MB——UPDATE——

芙南季嶺

序—MOVE

プロローグ 奇縁(!)

2008年10月31日

【アイルランド】 とある山岳地帯にて


「ぶっちょぉぉぉぉぉ——」


 情けない響きが山間から漏れいずる。——暗く、鬱蒼うっそうとした夜の森。明け透けな空には満天の星々。三日月の競演相まちほのかな灯りが森と空との間を優しく照らしている。


「ぶっちょおぉぉぉおぉお——」


 意気地いくじのないサウンドが鋭角な空気を震わせる。ここは夏と冬の境目。木々は肌寒さに頬を染め、スクラムを組み、夜気とともに星灯りをも拒絶している。


「ぶちょおぉぉぉおおん——!」


 及び腰な声音が木霊こだまする。だが、森の主たちはその声に身をすくめた。鳥獣どもは陰に潜んで怯えている。尋常ならざる来訪者を前にして、主役たる座を奪われてしまったから。


「ぶちょうぉぉおぉぉん!」


 四つの足音がしんと静まり返る深緑を賑やかした。それらは大木の幹を蹴り、粗削りの岩場を飛び越え、木の枝を掴んでは猿のように風のように跳ね進む。天然の罠たる波打つ地面や下生えなど意にも返さず、足場がどれほど悪かろうとなんのその。しなやかに駆ける様はまるで鹿。迷いや躊躇ちゅうちょのなさはさながら猪。障害が立ち塞がろうと強引に超えていく様はあたかも牡牛のごと。


「ぶちょぉぉぉぉってばぁ! ねぇ⁉」


 四人は尋常じんじょうならざる存在。その恰好は明らかに珍妙ちんみょう。スーツに革靴、ついでにビジネスバックと真っ黒くろすけ黒づくめと夜を飾らぬ出で立ち。野山を行くには明らかに場違い。だが、そんなことはお構いなしと、また獣の隠れ潜む岩場を踏み越えて行った。


「ちょっとぉぉ! 聞こえてるでしょおぉ⁉ 無視しないでくださいよぉぉ!」


 だが、そんな彼らはどうやら切羽せっぱ詰まっているらしい。手足こそ軽快。だが、彼らの顔を見れば、余裕の「よ」の字も見れらないほどに冷や汗まみれの青息吐息あおいきといき。中でもいっとう頼りなさそうでお人よしを描いたような男——霧隠祭蔵きりがくれさいぞうが、前を行く男に向かって再びなよなよと叫んだ。


「部長ぉぉ~! 何で無視するんですかぁ⁉ 聞いてくださいってばぁ!」

「じゃかましぃわぁ!」


 部長と呼ばれた男が大砲のように叫んだ。歳のほどは四十を過ぎているだろうか。気合の塊のような面構えにちょっぴり出っ腹のその男は、般若はんにゃのような面を見せるや背後をくるりと振り向き、に再びドギャンと叫んだ。

「ギャーギャー喚きおってなんのつもりだぁ⁉」

「いやいや! 部長のことを呼んでるんじゃないですか!」

 祭蔵は走りながら慄いた。

「気安く呼ぶでないわ! 貴様に話しかけられると虫唾むしずが走るんじゃ!」

「そんな言い方はないでしょぉ⁉」

 部長は一切スピードを緩めることなく、横倒しになっている大木をひょいとのままに飛び越えた。

「黙って走れぇぇい!」言って部長は祭蔵を突き刺さんばかりに指さした。

「いいか貴様、今後一切わしを呼ぶでないぞ! わかったかぁ⁉」

「いやいやいや、用があるから呼んでるんですけどぉぉ⁉」

「おどれあぁぁ! これ以上文句を言おうものなら減給に処すからなぁ!」

「パワハラぁぁ⁉」

「ぱわはらぁ⁉」部長が目をひん剥いた。「なんじゃその横文字はぁ⁉ パイナップルワンダフルハラショーの略か⁉」

「いやいやいやいや! 意味不明なんですけど!」

「意味不明だとぉ⁉ わしを愚弄ぐろうするかきさまぁ⁉」

「違いますから! てかいったん立ち止まってくださいよぉ!」

「だまれぇい! 今後一切何かを言おうものならそのたびに減給! 減給! 給与明細がマイナスになるまで減給してくれよぉぞぉ!」

 そう叫んで部長は前へ向き直った。

 祭蔵は絶句した。その時、彼の背後からさらに弱弱しい声音が響いた。

「うそでしょぉぉ? いつまでここを走ればいいって言うのぉぉ?」

 祭蔵の同僚どうりょうにして唯一の紅一点こういってん——望月もちづきである。ゼーゼー息を荒げていて、いかにも苦し気。

「どう考えたって同じ場所ずーっと走ってるよねぇ? なんかの儀式なの? それともこれって罰ゲーム? 任務の途中じゃなかったっけぇ?」

 そう、これは任務の途中。それも日本の今後を左右しかねない重要任務の真っ最中。なのにひたすら走っている。意味も分からず森の中を右往左往している。

「ぶちょ~」望月が猫なで声で懇願する。「おねがぁい——聞いてくださぁい」

 すると部長の態度は一変。先とは打って変わって素早く軽快に振り向いた。それもにこやかに。鼻の下なんて見るも無残なまでに伸びきっており、それでもやっぱり歩みは止まない——いや、後ろ向きに走りっぱなしなのだ。

