その時はもっと魅力的なお話を聞かせてあげよう。その時になってもまだ、カナタが魔法の世界に興味を持っていたら、きっと本物の魔法に触れる機会が訪れることだろう」

「えー、今がいいよ。今教えてよ」

「まだカナタには早いよ」祖父は困ったように笑った。

「ねぇねぇ、そんなこと言わないでさあ」

「魔法はみだりに使ってはならないんだ。そうでないと——恐ろしいものがやってくる」

「え……」カナタは硬直した。「もしかして……それって幸せを吸い取っちゃうような奴らだったりする?」

 祖父の目はその通りだと告げているように見えた。カナタは咄嗟に身震いした。

「それともう一つ、今教えたことも二人の秘密だからね。約束を破ると、あのこわ~い牢獄番が本当にやってくることになるかも——いいね?」

 祖父は怖がらせようとしてか、最後にお化けのように両手をダランと垂れ下げた。しかし、その時の仕草を見て、カナタは枯れ柳がひらひら風に揺れているみたいだ、とむしろ笑ってしまった。

 


 今思うと、あれは自分を慰めるための方便だったのかもしれない……。カナタはそう思い、目を細めた。

 車窓から見える景色は先ほどまでとは一変していた。閑散とした様子はなくなり、行きかう車の数は増え、空色の車の前後には幾つもの自動車が規則正しく車間をあけて走っていた。左右の道路沿いには田舎とはいえ多くの民家が立ち並んでいる。だが、左に見える景観に限って言えば民家よりも田畑の方が圧倒的に多く、さらにその奥には一風変わった山容を拝むこともできた。

「あ、ちょうど野焼きをしているみたいよ。見える? 左、左」

 母の言葉に対して頼りなげに「うん」と少年は呟いた。彼の目には今まさに、阿蘇の風物詩たる野焼きの光景が捉えられていた。

 すっかり焼け焦げた山肌は、そこだけ夜のとばりが降りたように黒々としていた。しかし、彼の関心は野焼きの方へはそう長続きしなかった。

 カナタは右の車窓に目線を移した。ちょうど小さな牧場が行き過ぎて行くところだった。学校のグラウンドの半分以下のフィールドに、誰も乗り手がいない馬が首を下ろしてジッとしている。その馬は悲しいからと頭を垂れていたわけではないが、カナタはその馬の姿にどこかもの悲しさのようなものを感じ取った。

カナタは何を見ても、どこを見ても、悲観的な思いばかりが沸き上がってくるような気がして、そのうち目を閉じた。

 暗闇に閉ざされて間もなく、車のエンジン音に交じり、オーディオから流れてくる音楽がやけにはっきりと聞こえてきた。曲名のわからないインストゥルメンタル。なんともノスタルジックで異国情緒にあふれた楽曲。おそらくはケルトミュージックであろうが、いつ〝熊じい〟から切り替わったのだろうか。

 音だけの世界が過ぎて行く。車がすれ違う音も時には交じった。音だけの世界にも豊かな色彩があるのかもしれないが、今のカナタにはすべてがセピア色。あまり意識してしまうと、音の中に引きずり込まれそうになる。

 カナタはそのうち意識を失った。——眠ったと言う方が正しいだろう。熊本市内から阿蘇まですでに一時間超、この年頃の子供にしてはよく持った方だと言えた。



 カナタ少年、9歳の時——彼は、その日もおじいちゃんの書斎にいた。

 カナタは部屋のちょうど真ん中、じゅうたんの上に座り、ひとり本を読んでいた。その本は彼の大好きなシリーズ物の第七巻。既に六回は読み終えているのだが、再度読み返し始めた理由というのが実に単純。日本において、その劇場版の公開が迫っていたからだ。

 待っている間が一番もどかしいもの。見たくても魔法でも使わなければ公開前に観ることなど叶わないから。

 カナタはさんざんに空想した。本を読まずとも内容の一部をそらんじることが出来るほど、カナタの記憶の中に物語がぎっしり詰まっていた。だけど、魔法の世界にどっぷり浸かるためには本を読むのが一番良い。いつだって本の中の主人公は魅力的なヒーロー。この額に傷ある主人公のように、自分にも魔法が使える日はいつ来るのか。そんな期待を胸に秘めながらの憩いの読書タイム。

しかし、本を読んでいた理由はそれだけではなかった……。

 扉を隔てて向こう側、それも離れたところから母の呼び声が聞こえた。その時までに母はもう何度もカナタの名前を呼んでいた。とても大事な用でもありそうだが、カナタは何故だかジッと無視を決め込んで動かなかった。

