【6】

 結局具合がよかったのはその日だけだった。

 嘲笑うかのように、病は私の体を弱らせていった。翌日の私はベッドから這い出すことさえ難しく、ひたすら薬を飲んでは汗をかき、用意されたバケツに嘔吐する。

 その中に血が混じっていることが普通になりつつあり、私は死を間近に感じていた。というか正直、生きているのかすらあやふやな時もある。

 もしかしたら父のもとへ行く前に死ぬかもしれない。その可能性は十二分にあることは医者から聞かされていた。

 私の体の中はいったいどうなっているのだろうか。医学的説明をされたところでほとんどわからない。だから無知の恐怖とも戦わなきゃいけなくて、それもまた辛い。


 可能性、奇跡、激励の言葉。その言葉を、この一週間どれほど聞いてきただろうか。


 そういう時にふと思うのが、たいして美味しくない病院のご飯を食べ続けて生きるくらいなら、一品でも多く母の手料理を食べて死にたいかもしれない。きっとこの考えは親不孝なのだろうけど、この病院という場所は、私にとっていろいろな意味で監獄のような場所に感じられるのだ。監獄は行ったことないからわからないけど、閉じ込められて監視されて、自由を制限されるという意味では同じだ。


 兎にも角にも、この病院にいても私は生きようという気力が湧いてこないのだ。

 血を見ることにもだいぶ慣れた。その日の夕方巡回に来る主治医に、取り乱すことなく吐血報告をするというシュールな場が生まれていた。

 面会はできないだろうから、と母は気を利かせて面会は断るよう取り計らってくれた。

「さすがに、お話もできそうにないものね」

 母はそう言って私の頭を撫でた。

 喉が焼けるように熱い。涙目になりながら、私は小さくうなずいた。いくら血を見ることに慣れようが、この痛みと苦しみだけは絶対に慣れることなどできまい。頭が割れるように痛くなるのも、節々がインフルエンザの時のように痛むのも、たぶんこの先も苦しみながら治療していくのだろう。

 そう考えると、やっぱり生きていくことが辛く思える。

 慈愛に満ちた目を向けてくる優しい母は、私がどんなに吐いても、涙を流しても、背中をさすって少しでも苦痛から逃れる方法を毎日模索している。毎日、特にすることもないだろうに、私に会いに来ては、面会時間が終わるまで寄りそってくれる。

 母がここまで私を思ってくれていなかったら、私はきっと安楽死できる場所を求めて、こっそり病室を抜けだして死を待っていただろう。

 改めて母の愛情に触れたような気がして、涙がぶわっと溢れてくる。

 私はこんなにも愛されて、大切にされているのに、私は母に何も返すことができない。

 父のもとに行けば病気が治るかもしれない、なんて、そんな奇跡はたぶん起こりえない。だって薬も治療法もまだ解明されていないのだから。

 希望なんかもてないのに、両親にお金ばかりかけさせて生きていることが、とても悲しくて、とても悔しかった。


 大好きだよ、って、あと何回言えるんだろう。

 あとどれくらいの間、私は母や父に会えるのだろう。あと何回、私は……。



 ふと、風がふわりと髪を揺らした。

 とっくに面会時間は過ぎていて、母はいなかった。

しかし面会お断りの文句は、彼には効力がなかったようだ。

「よ。昼間は来れなかったから夜来た」

 どういう理屈だ。

 梯子はしごを伝って窓から現れた彼に眉根を寄せる。

「今日面会はできないはずだよ」

 そう言おうとしたが、喉がカスカスして咳き込んだ。何回も吐いているせいで喉がおかしくなっているらしい。水分を取るだけでは治らないらしい。

 何度も咳き込む私のそばに来て、彼は「おいおい大丈夫かよ」と背をさすった。

 大丈夫なわけがない。大丈夫だったら今頃はピアノを弾いたり、涼のバスケする姿を見たりしていたはずだもの。

 咳き込みすぎて、目に涙が溜まっていく。呼吸がうまくできなくて苦しい。


──これ、ホントに死ぬんじゃ……。


 パンッと、目の前で大きな音がした。


 驚いて顔を上げると、彼が得意げに両手を腰に当てていた。

「どうだ。止まっただろ。ばあちゃん直伝の咳止め術!」

 確かに止まった。止まったけど、

「……それ、しゃっくりの時に使う方法じゃない?」

 と言うと、彼は「あ」と声を漏らした。

 素直な反応に、思わず笑みがこぼれた。

「でも止まったからどっちにも効くんじゃねえの」

 なんて言ってのける彼の頬は少し赤かった。

「もしかしたらそうかも」

 クスクスと笑うと、彼も照れくさそうに笑った。



 その日は出発予定日の四日前だった。

 だけど、あくまで予定日だということを私は失念していたのだ。

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