「はぁい? なにかなぁ? わしの可愛い部下たる望月ちゅわぁん」

「やだきもーい」望月の顔が遠慮なしに引きつる。

「きもーい、だなんても~、かわゆい~」

 まるでぶりっ子のように部長は身をよじった。

「ぶちょ~、もう引き返しましょうよぉ~。私疲れちゃいましたよぉ」

「お疲れ気味のもちづきたんも可愛いねぇ。任務が終わったらたーんと労ってあげるからもうちょっとだけ頑張ろうね~!」

 祭蔵はあまりの態度の差にフガッと鼻を鳴らした。そうして彼が「部長」と呼びかけるや否や、部長の形相は再び般若と化した。

「黙れぇぇさいぞぉぉ! 貴様は減給だぁ!」

「ちょ——⁉」

「わしはいま忙しいっ! 邪魔をしようものなら切腹を命じるぞぉ!」

 祭蔵は白目をむきながら「ひょひぃ」と小さく悲鳴をあげた。

「ぶちょ~」と望月。「もう小一時間くらい走りぱなしですよぉ……いい加減諦めましょうよぉ~」

「そうしたいのはやまやまなのだがねぇ」部長は火であぶったもちのようなスマイルを望月へと返す。「ここでやめちゃったら今までの苦労が無に帰しちゃうからねぇ」

「えぇぇ~~!」望月の絶叫が轟く。「もう足が棒ですよぉぉ~」

「あぁ、なんて可哀そうに……そうだ! なんならこのわしがおぶってあげよう! さぁもちづきちゅわん、いつでもいらっしゃい!」言って部長は走りながらもろ手を開いた。

「オエぇ」と望月は心底嫌そうにえずいた。

「それより部長」と祭蔵。

 するとすかさず鬼の形相が。「きさまぁぁぁ——」

「あぁ——もう減給でも何でもいいんで、とにかく作戦を練りましょう!」

「作戦だぁ⁉ 土に埋めるぞ貴様ぁ」

埋葬まいそう⁉」祭蔵は面食らいつつもブンブンと首を振った。「とにかくヤバいですって! この場所通るの何度目ですか⁉ 一度や二度じゃないですよ!」

「気のせいだ!」

「気のせいじゃないですって!」

「気合が足りんのだ!」

「気合とか関係ないですって!」

「上司に反論するな愚かもんがぁぁ!」

「気のせいじゃないですよぉ~」望月もたまらず言う。「私もここ見覚えがありますもーん」

「そうかなぁ?」部長の顔が途端にほころぶ。「うーん、わしにはわからないなぁ」

耄碌もうろくしてんじゃないですかぁ?」

「もちづきちゅわんったら手厳しぃ~い」部長がまたもやぶりぶりぶりっ子と身を捩る。

「耄碌してるよ」と祭蔵がぼそり。

「祭蔵ぉぉ! 聞こえておるぞぉ! 貴様あとでしばくから覚えておけよぉ!」

 祭蔵がしゅんとしたところで、望月が「パワハラマジパネェ」と呟いた。

「パワフルなハリケーンランボーって意味かなぁ? わし、スタローンのように張り切って走っちゃうから皆の衆、しっかりついて来るのだぞぉ」言って部長はハッハッハッと笑いながらようやく前を向いた。

 望月の「部長の頭もマジパネェ——」という絶望的なつぶやきを聞きながら、祭蔵は現状を頭に思い描いた。


 森林に分け入ってからここまで約三時間が経過。さらに約一時間前におぞましい者どもの初襲撃に遭遇して以来、野山をプロのマラソンランナー並みに走り続けている。しかも同じ場所を巡らされているらしく、迷いの森からまったく抜け出せる気配すらないと来ている。

 侵入当初は十人の大所帯だった。それが断続的な襲撃のたびに一人一人削られていき、現状の四人にまで減ってしまった。皆が手練れの忍び——そう、熟練の忍者だったのに。


 祭蔵はチラと後ろを振り返った。彼の後ろに続く望月はヘロヘロながらも部長への愚痴をこぼし続けている。さらにその後ろ、現状しんがりを務める状況にある男の名は由利ゆり。普段は男前の彼も、今はもう錯乱しているのか「希望も無ェ……終わりも無ェ……オラたちひたすらぐーるぐる……オラこんな森いやだぁ……オラこんな森いやだぁ……野原さ出るだぁ……」などと虚ろな目で呟いている。


 ——と、突然おかしな笑い声が山間を賑わせた。

 おぞましき襲撃者の笑い声だ。


 走りながらも咄嗟に身構える祭蔵たち。それから間をおかずして上方の木々がガサガサと揺れ動いたかと思うと、彼らの進み行く先の頭上二メートルほどの場所に、何か大きなものが垂れ下がって来た。