「カナタ、行かなくていいのかい? お友達が来ているようだけど」

 カナタは不意打ちを食らったかのように顔を上げた。周囲を見ると祖父がいつの間にか机の奥の窓辺に立っていた。どうやら外の様子を窺っているらしい。

「おじいちゃん! いつの間に?」

「うん? おじいちゃんならさっき入って来たばかりだよ」とそれだけ言うと、彼はカナタの方を振り返り、「それだけ本に熱中していたんだね。凄い集中力だ」と、わざとらしく驚いた顔を見せた。

「えー、でも、扉が開いたら気付くと思うんだけど……それに、窓辺まで移動されたら絶対に気が付かないはずが……ママの声だって聞こえていたし」

「お母さんの声は聞こえていたわけだ。それならどうして無視するんだい?」

 カナタはハッとした顔を見せたが、すぐさま下を向いて本に目を落とした。そして黙々と活字の中に潜り込もうとした。

「カナタ」と、おじいちゃんは二度、彼の名を呼んだ。そこには微かながらたしなめるような調子が認められたが、カナタはその声を一生懸命に無視しようとした。

 祖父はゆっくりとカナタの前に歩み寄り、そして彼をジッと見下ろしたかと思えば、腰を下ろしてカナタの傍に座り込んだ。日本人顔負けの美しい正座をして。

「どうしても聞こえないふりをするのなら、『真実薬』を使って強引に聞き出すことも出来るんだけどねぇ」

 カナタは本を繰る手をピタリと止めた。そうして深々と息を吸うと、恐る恐るおじいちゃんの目を見た。

「そんな怖い薬、本当にあるの?」

「似たようなものはあるよ。だけど、それはもはや魔法薬ではなくなりつつある。一般人でも十分似たようなものを作れるんだ」祖父は真剣な顔をしていた。

 カナタは固唾を呑んだ。本当に飲まされたらどうしよう、という恐ろしさよりも、祖父の眼差しにたじろいだのである。いつも優しい瞳と微笑を浮かべている祖父が——それだけに、カナタにも思うところが多分にあった。

 カナタは口をパクパクさせたかと思うと、意を決したようにぽつぽつと話し出した。

「今日、友達と喧嘩したんだ」

「どうして喧嘩したんだい?」

「もうすぐ映画があるでしょ?」というと、カナタは今まさに読んでいた本を軽く掲げてみせた。表紙のタイトルが見えるか見えないかという絶妙な素早さであった。

「みんなでちょっとした小話で盛り上がったんだ。ダニエルくんの真似をしたり、トムになりきったりしてさ——だけど、その内の一人が、急に自慢し始めてさ」

「自慢ってどういうことだい?」

「俺は何でも知ってるんだぁ——って、延々とキャラの台詞を喋り出してさ。だけど、それは全部映画でのセリフであって、本に載ってるようなことは何一つなかったんだ」

「それで? もしかしてカナタも本の知識自慢を始めたのかい?」

「そんなことしないよ!」と叫んだかと思えば、カナタの目から急激に力が失われて行った。

「だけど、ちょっとだけ——こんなこともあるんだよって、本にしかない内容を話したんだ。そしたら友達が興奮しちゃって——」

 少し言葉が詰まった、かと思えば、カナタは自発的に祖父の顔をすっくと見直した。祖父はいつの間にか柔和な表情を浮かべていた。普段どおりのその姿に、カナタは少しだけホッとした。

「それで?」と祖父が促す。

「友達が僕のことをけなし出したんだ。こいつ、本で先のことをあらかじめ知ってるんだって——ズルいだの、何だのさんざん言ってきて——そればっかりか、僕がいつも魔法とかの話ばかりしてつまんないとかって、それで、それで——」

