【7】

「明日、飛行機が取れたから向かおうか」

 母の言葉に、私はこくっと唾を飲み込んだ。


 それは、彼がまだ病室にいた時だった。

 夜、母は面会時間を過ぎてから病室に訪れた。もちろん主治医の許可を取って。

 カツカツと足音がしたため、彼は慌ててカーテンの裏へ隠れた。

 てっきり巡回の看護師さんだと思っていたから驚いた。

 電気をつけて、母は私に近づいた。

「香夜。明日、もしあなたの調子がよかったらもう向こうへ行っちゃいましょう」

 そう告げられた。

 正直、突然のことで「え」としか返せなかった。

 予定日まではまだ、あと四日ほどは猶予があったはずだ。それが、唐突に無くなったのだ。

古沢こざわさん。私から提案したのです。向こうの医者と連絡が取れまして……もし来ることが可能なら、一刻も早く来てくださいとのことです」

 主治医の目には隈ができていた。

 やっぱり、この医者は悪い先生ではなかった。

 が、やはり私の精神を乱す存在に変わりはないようだ。

「どうする」

 母はそう尋ねた。

 その瞳は穏やかで、私の意志を尊重すると言わんばかりだった。

 きっと、「予定日まで待って」と言っても笑顔でうなずいてくれるのだろう。


 だけど、私はこんなに迷惑をかけている身だから、そこまで自分勝手になれない。


 すぐそばで息をひそめる涼にむけて、私は言った。

「ごめんね」

 その声は小さすぎた上にかすれてて、彼に届いたかわからない。少なくとも母にも医者にも聞こえてはいないようだ。

「行く。先生、ありがとうございます」

 そう言って頭を下げる。顔を上げると、主治医は涙ぐんでいた。

 ぎょっとして「先生?」と声をかけると、

「大変、申し訳ありません」

 そう頭を下げられた。

 母も驚いたようで、「頭を上げてください」と慌てている。

「私たちは大変良くしていただきました。何の文句もありません。謝られるようなことなんてありませんよ」

 母がそう笑うと、主治医は無言で首を振り、頭を下げたまま言葉を紡いだ。

「私にもっと知識があれば、古沢さんたちが海外に行く必要もなかったのです。他の医者に頼ることしかできない私は、古沢さんたちに何も……何もできないのです。まだ解明されていない病気というのは、世界にはたくさんあります。そのため『だから仕方ない』という医者の一言で命を落とされる方はたくさんいるのです。しかしそれは仕方なくない。対策ができない我々の責であることに変わりはないのです。……そして、私はそう告げているも同然なのです。此度は、医者として、あなた方に謝罪いたします。大変、申し訳ありません」


「それは違うでしょ」

 つい口をはさんでしまった。

 しかしこればかりは反論させてもらいたい。

「仕方なくはないと思います。その一言は、患者が一番言われたくない言葉だと思うもの。だけどそれは先生たちが悪いわけでもない。……以前、テレビでウイルスについての特集を見たの。細菌とかって、毎秒のようにサイボウブンレツ?を繰り返しているんでしょ……っ?人間は、そ、そのスピードには絶対に追いつけない。それってどうしようもない。……っだから私は先生を責める気はないし、恨むのはウイルスだけ。親、とか友達とか、先、先生とかには、感謝しかないです。だっで、だ……っだって私は今まだ生きてるし、みんな私を助けようとしてくれる。これ、すごいことだと思うんです。幸せなことだと思うんです」

 声が震えた。言ってる途中で、涙が溢れてきてうまく言葉が出てこない。もともと声掠れてるのに、さらに聞こえにくくなってしまう。

「私、生まれてきてよかったって。そう思えるのは、先生のおかげでもあるんですよ?」

 視界がぐにゃぐにゃだ。母は、肩を震わせ泣いていた。

 半分は本気で、半分は綺麗ごとだ。医者を手放しで褒め称えることができるか聞かれれば、そんなことないもの。

 先生は、眉を中央に思いきり寄せていた。

 何かをこらえているような表情だった。

「我々医師にも、できることには限界がある。同じ病気にかかって、完治して見せる真似などできません。我々は、今生きることを諦めさせないようにすることが主な仕事です。諦めなければ、奇跡が起こることもある。しかし、苦しんで死んでしまうことのほうが多いこともまた事実。その分岐点に立たされた患者さん方は、どんな心境なのか……想像なんてできるはずがない。それでも人間は、我々は、自分勝手な生き物だから、自分の大切な人には生きてほしいと思ってしまう」

 すっと頭を上げ、先生は、柔らかく笑った。

「香夜さんは、とてもやさしい。そんな自分勝手な我々の願いを聞き入れてくださったのだから」

 そんなこと言わないで。

 私優しくなんてない。ただ周りの人には笑っていてほしいの。幸せでいてほしいの。だって大切な人の笑顔が、私を幸せな気持ちにさせてくれる。私が必要だって言ってくれてるみたいで、私は私を肯定できる。自分のために、人に優しくしているの。

 そんな言葉は出てこなくて、ただひたすら涙が溢れて止まらない。嗚咽を止めることができなくて、小さな子どもみたいにしゃくりあげてしまう。

「せ、先生も……っ大……っ大切な人が、いるの?」

 喉が引きつって、うまく喋れない。

「……いますよ。今も、心の中に……ちゃんと、います」

 その時の先生の表情は、涙で霞んで見えなかった。

 だけど、先生も、泣いていたと思う。


 後から聞いた話だと、先生の奥さんは赤ちゃんを産んですぐに力尽きて死んでしまったらしい。


 そしてその赤ちゃんは、ちょうど私と同じ年になった頃に大きな病にかかってしまい、その子は治療をやめたい、死にたいとずっと言っていたそうだ。だけど先生は、それを拒否した。

「絶対助かるから、あと少しの辛抱だから」

 そう言い続けたものの、結局その年の暮れには息を引き取ったそうだ。



 先生の大切な人たちは、先生を置いて先に逝ってしまった。

 残された先生は、きっと残された側の気持ちがよくわかるのだろう。

 だから根拠のない励ましでもなんでも言って、私たちを救おうとしているのかもしれない。



 父のもとに向かう飛行機の中、私は窓の外を見ながら、先生と、第二の先生になってしまうかもしれない私の親を思って泣いた。

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