 最後尾の由利が、それを見上げながら「があっ……!」と悲壮に叫んだ。

 それは逆さづりにされた人間——彼らの同僚の山田である。その顔は真っ青にして白目を剥き、凍り付いてでもいるのかピクリとも動かない。

 祭蔵は仲間の哀れな姿を認め過ると、半ば絶望的な気持ちに立たされた。さらに走り行く先々では同じように逆さづりにされた仲間の哀れな姿が次々に立ち現れては過ぎていく。誰もかれもがブランコのように力なく揺れ、しかも生死不明——。だが一つだけ確かなことがある。彼らは見せしめ。侵入者の末路はこうだと示し、襲撃者たちは高みからあざ笑っているのだ。

「ヤバいですよ! そろそろ来ますよ! 次が来ますよぉぉ!」祭蔵は罵倒するように叫んだ。

「じゃかましいぃわぁぁぁ!」

「わたし死にたくないよぉ~」

「案ずるでない!」部長が力強く親指を立てて見せた。「もちづきたんのことは命に代えてもわしが守る!」

「僕のことも守ってくださいよぉぉ」

「貴様はさっさとくたばれぇぇい!」

「ひどぉぉ——⁉」

「そんな調子のいいこと言ってぇ、ぶちょーったら無力じゃないですかぁ」

「なんのなんの! 矢が降ろうが槍が降ろうが、率先してもちづきたんの盾になるつもりですとも!」

「そんなもん降って来るわけないじゃないですかぁ。時代錯誤すぎます~」

「部長、僕のこともお願いしますよぉぉ」

「黙れぇぇ! 貴様は槍と矢におとなしく貫かれればよいのだぁぁ!」

 ——その時である。この世のものとは思えないような、なんとも薄気味悪い絶叫が樹間を引き裂いた。瞬間、部隊全員の顔色が変わる。足も止まる。全員が上空を見上げて、森を賑やかす葉群れのその先を見据えた。

「来るぞ!」部長が勇ましく叫ぶ。「全員回避準備!」

 木々がざわざわと騒めいた。まるで寒さに打ち震えているかのような光景。幹も根も凍りつき、枯れ果て、今にもすべての葉を落としてしまいそうな——と、彼らの体を実際に寒気が襲った。極寒の地に放り込まれたかのように、彼らの吐く息が急に白みを帯びた。

 ——瞬間、青白く透き通った手という手が頭上の葉群れを突き破って飛び出して来た。

 途端に望月が「ギィャァァ——!」と絶叫で迎え撃った。

 それは腐乱ふらん死体が雨あられと落下してくるようなものだった。だが、それらは物言わぬ肉塊とは別なるもの。笑いとも叫びともつかぬ声を発しながら、祭蔵らを認めるや否やニヤリと微笑んだ。


「ゴーストだぁぁ!」


 奴らは祭蔵らめがけて急降下。

 ——と、望月が先の絶叫に負けぬ声量を張り上げた。

「死んでたまるもんかぁぁぁ——!」

 叫びながら望月は背後の由利の腕をむんずと掴んだ。

 突然のことに呆気に取られる由利。

 望月は何の迷いも躊躇ためらいもなく、その由利の体を前方へ放りやった。


 由利の体が宙を遊ぶ——。

 惚けることしかできない由利の顔——。

 意表を突かれたる祭蔵たちの間の抜けた視線——。


 時間が止まってしまったかと思えるほど酷く緩慢に時は流れた。そうして由利の体に何重ものゴーストが絡み付いた途端……時は無情なる素早さを取り戻した。

「なにごとぉ⁉︎」祭蔵が咄嗟に叫んだ。

 由利は丘に上がった魚の如く口をパクパクさせながら、同僚の姿を目で追った。合唱ポーズに〝南無南無〟とお茶目に微笑む望月の姿があった。

「オラこんなぁ最期はいやだぁぁぁ……!」

 そんな悲鳴を残して由利は遥か彼方へと連れ去られてしまった。

 だが、呆然としている暇などありはしない。怨霊おんりょうどもは一人連れ去ろうが構わず襲い来るのだ。無重力よろしく布切れがはためくがごとく無軌道に節操もなく。

 祭蔵らには回避する以外の選択肢がない。回避——回避——とにかく回避。石ころを投げようが大木を盾にしようがお構いなしの遠慮なし。やつらはどんな障害物を完全無視の素通り!