「殴ったのかい?」

「……やめてよって、ちょっと体を押しただけなんだよ。そしたら、友達が殴られたって騒いで。今度は、僕のお尻を蹴っ飛ばしたんだ」カナタは目をキュッとつむった。

「ふむぅ……それで喧嘩したってわけかい?」

「うん……僕も思わず友達の頬をぶっちゃった」

「嘘は吐いてないんだよね?」

 カナタは瞼を開いた。そこにはとても深い空色の——地球を目の中に閉じ込めたような、美しいヘーゼルの瞳が覗いていた。

 カナタは「もちろん!」と勢いよく声をあげた。そうして少しもじもじしながら、

「——おじいちゃんには、どうしてかな……嘘がつけないよ」と言った。

「そうだろう?」言って祖父はにっこりと微笑んだ。「おじいちゃんはカナタが真実だけを話したくなるように、目で魔法をかけたからね」そうしてウィンクした。

「そうなの?」カナタはマジマジと祖父の瞳を覗き込んだ。「おじいちゃんの眼——そういえば珍しい色してる。緑色の目って見たことがないよ」

「そうかい? カナタの目も綺麗な色をしているよ」

そういうと、祖父はカナタの両頬をやんわりと手で覆った。

「知っているかい? 青色はね、大昔のエジプトではとても珍重された色だったんだよ。青い色は真実の色——真実とはエジプト語で〝マアト〟と言うんだ」

「まあと……?」カナタはたどたどしく復唱した。

「そうマアト。この言葉には真実以外にも様々な意味があるが、何より善き心そのものを表していると言える。——ほら、マアトと繰り返してごらん。心そのものの響きを伴っているような、そんな気がしてこないかい?」

 カナタは「マアト」という言葉を何度も反芻した。繰り返し呟いているうちに、その言葉の響きに形が伴ってくるような気がした。ちょうどマアトという言葉がハートという言葉の響きに似ていたからかもしれない。ハートマークが思い浮かび、そして呟くたびに心臓がドクンと柏手を打つような、不思議な感覚を味わった。

「いい言葉だなって、僕、思うよ」

「私にとっては大好きな言葉の一つだよ」というと、おじいちゃんはカナタの頬から手を放し、代わりに少年の頭を愛おしそうに撫でた。「カナタの目は嘘をついていないね。真実の目をもつだけあって、カナタはとっても素直でいい子だね」

「そうかな?」カナタは上目づかいに、おずおずと言った。「僕、素直な子なのかな?」

「そうさ。青い空のような、とっても清らかな心を持っているじゃないか」

 カナタは暫し上を向いた。じーっと天井を見つめること数秒——、そこに時間とともに出来たのであろうシミには目を留めず、彼は心で今何をすべきかだけを考えた。それからすぐに笑顔を見せた。そこには雲ひとつない、まさに青い空を思わせるものがあった。

「僕、今から友達に謝りに行ってくる。さっきお母さんが呼んでたのはたぶん、その友達が訪ねて来たからなんだ。だけど無視しちゃったから……。それに頬をぶったことも謝らなきゃ。じゃないと気が済まないや」

 カナタは本を床に置いた。それからすっくと立ちあがると弾むように書斎の出口へと向かった。

「おじいちゃんもついて行ってあげようか?」

 カナタがドアノブに手をかけた時、そう声が掛かった。カナタは振り返るや、大空を飛ぶような面持ちのままに、「ううん、僕一人で大丈夫」と自信いっぱいに首を振った。



 ——ガタガタと振動したかと思うと、車は勢いよく停車した。それからすぐ後部座席に転がっていたカナタの眼がパチリと開かれた。カナタが身を起こすや否や車のエンジン音が止まり、同時に車中を満たしていた音楽もピタリと止んだ。

「あっ、ちょうど起きた? 着いたよー」

 カナタは目をしょぼつかせながら瞼を指先でぐりぐりと拭った。そしてリュックを手に取ると静かに車の戸を開ける。途端に冷気が車中に潜り込んで来た。車から降りるのを少し躊躇いつつ、少年は意を決すると外に降り立った。シンとした寒さと静けさがカナタの頬を撫で、彼の吐く息も白いスモークのようにゆるゆると吐き出されては消えていく。

 降りた先に待ち構えていたのは住宅ではなく、人ふたりが通れるほどの野道。木々が生い茂っている様は庭というよりも森や林の様相に近い。だが、目を凝らしてみることで初めて林の奥の方に家屋の一部がかろうじて顔を出していることがわかる。どうやらこの家屋は森に囲まれているというよりも、森の中に構えられた家というのが正しいように思われる。

 ちょうど母が車を降りた時、カナタは呟くように言った。

「おじいちゃんの家……なんだか久しぶりに来た気がする」

「前に来たのはいつだったっけ?」と言いつつ、母は車にロックをかける。

「去年の夏だよ。夏休みの間に一週間お邪魔したっきり」

「そうだったっけー? お義父さん、ひと月に三度はウチに顔を出してたから、何だか離れて暮らしていた実感がないのよねー」そう言うや、母は体をブルッと震わせた「——うぅ、それにしても、やっぱり阿蘇は寒ーい。外気温七度だって。早くお家に入ろっか」

