【8】
突然の出発が決まった後、彼は何も言わずに病室を出ていった。
私は、引き留めることも、謝ることもできなかった。
彼は、もう私に会ってはくれないのかもしれない。
そう思うと、やっぱりすごくつらくて泣きたくなった。
彼にもらったシーグラスを箱から取り出して、月に透かす。
彼からは、もう充分もらった。
彼と一緒にいることの楽しさ、嬉しさ。憧れ、それと恋心。
充分だ。
多くは望まないから、もう一度だけ……もう一度だけ、彼と「日常」を過ごしたい。
「……でも、さよならしなきゃ」
彼とずっと一緒にいることはできない。あいつにはあいつの生活がある。私以外に、もっと多くの未来が彼を待っているんだ。
私じゃない誰かと、幸せな未来を築いていくんだ。それを目の当たりにしなくていいのは幸いなのかもしれないな。
「バイバイ、涼」
涼の中から私が消えてもいい。
私が、ずっと、涼との毎日を覚えておくから。
***
飛行機に乗らなければならない日、病室から見える空は今にも泣きだしそうだった。せっかくなら雲ひとつないような青空で見送られたかった。
体調は比較的良くて、なんとか目的地に行けそうだった。
「いいの?」
母は心配そうに眉根を寄せた。
別れの挨拶は済んだのか、という確認だった。
「うん、いい」
私はそう微笑んだ。
母は少し驚いた顔をしたが、
「そう。……治ったら、また来ましょうね」
「……気が向いたらね」
そう答えると、母は意味を悟ったのか、少し悲しそうに俯いた。
母は、車に荷を積むために病室を出ていった。
ベランダにかかった梯子が目に
私がいなくなったら、このベランダにかかった梯子はしごも咎められるんだろうな。どうするんだろ、これ。
毎年、秋になる前にはこの地を離れていたから、赤く染まった紅葉や山茶花さざんかは新鮮だった。
毎年、夏が終わっていくことが恨めしかった。
だけど今年は、そんな感情じゃ言い表せないほど心が痛い。憎い。
変わりゆく景色が、思い通りにならない体が、未来があるかどうかも分からないこの現実が。
手に力がこもってシーツにシワを作ってしまい、慌てて撫でた。
ちゃんといい子にしていたはずだ。
先生のいうことはちゃんと聞くいい子。親の言うことに反抗しないいい子。特に敵対心は持たず、相手のことを考えて生きてきたつもりだった。
それなのに、私は自由を奪われるのだ。私がいったい誰に何をしたというの。
なんで死ぬことが決まっているような病気にならなければいけないの。
それが、考えたって答えなんか出てこない問いだということはわかっている。わかってはいるけど、「どうして私が」って、思わずにはいられない。
小さくため息をついてベッドに寝転がりこんだ時、
「険しい顔してんな」
と声が窓の外から聞こえてきた。
その声に、目がぱっと開かれた。慌てて声の主を探す。
揺れるカーテンに、彼のシルエットが浮かび上がっていた。
「涼」
彼の名を呼ぶが、彼は姿を見せようとはしない。
「ちゃんとお別れしにきてくれたの?」
そう言って笑って見せるが、彼は中へ入ってこようとはしない。
「……最後に涼に会いたかったから、来てくれてうれしい」
素直な感想が、口からこぼれた。
「私は毎年、夏が来るのを楽しみにしてた。涼に会えるから。でも夏が来るのも怖かった。涼が私を覚えていないかもしれないから。……私ってホント、涼のことばっか考えてたみたい」
恥ずかしさは、あまりなかった。
「涼は私にとって、とっても大切な友だちだったよ」
最後まで、私の思いは伝えたくなかった。
奇跡が起きて涼が私に恋してくれたとしても、私は涼と結ばれることはない。遠距離恋愛なんて、私も涼も辛くなるに決まってる。何年治療に年月を費やさねばならないかわからないのだ。まだ十一歳の私たちには重いのだ――……何もかもが。
涼は始終黙っていた。
何も反応がないから、さすがに気まずい。