「もー、何なのこいつらー! ズルっこいしー! しつこいしー! キモイしー! 臭いしー! 生理的に受け付けないんですけどー!」

 祭蔵は密かに望月に同感する。実際には臭気こそ放っていないが、見るだに腐臭を放っていそうなのだ。なんせぐじゅぐじゅに腐った体からは骨も肉もオープン記念大特価。出血なんて始めっから大サービスだし、はらわただって腹からつかみとりの詰め放題。

「手裏剣投げても通り抜けちゃうしぃ、忍術なーんも効かないしぃ~!」

 そう、頼みの忍術が通用しないことが一番厄介だ。

 水を出したところでやつらを洗濯できるわけでもなし。

 火は……山火事を考慮しなければいいだろう。

 ならば風は? ——残念ながら波乗り気分を許すだけ。

 それならば雷だ、——とこれが現状では最悪の一手。電撃は彼らにとってマッサージに等しいらしく、ビリビリと痺れた後には二倍速で襲い掛かってくる。

 他の忍術もあるにはあるが……結局、今は避けることがもっとも無難なのだ。

「もー無理~。誰か今すぐ坊さん呼んできてぇぇ! 神父でもいいからぁ」なんて弱音を吐き散らしながらも望月は軽やかに怨霊を避け続けている。先ほどまでフラフラだったとは思えない機敏さで。

「危ぬぁぁい! もちづきたぁぁん!」

「キャャァァアア! どさくさに紛れて触んないでくださいよぉ!」

「まさに危機一髪! 怨霊どもめ、わしのもちづきたんには指一本ふれさせんぞっ!」

「怨霊よりぶちょーの方がコワイィィ。マぁジセクハラぶちょー! 訴えるぅぅ」

「なんですとぉ⁉ 世界一くわっこぃぃハッピーラッキー部長⁉ しかも世界にわしを宣伝アピールとな⁉ みなぎって来たぁア!」

「ぶちょーの頭どーなってんのぉぉ? てかこっち来ないでくださいよぉ! 亡霊に集中してくださいよぉ! これ見よがしに気取ったポーズとらないでくださいよぉ」

「今の避けっぷりは最高にナイスガイだったろう⁉ ——はっ! ——たっ! ——どうだ⁉ キアヌもびっくりマトリックス避けだろうがなんのその!」

「もうムリムリ! 亡霊よりぶちょーの方がマジアウトデラックスぅぅ」

「ハッハッハァ! 照れちゃっても~、愛いやつよのぉ」

「きっしょぉぉい! この世界から消えてなくなれぇぇ!」

「心配するな! このワシが死ぬときは……もちづきたんも一緒だ」

「道連れいやぁぁぁ!」

 なんという賑やかさ——。祭蔵には口を挟む暇がない。ゴーストたちも心なしか当惑の色をあらわにしているように思える。

「——それよりぶちょー! 今思ったんですけどぉ、これって出張手当とか危険手当ってついてるんですよねぇ⁉」

「何を言っておるのだもちづきたん! そんなものついているわけないだろう。手当なんぞあろうものか。はっはっはっ!」

「はぁ⁉」

「万が一の場合の労災も降りん。すべては自己負担!」

「うそでしょぉ⁉ 超絶ブラックぅぅ⁉」

「その代わり! 任務が成功したあかつきには、わしからの熱い接吻せっぷんが贈られる! これほど嬉しい栄誉はなかろう!」

「捕まっても地獄、生き残っても地獄ってあるぅぅ⁉ 帰りたーい! 過去に戻ってやり直したいよぉォォ」

 よくもまぁ二人ともに口が回るものだと祭蔵は内心で感心すると同時に軽蔑けいべつもした。これではまるで茶番。必死になって避け続けている自分が馬鹿みたいに思える。

 だが、いよいよもって厳しさを増すゴーストの波状攻撃に——部長たちのおふざけにゴーストもおかんむりのようだ——賑やかな声音も次第に緩んできた。そうして四分ほど経ったところでようやくゴーストどもが空へと舞い戻って行った。奇妙な笑い声を残して——。

「ふぅ……ようやくやつら上へ戻ったか」と部長が忌々いまいましそうに呟いた。

 祭蔵も一息つく。理由は定かではないが、亡霊どもは永遠には襲ってこない。五分ほどこちらを付け回した後は必ず上へ還るのだ。だが、それも束の間……。わずかばかりの猶予の後に再び奴らは降りてくる。

「部長、今のうちに作戦を……」

「よし! 今のうちだ——行くぞ!」と部長は無策にも走り出した。

 ため息を吐き出しながらも祭蔵がそれに続く——と背後に続くべき気配がない。

「あれ? 望月?」

 背後を振り返った祭蔵は、そこにいるべき彼女の姿を見つけることが出来なかった。まさかゴーストに連れ去られてしまったのか。

「部長、望月の姿がありませんよ!」

「なんだと⁉」と叫ぶや、部長は器用にも横走り——後ろ走り——再び横走りと一切スピードを緩ませることなく四方八方を確認し終えた。

「くぅ……わしの可愛いもちづきたん……任務終了後、必ず手厚く弔ってやるからな!」

 なんて泣くそぶり見せながら、部長は他の誰に対する想いをも見せなかった。

 ——と、走り行く二人の前方の木々がガサガサと揺れ動いた。その次の瞬間、逆さ吊りにされた由利の痛ましい姿が現れた。だが、望月が吊るされる気配はいっこうにない。

 まさかあの女、逃げたのではないか——そんな疑念が祭蔵の頭にもたげたところで、残された二人はこれまた見慣れた池のたもとへと辿り着いた。すると珍しくも部長が足を止めた。