 母は手を擦りながら足早に歩き始めた。その後ろを、リュックを背負ったカナタがゆっくりついて行く。二人ともにダウンジャケットを着こんではいるが、手袋もしていなければマフラーさえしていない。むき出しの部分に冷気が否応なく襲い掛かってくるが、母と違ってカナタは寒い方がむしろ心地が好いとさえ思えていた。

 数十メートルほど歩くと、ようやく家屋の全貌が姿を表した。さほど大きくない日本家屋。大部分が古めかしい平屋なのだが、その一部に真新しい洋風の家屋がくっついている——そう、くっついているのだ。そこにはカナタの祖父の新しい書斎がある場所……。この家は築60年を越えていて、完全な空き家だったのを買い取り、所どころ修繕するついでに書斎だけを増築したものだ。

 カナタたちは玄関口に立った。玄関は開き戸ではなく、珍しく引き戸だ。

「あれ? 鍵はどれだったっけぇ——」

 母がカギの束と格闘している間に、カナタは家とは別のところへ視線を向けた。家の脇には土蔵が横綱のごとく堂々と鎮座していて、ある意味では住居よりも存在感のあるそれに、カナタは自然と惹き付けられた。

 土蔵はまるで魔法使いの工房のようだ——。カナタは以前、そんな思いから土蔵の中を覗こうとして、しかし、どうしても入ることが叶わなかった。どうにか入れないかと祖父に何度も頼み込んだが、再三の願いに対して祖父は「NO」としか答えてくれなかった。

 カナタは今でも倉庫の中には何か秘密があるに違いないと睨んでいる。たびたび魔法の話をする祖父だ。きっと、倉庫の中は秘密基地のようになっていて、魔法の道具で溢れかえっているに違いない。今日こそどうにかして入れないだろうか——。

「ねぇ、お母さん、あの倉庫さぁ」

「えー、なに?」と、母は相変わらず鍵束をジャラジャラさせていた。いったいどれほどの鍵をまとめているのか、一本鍵穴に差し込んでみては「違った」「あれれ?」「これも違ーう」と大忙しだ。

「あの倉庫の鍵、ないのかな?」

「倉庫? あぁ、土蔵ね。——あっ、回った」母は最後にはしゃぐような声をあげた。

 ガラガラっと引き戸が開くや、母はいち早く家の中に潜り込んだ。

「ほら、カナタも早く入りなさいよ。——うぅ、家の中も寒い寒い」

「あの土蔵の中が見てみたいんだけど」なおもカナタは食い下がった。

「あれはね、開かないの。鍵が壊れているらしくって、おじいちゃんも残念がっていたんだから。——さぁ、それよりも早く入って、入って」

 カナタは名残惜しそうに土蔵を見たが、そのうち観念すると戸口に上がり込んだ。

 古い家屋の中は、見た目はまんま田舎のおじいちゃん家と言った風情である。煤けたような天井からは今にも埃の香が降ってきそうだし、天井をうねるように伝う梁の大きさと来たら、処によってはカナタ少年の胴体ほどもある。緑色のざらざらした壁は指を這わせるとぽろぽろと崩れてしまいそうな有様だし、実際に床の上にキラキラしたパウダーがこぼれているのは、つまりそういうことだろう。

 ただし、床だけは別だ。床板だけはすべて新しい杉材に張り替えられており、ひと肌の温もりを感じさせるような明るい色彩を放っていて、まるで床下にお日様がかくれんぼしているかのようである。

 母は早速掃除をするからとリビングや台所の方をウロウロし始めた。一方、カナタは久しぶりに来たおじいちゃんの家をどこか懐かしく思いながらウロウロと彷徨い始めた。

 リビングを眺め、幾つかの和室を覗き、台所やお風呂にトイレまでも見て回った。ところどころ手入れがされて小ざっぱりとしているが、書籍の類だけは節操なくいたるところで散見された。改装されたトイレの個室の中にすら本棚が据えられていて、おまけにトイレのタンクの上にまで読みかけの本が一冊置かれている様は、祖父その人の研究熱心さあるいは本の虫たる人柄を垣間見させるに十分。だが、——様々なジャンルの本が手に取られることを静かに待っている様はどこか寂しげでもあった。

 カナタは時々、何の気なしに書籍を引っ掴むと、その本のタイトルに目を通してみた。ハードカバーの表面に、しかし、日本語とも英語とも異なる外国の言葉が刻まれているということを知るや、中身をパラパラとめくることもせず、元の場所に丁寧に置きなおした。