「……だったって、なんだよ」
小さく投げられた呟きに、「え?」と聞き返す。
涼は、いつの間にかカーテンの手前にいた。
「もう、友だちじゃねえとか言うつもりかよ」
涼の問いに、
「うん」
間髪入れずに返事をする。
涼は虚を突かれたように口を開いて固まった。
「これで涼と会うのは最後。涼と遊ぶの、楽しかったよ」
バイバイ、と言おうと思った。
だけど言葉が続かなかった。
喉が震えて、うまく呼吸ができないのだ。
「……自分から言っといて、泣くなよ」
視界がぼやけて、うまく彼を捉えられない。
「お前ってホントバカ」
という呟きが、暗い視界の向こう側から聞こえてきた。
目に手を当てられているのだと気づいたときには、唇にカサッとした何かが触れていた。
生暖かい空気が肌を撫でた。
ふっと彼のぬくもりが遠ざかると、視界もクリアになっていった。
彼の真っ赤な頬が、先ほどのぬくもりを鮮明に思い出させる。
キスされたのか、と、その時ようやく理解した。
「お、女の子にいきなりなにすんのよ」
動揺を隠せず、顔に熱が集まっていく。
「お前、俺のこと好きなくせしてよく言うよ」
「は!?」
げほっと思い切りむせた。そのついでに血も口から何滴か出てきた。
「うわっダイジョブかよ」
と涼は目を丸くしてハンカチを取り出した。
「……気づかれてた?」
「おう。わかりやすかった。告白してきたクラスの女子とおんなじ顔してたからな」
その情報は別に知りたくなかった。
「……吐血する女の子より、その告白してきた子の方がいいんじゃない?」
嫉妬からついひねくれたことを言ってしまうと、
「なに?嫉妬してんの?俺って愛されてるなー」
軽く流された。
むむむ、と眉間にしわが寄っていく。
わかってない。ほんと、何にもわかってないわコイツ。
「なんで私が友だちっていう縁切ってまで海外行こうとしてるのか、わかんないの?」
苛立ちと悲しみが、心を占めていく。
「ねえ、私助かる保証なんてないの。気合とか根性論とか……そんなことで治ったりしないの。私今、死んでってるんだよ。じわじわじわじわ……どんどん体が弱くなっていくの。なんで私が海外行くか教えようか?私が助かるためじゃない。私と同じ症状の子を助けるためなんだよ。私の体は実験に使われるの。どんな薬が効果的か、どんな治療が一番適しているのか……この病気にかかった時点で、私の人生はもうほとんど
私の病気はとても珍しいものらしい。そしてこの病気は治療法が確立されていない上に、薬を作る途中で皆息を引き取ってしまう。極めて致死性が高く、病の進行が早いのだ。
「諦めたら、それこそ終わりだろ」
と、涼は怒ったように言った。
「諦めずに生き地獄を味わうのと、死ぬの。涼だったらどっちがいい?」
たぶん私は笑ってた。責めるような口調でもなく、ただ純真に聞いた。
だから涼は黙ってしまった。
窓の外から、車のエンジン音が聞こえてきた。母が車に荷を詰め終えたのだろう。
このまま、お別れかと思った。
「生きてほしいって言ったら、お前は生きてくれるのか?」
彼は、ガラス玉のような瞳で私を見つめた。
その瞳は、あのシーグラスを彷彿させた。
「頑張る」
そう告げた。
「諦めるかもしれない。逃げるかもしれない。だけどその言葉で、私はたぶん、少しだけ頑張れる」
頬をまた涙が伝う。
「涼は私のこと好きなの?」
泣き笑いを浮かべながら聞くと、涼は「いや、さっきのでわかるだろ」と口をまごつかせている。
「もし今涼が私を好きなら、好きって言わないでほしい」
涼は怪訝な顔になる。
「……私が帰ってきたときに、返事聞くから」
それが精いっぱいの強がりだった。
涼もそれを察したのか、小さくうなずいただけだった。
そして私は、彼の住む街を離れたのだ。
涙と微笑を引き連れて。
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