「うーむ、またこの池か」

 部長は池と言ったが、実際には湖かもしれない。けっこうな面積の水たまりである。対岸がどこにあるのか、どこまでも続く暗闇の中ではとうていうかがいようがない。

「そんなことより……」祭蔵は肩で息をしながらようよう言った。「もう引き返しましょう」

「だまれ根性なしがぁ!」

「いやいや……これ以上の被害は、今後の我々の査定さていに影響するかもしれませんし——」

「さていぃぃ?」と部長はドスの利いた形相を祭蔵へ向ける。

「いやだって、もうほぼ壊滅状態じゃないですか。もはや部長の責任問題はまぬがれないっていうか、やっぱり、——ねぇ?」

「貴様のその軟弱なんじゃくな精神が気に食わん! しかもよりによってわしに責任転嫁せきにんてんかするつもりかぁ⁉」言って部長は祭蔵の胸倉を掴んで乱暴に引き寄せた。

「ちょちょ! ぶちょ——僕はずっと部隊の立て直しを進言していたじゃないですかぁぁ」

「貴様のせいでわしの優秀な仲間が全員捕まったのだ!」

「はぁぁぁ⁉」

「我ら新世代十勇士しんせだいじゅうゆうし……本来ならば亡霊ごときに遅れをとるはずがなし。すべては貴様が鬱陶うっとうしいことが原因。よって、貴様は任務終了後、僻地へきちへ更迭だ。わかったか⁉」

 祭蔵は大口を開いて絶句した。もはや何かを言う気力すら起こらなかった。

 部長は祭蔵を荒々しく放りやると再び池の方へと視線を戻した。

「わしはこの池を渡る」

「……今更ですか?」

「最初から怪しいとにらんでいたのだ。もはやこの池の対岸を目指す以外になかろう」

 偉そうに力説する部長の背中に向けて祭蔵はしかめっ面を返す。

 この池が怪しい、そう最初に主張したのは仲間のかけいだ。それなのに部長と来たら、忍術を使う手間が惜しいとけんもほろろにはね除けた。その筧も二回目のゴーストの襲撃であの世に逝ってしまった。——いや、まだ生死不明だ。

「貴様はここに残ってわしのために犠牲となれ」

「はぁ?」

「それが貴様の最後の任務……ここで朽ち果てるのが貴様には似合いだ!」

 そう言うや、部長は素早く印を結び始めた。

(まったく、冗談じゃないぞ!)祭蔵は置いていかれまいとして慌てて両手を組んだ。体内を巡るオーラを意識したところで、紐のないあやとりのように印を結び始める。

 ——が、タイミングの悪いことにゴーストの絶叫が再び彼らを見舞った。不意を突かれた祭蔵はビクリとして術を中断してしまった。

「ぬぅ! 奴らもう来やがるか!」と言いつつ、上司は部下の様子などお構いなく池の上に飛び出した。部長の足が池の水に触れ、沈み込む——かと思えば沈むことなく、まるでコンクリートの路面に降り立つが如く水面に直立する。

「来るなら来い! 亡霊どもめ……ワシだけは絶対に捕まってやらんぞ!」部長は勇ましく叫ぶや、後ろの祭蔵のことなど気にも掛けず、一人水上を走り出した。

「ちょっ、ぶちょ——」祭蔵が叫ぶ、が、部長の耳には届かない。部長は一人ズンズン進み行き、あっという間に暗闇に埋没まいぼつしてしまった。

「本当に置き去りにする上司がこの世にいるぅ……?」

ゴーストの笑い声はますます強くなり、祭蔵を包囲するように響き渡る。

(ああ、どうしよう、どうしよう——)ワタワタと焦りながら、祭蔵はふと違和を感じ取ってすぐ手前の水面へ目をやった。

(——なんだ? 気のせいか?)