 カナタは最後に祖父の書斎の前に立った。家の中は主に襖や障子戸で仕切られていたが、ここだけは無理やり増築したとあって扉はもちろん周囲の壁も土壁ではなく洋風の造り。カナタにとってこの部屋だけは特別だ。部屋の前に立ち尽くしているだけでも妙に懐かしさが込み上げてくるほどに。

 今はもうカナタの自宅に祖父の書斎はない。自宅をいくら探し回っても、祖父と過ごした濃密な時間を求めることはかなわない。何故ならカナタの祖父は、阿蘇へと引っ越す際に書斎にあった品物を全て新居に移してしまったからだ。その代わりにここには当時のすべてがある。

 カナタが扉に手をかけた時、不意に声が掛かった。

「カナター、そこね、書斎だけどー、手を付けずにそのままにしていて欲しいんだって。だから入るにしてもあんまり散らかしたりしたらダメよ」

「どうして?」

「お義父さんの遺言なのよ~。それも書斎だけじゃなくて、家の中の物は処分せずに暫くはそのままにして欲しいって……いったいどういうことなんだか」

 ——遺言。その言葉に接して、カナタの瞳がわずかにぶれた。カナタの一瞬の変化に気付く様子もなく、母は言うことだけ言い終えるとさっさと掃除に戻ってしまった。

 ドアノブを回すと同時に、掃除機が轟音を立て始める。カナタはそんなことはお構いなしに扉を開き、半年以上ぶりに祖父の書斎へと足を踏み入れた。その途端に書斎の空気がカナタを歓迎するように包み込んだ。

 それは祖父の匂いでもあり——古びた本の香りでもあった。自宅の書斎に入り浸っていた時の記憶そのままの空気——それだけではない。当時の面影がそっくりそのまま収まっている。

 部屋の奥にはさながら社長室を意識したかのように配置された大きめのデスクが。

 左右には本棚があって、それにより壁はすっかり覆い隠されてしまっている。

 そこに並べられた本の種類と色褪せ具合も当時となんら遜色がなく……。

 本棚のひと隅に飾られた古城の絵葉書。壁に掛けられた赤い竜のフラッグ。

 入口脇の古びた振り子時計と天井からぶら下がる小洒落たミニシャンデリア。

 部屋の壁紙も、床に敷いてある羊毛の絨毯も。

 その他にもいろいろ……。まるで過去へタイムスリップしたかのようだ。

 小洒落た照明が小さくプラプラと揺れていた。窓が開いているわけでもなしに。カナタはそれを部屋のお出迎えと受けとめると、後ろ手に戸をそっと閉めた。部屋が閉じ切られたことで不思議と外の物音はまったく聞こえなくなった。

何故だろう、部屋の外よりも心なしか暖かく感じられる。四月の初旬の、春を迎えたばかりの温もりが。カナタは呆けたような面持ちのままに机の方へ歩み寄って行った。

 じきに六年生になろうかというカナタだが、目の前の机は少年にはまだまだ大きかった。なにせ机面は彼の胸の高さまであるし、しかも小難しい学術書が縁を覆うように大量に重ね置かれているため、まるで城壁のように内側を隠してしまっているから。

 カナタは机の端に軽く指を沿わせながら、正面から机の横へと歩いていく。途中、机の横板にある落書きに目を留めた。カナタは懐かしそうにその落書きに指を這わせた。

 大蛇と少年が戦っている場面——この落書きを祖父に見つけられたとき、カナタは怒られるどころか褒められた。絵の才能まであるんだねぇと、大して上手くもない落書きを指さして何度も頭を撫でてくれた。あまりにも褒めるものだから、おかしな話、それ以来カナタは家の中に落書きをしなくなった。

 カナタはフッと少しだけ笑い、再びゆっくりと机の内側を目指して歩いた。その内側に辿り着くと、ようやく本以外に置かれているものが姿を現した。ノートと万年筆とそのインク、手元を照らすスタンド。それ以外にも様々な筆記用具が一通り机の上に並んでいる。


(まったく変わってないや——)


 カナタはハーっと息をついた。リュックを床に置き、心地の好さそうな安楽椅子の上にぴょんと飛び乗る。背もたれが彼の背中を優しく受け止めた。革張りの上質なシートはほんの少しだけひんやりした。人肌が何となく恋しかった。


(おじいちゃんの膝の上に座った時は、温かかったなぁ——)


 カナタは天上から吊るされた照明器具を見つめながらしみじみと思った。

 


 祖父が引っ越すと言った時、カナタは強固に反対した。


 絶対に嫌だ! 

 おじいちゃんと離れたくない。僕もおじいちゃんについていく!


 そう言われて困り果てたのは祖父だけでなく、カナタの両親もそう。特に両親に対して不満を持っていたわけではないが、カナタはそれだけ祖父のことを慕っていたのだ。

 おじいちゃんがいない生活は、イチゴの乗っていないショートケーキのようなもの——カナタは実に甘ったるい事例を引き合いに出して何とか説得を試みた。しかし、祖父を引き留めることはついぞ叶わなかった。

 カナタは最後の抵抗手段として書斎を占拠した。両親に魔法を否定された時以上に泣きじゃくり、部屋の鍵をかけて立てこもってしまったのだ。

 カナタはおじいちゃんの椅子の上で丸まっていた。体育座りに膝の中に顔を埋めて、その様はさながら卵のように。その時も部屋の中は真っ暗で、書斎の外からは両親と祖父が懸命にカナタを呼んでいた。戸を叩く音も大きいが、彼の泣き声はそれ以上に大きかった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。カナタも流石に泣きつかれて黙ってしまった。そのとき、祖父が呪文を唱えるのが聞こえてきた。それは少年の耳にも微かに届いた。シリーズの一作目で、勉強好きなヒロインが披露した、あの解錠呪文だ。

 書斎の鍵がカチリと回る音がした。カナタは涙を浮かべながらも驚いて顔を浮かしあげた。彼が入口に目を向けた時には既に書斎の扉は開け放たれていて、戸口のところに見えたのはおじいちゃんの痩せた姿が一つだけ。

「お父さんとお母さんはリビングに帰したよ。二人だけで話をしよう」

「どうやって……鍵を開けたの?」

 書斎の鍵は内側からしか解錠が出来ない仕組みのはず。

「魔法で開けたんだよ。……と言いたいところだが、実はおじいちゃんにだけは開けられる秘密の仕掛けがあるんだよ」と言うと祖父は笑った。それは老獪な魔法使いのような怪しげな笑みであった。

「うそ! そんなのあるはずないよ」

「どうして嘘だと思うんだい?」祖父は電灯のスイッチをつけるや、「よーし。ならば一つ、面白い実例を見せてあげよう」と言ってゆっくりカナタの方へ近寄っていった。

 カナタは鼻をならしながらも、祖父の姿にくぎ付けになっていた。反発して閉じこもっていた筈なのに、今は早く近付いて来て欲しいとすら思っていた。

「面白い実例ってどういうこと?」

 おじいちゃんは椅子の横に辿り着くと、人差し指でもって机の引き出しの一つを指した。それは常に鍵のかかっている〝開かずの引き出し〟だ。

「この引き出しはどうやったら開くと思う?」

 カナタは首を傾げた。そんなの考えるまでもないことなのに、と訝しい顔をして。

「鍵を使うんでしょ?」

「どうしてそう思うんだい?」

「だって鍵穴がついてるから。僕、何度か開けようと思って引っ張ったことがあるけど、うんともすんとも言わないんだもん。とっても頑丈な鍵がかかっているに違いないよ」

「そうだね。普通はそう思うよね」

 祖父はそう言って楽しそうに微笑んだかと思うと、開かずの引き出しの、一段下の引き出しにおもむろに手をかけた。そうしてゆっくり慎重に引き出していくと突然、——カチッと微かな音が聞こえた気がした。

「え? 今の何の音?」

「さて、何の音だろうね?」と楽しそうにはぐらかしながらも祖父の目はこう語っていた。引き出しを引っ張ってみなさい、と。

 カナタは開かずの引き出しのつまみを握ると、そうして恐る恐る引っ張った。——が、机はやはり鍵がかかっているらしく突っかかった。

「開かないよ!」カナタは咄嗟に叫んだ。「おじいちゃん、僕をからかってるの?」

「おや」祖父はわざとらしく目を見開いた。「そういえばまだ仕掛けがあるんだった」

 おじいちゃんはついうっかり忘れていた、なんて頭をさすっているが、それはどう見ても忘れたふりにしか見えなかった。カナタは「いじわる!」と叫び、顔を膨らませた。

「カナタ、このつまみを左に回してごらん」

 祖父が指を指したのは開かずの引き出しのつまみ。カナタはつまみを握り直し、左に回そうとした。はじめこそ硬い手応えの反発に遭ったが、回り始めるとすぐにカチリと音がし、そして——、つまみが手前に押し出されてきた。