 水底から光が湧き出ている気がした。そのため、祭蔵はますます身を乗り出して池の底をじーっと凝視ぎょうしした。

 ……間違いない、光だ。淡くはあるが、確実に水底から光が漏れ出ている。と、その奥で何かが動いた。気のせいなどではない。いま何かと目線が交錯したのだ。

「池の底に……人がいる?」

 祭蔵がそう独り言ちた時である。ヒュオォっと背後から風が吹いた。凍えるほどの冷気とともに、禍々まがまがしいゴーストどもの気配が迫り来る。

「ヤバ——っ!」

 祭蔵は逃げようとした。——が、回れ右しようとした途端に足を滑らせた。「あっ」と間の抜けた悲鳴を残して、そのまま背中から池にダイブしてしまった。


 ——水底へと飲み込まれていく祭蔵。

 祭蔵はもがいた。ガボガボと不恰好に。

 彼の体が水中にてくるりと一回転、

 おかしなことに、水底には底がなかった。

 にあったのは、灯りとともに揺らぐ水面みなも——。

 祭蔵は混乱しながらも上下を素早く確認した。

 上にも——下にも——やはり水面が存在している。

 一方には暗闇をただよう青白い無数の影が……。

 もう一方には光のさしたる穏やかな波紋はもんが……。

 ——これ以上は息が続かない。祭蔵は迷わず一方を選び取った。


 祭蔵はじたばたともがきながら底めがけて浮上した。水飛沫みずしぶきを上げながら水面に顔を出した瞬間、彼の顔に仄かな灯りが差した。

 もはやゴーストも何も、彼らを苦しめていた迷いの森さえもすっかり消え失せていた。代わりにすぐそばの陸地に立派な洋館があった。温かな光源がそこからあふれていた。

 祭蔵は呆然とした。自分の目線の先にあるものが信じられなくて。

「これは……現実か?」

 呟きながら目を瞬いた。何度も何度も。

 岸に上がるや顔についた水滴を振り払い、再び洋館を眺めた。屋敷の周囲には巨大なカボチャや星の形をしたツル状の植物がわんさと茂っていた。——いや、飾り付けられていると言った方が正しいかもしれない。他にもきらびやかで怪しげな装飾品が大量に見えるし、その様子を何かに例えるとすれば、ハロウィンという言葉こそが最も相応しいと思われた。

 そのうち館の前に何者かがたたんでいることに気が付いた。どうやら祭蔵をジッと見つめているようだ。その者の顔色こそ判然としないが、その出で立ちはまさに紳士と呼ぶに相応しいもの。——いっとう上等なスーツを召し、宝石やたか意匠いしょうが施された銀のステッキを地に突いて静かにたたずんでいる。

「あぁ……やった……やっとたどり着いたんだ!」

 興奮を抑えられず、祭蔵は我知らず大声をあげていた。すると、屋敷の前に立っている紳士がわずかに身じろぎした。警戒しているのかもしれない。それもそうだ。夜分遅くの突然の来訪者。しかも突然叫び声をあげるような輩と来ている。

 しかし祭蔵はそんなことお構いなしに紳士に向かって走り出した。締まりのない表情を浮かべ——さらに少し微笑みながら——彼は子供のように、あるいは浮かれた酔っぱらいのように紳士の前へ突き進んでいく。

「あなたはもしや、オーリン・マクガヴァン様ではありませんか⁉」と、息せき切るように叫びながら、ようやく紳士の表情が窺える位置にまで辿り着いた。

 銀縁ぎんぶちの眼鏡をかけた紳士は非常に怪訝けげんそうな顔をしていた。年齢のほどは三十代後半と言ったところだろうか。ダークブラウンの毛髪には白髪が半分近く混じっており、同じく白交じりの口髭とともに余念なく整えられている。しかもハンサムだ。どんなに顔をしかめたとしても、そのダンディな顔つきは醜く歪むということは決してないというほどに。どっかの無能上司と比べて、えらい違いだなぁと祭蔵は思う。

 ……と、ぼーっと突っ立っている場合ではない。祭蔵は急ぎ挨拶をしようとした。だが、日本語では通じないのではないかと思い、必死に英語を繰ろうとして「あ——えっとぉ——あぁ~」としどろもどろのパントマイマーに成り果ててしまった。

「キミぃ……随分ずいぶん不躾ぶしつけな若者だネェ」紳士は目を細めて祭蔵をねめつけた。「私のことをオーリン・マクガヴァンと、そう呼んだように聞こえたが? んん?」

「すみませ……あ、え? 日本語が話せるので⁉」

「そりゃあそうさ。私はこう見えて言語学者——日本語を含めて十ヶ国語は話せる。それはともかく、初対面に対して失礼だと思わないのぉ、きみぃ」

 紳士はますます不愉快そうな顔をしたかと思うとこうポツリと呟いた。

「はぁ~。こんなことならレディの方を素直にお招きすればよかったヨ」と。

「あ、え……」と才蔵がますます困惑していると、紳士はやれやれとため息を吐く。

「——とりあえずきみネェ、普通、人にものを訪ねる際には自分から名乗らないかネ? 君らのお国の漫画やアニメと言ったサブカルチャーでも、よくそういうセリフが出て来るでしょ。違う?」そう言うと紳士は眼鏡を人差し指でクイクイっと動かした。

 正論だ。こちらが自己紹介をしなくては不審者と変わりがないではないか。才蔵はゆっくり深呼吸をすると、それからすぐ懐からびちゃびちゃに濡れた名刺を取り出し、佇まいを正してピッとそれを両手で差し出した。

「わたくし、霧隠祭蔵きりがくれさいぞうと申します! この度はオーリン・マクガヴァン様に大切な用があって参上いたしました」

「——つまらん」

「は?」固まる祭蔵。

「実につまらん」と真顔の紳士。

「はぁ……あの……わたくしは霧隠祭蔵と申しまして——」

「あーあー、そうじゃないヨ」紳士は呆れたように手を振ると、もう一つ「そうじゃないだろう?」と繰り返した。

「えーっと、わたくし、霧隠祭蔵と——」と、才蔵は恐る恐る繰り返してみるが、

「違う、違う、違うヨ。つまらない——実につまらないネ!」と紳士が不満げに叫んだ。

 祭蔵はたじろいだ。そんな祭蔵に紳士が銀のステッキを突き付ける。

「君はあれだろう? ジャパニーズ……サムライ?」

 祭蔵は小首を傾げた。いったいこの紳士は何を求めているのか。

「いえ、私はサムライではなく、忍者であります!」

「そう、そうだニンジャ! いや、そうじゃない、君らこう——独特な喋り方をするだろう。ちがうかネ?」

「え?」独特な喋り方? 祭蔵はますます首を傾げて困惑した。それから暫くしてハッとした。つまりこういうことかもしれない。

拙者せっしゃ、霧隠祭蔵でぇ、ござる!」

「アメェーイジィーング!」突然割れんばかりの拍手が轟いた。「イイネ! イイヨ! それだヨそれっ!」などと言って、ついでに口笛まで鳴らして紳士が感激している。

「セッシャ! ゴザル! もっと、もっときたまえヨほら、もっとガツーンと時代劇を演じてみせて欲しいネェーイ」と言いのけるや否や、のけ反った状態で両手の人差し指をビシっと祭蔵へ突きつけた。ちょうどそれはゲッツのようなポージングであった。

(はぁ? もっと? 時代劇ぃ?)これ以上何を言えばいいのやらと思いつつ、祭蔵は咄嗟にテキトーな口上を思いつくままに述べ立てることにした。

「拙者ぁ、今は亡き伊賀いが忍者の末裔まつえいにてぇ——当代最高峰の幻術使いにてぇござる! 此度こたびはぁ——オーリン・マクガヴァン殿にお目通り願いたく思い、参上仕りてぇござるぅ!」

「オーウ、クレイジー‼」

 紳士は年甲斐としがいもなくガッツポーズをし、豪快に身をそらした。スポーツ観戦者が贔屓ひいきのチームの勝利を確信した時のような勢いである。

「そこにホラ、もう一つ——あれだヨあれ。もっとたたみかけてホラ!」

(もう一つって何だ、なんなんだ——)祭蔵は妙な高揚感こうようかんと場当たり的なテンションでヤケクソ気味にとある動作を行った。それは忍者に描写されがちな、胸の前で指を組み合わせるあの定番のポーズのこと。そうして祭蔵は「ニン、ニン!」と無駄に男前な声を絞り出した。

 言ってしまってから祭蔵はこっぱずかしさに顔を赤らめた。しかし、目の前の紳士にとっては抜群の効果があったようだ。

「最高だネ——これ以上の感動がどこにあろうか——まさか本場のに会えるなんてネ——想像もしなかったヨ……」紳士は目頭を押さえて感涙に浸っていた。

 祭蔵は呆気にとられた。まさか、目の前のこのなんちゃって紳士が我々の目的の人物だと言うのだろうか。ついつい舞い上がってしまったが、考えてみるとそうとは限らないではないか。この人物はひょっとすると目的の魔法使いの召使いかもしれない。いやだが、仕立ての良いスーツに、この豪華そうな杖は——。

「おっと、これはいけない。今度はわたしの方が不躾ぶしつけなことをしてしまったネ」

 紳士ははにかみながらハンカチを取り出し、目元を拭い、そして眼鏡を掛けなおした。

「君のその時代劇に免じて先の無礼ぶれいは許すとしよう。お次は私の番——」ゴホンと咳払いをするや、紳士は緩んでいた顔を瞬時に引き締めた。そうして口を開いたところで——。

「それではあなたが」と祭蔵が咄嗟に割り込んだ。「魔法使いのオーリン・マクガヴァン様でお間違いない? いや——オーリン殿であらせられるでぇ、ござるか?」

 紳士はムッとした顔を見せつつも、ぞんざいに頷いた。

「おお、やはり! 拙者、感激のあまり涙が溢れそうでござる」

「キミ、もうはイイヨ。あんまり多用されると感動が薄れてしまう」

 祭蔵の顔がわずかに引きつる。

「で? いったい何用かな?」

「あぁ、そうでした! 実はお渡ししたいものがありまして」と言ったところで祭蔵はハタと気が付いた。(しまった、要件をまとめた書類がない!)そういえば部長が持っているんだった、と祭蔵はタコのようにアタフタとし始めた。