 カナタの驚き様を眺めながら、祖父は「さぁ今度は右へ回してごらん」と言った。

 つまみを右に回すとすぐに止まった。そうして祖父の言のままにつまみを押し返すと、ガチッと何かが噛み合うような音が聞こえた。

「さぁ……引っ張ってごらん」

 カナタは興奮の入り交じった鼻息を吐きながら恐る恐る引っ張った。すると開かずの引き出しはもはや何者をも拒むことなくするりと開いた。

 あまりの呆気のなさに、カナタは「え?」という驚きの声を漏らしてしまった。

「面白いだろう? これはね、からくり机なんだ。この鍵穴に鍵を差し込んでも絶対に開かない。こうやって特殊な手順を踏まないと絶対に開かない仕組みになっているんだよ」

 カナタはそう説明されてようやく理解できた。驚きと興奮のあまりに、カナタはもう一度やってみたいと祖父に対して何度もせがんだ。祖父は優しく微笑みながら「仕方ないね」なんて言いつつ、三度も同じことをやらせてくれた。

 ちなみに、その引き出しに入っていたのは家族の写真や、カナタがプレゼントした絵や手紙など、そのほとんどが他人にとってはゴミに等しいもの。祖父曰く、一番大切な宝物は家族以外にはないとのこと。

 その後、カナタはおじいちゃんの膝の上に座り様々な話を聞いた。主にカナタとの思い出話ばかりだったが、どれもこれも愛情なくして語れない話だった。

「それじゃあ、この家が嫌になったから出て行くわけじゃないんだね」

「当り前じゃないか。誰が家族を嫌いになるものか。——おじいちゃんもね、出て行くのは寂しいけど、どうしても一人でやらなければならないことが出来たんだ。そのためには、一人で黙々と作業をしなきゃならないんだ」

「どうしてここじゃ出来ないの?」

「もしかしたら、思いもよらない事故が起こるかもしれない。それでもしもカナタたちを巻き込んでしまったらと思うと……おじいちゃんは怖いんだよ」

 カナタは驚いて目を見開いた。

「そんなに危険なことをするの? 僕、おじいちゃんが怪我するのも嫌だよ!」

「だからこそ集中して作業をするのさ」祖父はカナタの頭を優しくなでた。「安心なさい。おじいちゃんは絶対に大丈夫だから」

 カナタは下を向いた。精いっぱい難しい顔をして考え込んでいたが、彼もおじいちゃんの気持ちは十分に汲み取っていた。

「じゃあおじいちゃん、マアトに誓って、絶対だよ!」

「よく覚えていたね」祖父は少し驚いた顔を見せた。そして、「わかった。真心に——マアトに誓って、約束する」と言うと、自分の胸をトントンと叩いた。



 そんな祖父がぱったりと家に来なくなってしまった。毎月欠かさず遊びに来ていた筈なのに、正月に一度来たのを最後に、二か月以上顔を合わせていない。

 カナタは少しだけ期待を持っていた。この阿蘇の家に、この書斎に来れば祖父が出迎えてくれるのではないかと言う、そんなか細い期待を。それはお葬式という別れの儀式を済ませた以上あり得ないことではあったけれども、カナタの願いは純粋そのものだった。しかし、そんな純粋さも、死という現実を前にしてはあまりに脆く、儚いもの……。

「おじいちゃんはもう、どこにも……」

 カナタは机の上に指を走らせた。それから目前のノートをめくろうとして、結局すべすべの表面を撫でるだけで他には何もしなかった。

 暫くジッと椅子の上に丸くなっていた彼だが、顔を上げたかと思えば、やにわに椅子を飛び降りた。

「引き出し、開けてみよっかな」

 久しぶりにおじいちゃんの宝物が見たい、そう思ったカナタは、先ほど不意に思い出した記憶を頼りにからくり仕掛けの引き出しに向き合った。鍵は呆気なく開いた。だが、解錠の手順をすべて終えるまでに少年はじっくりと時間をかけた。

 何かが溢れそうになるのを堪えながら、既に解錠を終えた引き出しをみつめること数十秒——。主不在の机に再び息を吹き込まんとして、カナタは静かに、音を立てないように、解錠された引き出しを開いて行った。

 まず初めに視界に飛び込んできたのは写真だ。それもかつて見たことのある写真。過去の記憶と比べて小物が減っているようだが、カナタはとりあえずその写真の束を手に取った。写真の重みが、そのまま思い出の重みに感じられた。

 一番上の写真に収められた場面——グリーンランドでの仁王というアトラクションを背景にした写真。カナタは父と母に囲まれ、そしてそのカナタの後ろには祖父が映っていた。祖父はカメラではなくカナタの方に微笑みかけていた。