「むむ? 何かお探しかネ?」

「書類の入ったバック——部長が——あぁ……」

「ふむ、もしかしてこれのことかネ?」

「えぇっ?」っと祭蔵が素っ頓狂な声をあげる。

 紳士の手の中には、どういうわけか部長のバックが握られていた。

「どうしてそれをお持ちで?」

「君らの中で一番暑苦しそうな男が大事そうに抱えていたんでネ。ついついこれだけ拝借はいしゃくしてしまったのだヨ」

「拝借——部長をどうしたので⁉」祭蔵の顔が心なしか明るむ。

「まぁそう慌てなさんな。どうもしてないヨ。一人になってもまーだ逃げ回ってるようだネ。流石は忍者……なかなかのタフガイだ」

 祭蔵はがっくりと肩を落とした。

「そういえば、森の中で仲間が次々とゴーストに襲われたんですが……みんな、ちゃんと——そのぉ——生きているんでしょうか?」

「生きてるヨ」こいつ何当たり前のこと聞いてんの? とでも言いたげな呆れ顔を見せたかと思えば、紳士はなおも続けた。

「人殺しは重罪だヨォ? いくら魔法使いでも殺人を行うのは一部の頭のおかしなやからだけだとも。それとも何かな——」紳士はついと首を前に出し、祭蔵をねめつけた。「きみは私のことをそのような輩と同一のものとみなそうというのかネ」

 鋭い眼力が祭蔵の眼を捉えて放さなかった。とぼけた紳士のようでいて、相当な実力がその瞳の中に垣間見えるようだ。

「——じゃ、じゃあ、みんな生きているんですね!」

「朝日を受ければ勝手に目を覚ますヨ。ま、逆さ吊りのまま、夜を越せればの話だけど」

「よかったぁ……」才蔵は心から安堵のため息を吐いた。

「それで? 何をお渡ししたいのかな?」そういうと、紳士はバッグを祭蔵へ手渡した。

 祭蔵はそれを素直に受け取り、急いで中身をき回した。書類が見当たらない。バッグは平べったい割に中身はなんとも雑然としていた。お菓子や小物、小さなポーチなどがギッシリ詰まっていて(何しにここへ来たんだよ!)と祭蔵は胸中でツッコミんだ。そうしてようやく目的の書類を見つけ出すことができた。

 それは円筒上にまとめられた——巻物まきものであった。祭蔵はそれをうやうやしく紳士に手渡した。

「オーウ……日本人はいまだに巻物を使っているのかネ? これは驚いた」

 祭蔵の顔がちょっぴり赤らんだ。

 ——と、紳士の背後の屋敷から男性の声音が響いて来た。英語だ。具体的に何と言っているのかまでは聞き取れなかったが、どうやら紳士を呼んでいるらしい。

「おっと、これはいけない。君の話を聞きたいのは山々だがネ、今日は生憎あいにく忙しいのだヨ」

「え、それじゃあ、いつでも構いませんので、どうか後日、再びお会いできませんか?」

 紳士は面倒くさそうにウーンと唸った。

「それでは——明日の正午にでも君に連絡をするとしよう。ここにかければ問題ないかネ?」

 いつの間にくすねたのか、紳士は祭蔵の名刺を胸の前に差し出して見せた。


 そうして祭蔵とその紳士との出会いはあっという間に終わりを告げた。祭蔵は屋敷に入る紳士を見送り、姿が見えなくなったところでガッツポーズをした。

 ——よし、何とかアポが取れた。これで当初の目的が達成できるかもしれない。

 祭蔵は笑みを浮かべると、クルっと背後を向いた。

 眼前には穏やかな池が広がっているだけ。

 ——あれ? そういえば、どうやって戻ればいいんだろ? 

 祭蔵は改めて周囲を見渡した。だが、どうにも判然としない。土地の周囲には暗闇よりももっとどす黒いモヤのようなものが立ち込めているように思われる。もしかしたらこの空間は外界と隔絶されているのかもしれない。

 祭蔵は悩ましい顔を浮かべていたかと思うと、クシャミをひとつし、体をブルっと震わせた。今は十月の末日——アイルランドの秋は深まり、冬の気配を身近に感じさせる、そんな時節。びしょ濡れの体には当然寒さが染みた。

(うーん、やっぱ戻る時もこれしかないのかな……)祭蔵はため息を吐いた。そして、嫌々ながらも意を決して、目の前の池に飛び込んだ。



 紳士は館に入るなり巻物をポンと放った。するとその巻物は紳士の顔の前でふわりと浮かび上がり、さらに紳士の手の動きに合わせて見開かれていく。

 目を細めて見聞する様は自称学者というだけあっていたって真面目——。

「ふむふむ——この度は日本における『魔法学部』新設に当たり、オーリン・マクガヴァン様に学部長として就任を要請したく思い——なるほどなるほど。面白いネェ」

「What’s happening?」とそこへ声が掛かった。玄関ホールには紳士を除いて誰の姿もない。そこから扉一枚隔てて向こう側から響いてきたもののようだ。

「Nothing much.」紳士は巻物に目を落としたまま、身じろぎもせずそう答えた。

 それから暫くして紳士は満足そうに頷くと顔を上げた。そして巻物を素早く巻き戻して手に取り、それを懐にしまい込んだ。

「That’s silly……(お馬鹿さんだネェ)」

 そう小さく呟いた後、紳士はほくそ笑み、鼻歌交じりに靴音を鳴らしながら扉の奥へと消えていった。

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