 カナタは重ねられた写真を順繰りに眺めては後ろに回していった。熊本城の二の丸広場で撮影した写真——その天守閣での写真——阿蘇の大観峰の石碑の前で撮った写真——大分のサファリパークでの一枚に、長崎のハウステンボスでの一枚も——他にも様々な写真が重ねられていた。そのどれにも、必ずと言っていいほどカナタが写っていた。

 写真を繰るうちに、カナタの目にも涙が浮かんできた。写真に写る祖父はどれもこれもカナタに対して微笑みかけていた。そのため真っすぐ正面を向いている姿はとても少なかった。

 おじいちゃんの姿を留めた写真。——写真以外では二度と会えない。

 カナタは泣いた。さめざめと泣いた。体が揺れる度に椅子がキシキシと鳴いた。それが、カナタの泣き声の代わりに寂しく響き渡った。

 それからどれくらいが経っただろうか、カナタは目を真っ赤に泣きはらしたまま、再び写真を眺めようとして膝の上に置いていた写真を手に取った。それと同時に突然書斎の扉が開かれ、掃除機の轟音がなだれ込んできた。

 カナタは不意を突かれて写真を取り落した。落とした写真が机の下に散らばる。

 カナタは写真と入り口双方に視線を行き来させるが、母がジッとこちらを窺っていることに気が付くと、泣きはらした顔を見られまいとして咄嗟に俯いた。急いで目元を拭った。涙が袖口に滲んで染みを作る間に、掃除機の音が止んだ。

「何かイタズラしてたんでしょー?」

 母はほくそ笑んでいた。カナタの様子を察していて、あえてそう聞いたのかもしれない。

「何にもしてないよ!」

 何一つ悪事を働いていないカナタだが、何故だか言い訳めいた気分になった。

「ふーん、それならいいけど——リビングのエアコン入れたから、ぼちぼち移ったら? ここにいると風邪ひいちゃうわよー」そういうや母はニッコリと微笑み、書斎に入るでもなく、鼻歌交じりに元の掃除機掛けに戻って行った。

(まったく、お母さんったらデリカシーがないんだからなぁ)

 カナタは念のためにもう一度顔を拭った。そうして落としてしまった写真を拾おうとしてしゃがみ込んだ。写真は滅茶苦茶に床に散らばってしまっていたため、トランプをかき集める要領でガシャガシャと中央にまとめていった。

 すっかり滅茶苦茶な並びになってしまった写真を眺めながらも、また母がこちらにやってきてはかなわんと、カナタは写真を元に戻そうと引き出しの中に視線を移した。

 ——と、何かガラスのようなものが引き出しの底の方に入っていることに気が付いた。


(何だろう?)


 カナタは写真を机の上に置くと、それを引っ張り出してみた。そうして驚いた。

「うわっ、おじいちゃん、こんなの持ってたの?」

 カナタが取り出したもの、それは巷で話題になったことのある電子タブレットだ。少しかじられたリンゴのマークで有名な会社の、おそらく初代のものだろう。カナタはそれをしげしげと眺めた。各所のボタンをポチポチと押してみるが、電源が入っていないのか、はたまた電池が切れているのか、何の反応も起こらない。

 しかしカナタ少年にとってそれはとても魅力的な機器に違いなかった。ケータイの一つもまだ持たせてもらっていないのである。

 充電用のケーブルはあるのか、と引き出しの奥を覗き込んでみるが、どうやらケーブルの類は一つも入っていないようだ。


(どうしよう……ちょっと使ってみたいかも。でも勝手に使ったらまずいかなぁ)


 そう煩悶しながらもカナタはタブレットをジッと見つめた。少年の思案顔というのは、どことなくコミカルで移り気であった。

 と、そこへ再び空気を読まない母の乱入だ。「カーナタ、そろそろここ掃除機掛けちゃうよー?」と言いながらも、母は既に書斎の中に掃除機を滑り込ませていた。

 カナタは反射的にタブレットを背中に隠した。それから一瞬迷いつつも好奇心に勝てず、リュックサックの中にそれを放り込んでしまった。

「ふんふふーん」と鼻歌混じりに迫る母。

 いまだに引き出されたままの開かずの引き出し。

 カナタは慌てて出しっぱなしの写真を乱雑に引き出しにしまい込み、逃げるようにして書斎から飛び出していく。


(何だか泥棒でもしている気分だ——)


母のお気楽な鼻歌と掃除機の唸りを聞きながら、カナタはそう思うのであった。

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