【5】
その翌日、私の体調は一時的に良くなった。三日ほど続いたあの苦しみは、いつしかふっと消えたみたいに何の症状も出なかった。
だから気兼ねなく、あの教会に行ってピアノを弾いた。涼は今日もバスケをしに行っているみたいだった。
教会に行く前に、看護師さんから楽譜をもらった。
きちんと練習するのは、正直面倒にも思った。だけど思っていたよりも全然楽しかった。
看護師さんから楽譜をもらったとき、
「これはあくまで楽譜。この曲をどう弾くか、どういう曲にしたいかは香夜ちゃん次第」
そう言われた。本当は「曲の解釈」ということをするのが普通らしいけど、私は歴史とかには興味が湧かない。それに曲の解釈はコンクールに出る際は必要かもしれないけれど、今の私には必要ない。
楽譜の通りに弾くも、私の好きに弾くも、私の自由なんだ。
私は、音がきれいに響くように、少しでも長く余韻に浸れるような音色を出すよう指を動かす。
はっと息を深く吸うと、教会の入り口付近がざわざわしていた。
全く気が付かなかった。もう弾き始めて随分と時が流れていた。
同じくらいの年の子たちが、じっとこっちを見ていた。
――見られていた?
そう意識すると頬がカッと熱くなった。
慌てて楽譜をたたんでピアノから離れる。教会の出口は入り口と一緒。つまりあの子たちの横を通らなければならないのだ。気まずい。
下を向いて早足で横をすり抜けようとすると、「ねえ」と声をかけられた。
無視しておけばいいのに、馬鹿正直に「はい」と足を止める。
「ピアノ、すっごく上手なんだね」
可愛らしい女の子が、頬を少し赤らめながら言った。
「ときどき綺麗な演奏が聞こえるよねって、私たち話してたの。ねえ、もう終わり?もうちょっと聞きたいんだけど……」
その女の子の言葉に、教会を取り囲むように列を作っていた子どもたちもうなずいた。
その光景に、胸がざわっと震えた。嬉しくて、ちょっと照れくさくて、誇らしくて。
「……聞いてくれる人がいると嬉しい」
彼は今日は一緒じゃなかった。だから少し、ほんの少しだけ寂しく感じていたようだ。
女の子たちは嬉しそうにピアノも周りに集まった。
そして私は、彼女たちのために鍵盤を叩いた。
きらきらした視線に吸い込まれるように、夢中で指を動かした。
***
気がつくともう夕方で、みんな慌てて帰っていった。
私も帰ろうとすると、入り口に影が一つ伸びていた。
まさか、と思いながら覗くと、涼が壁にもたれかかるようにして立っていた。
「なんでいるの」
びっくりした私は、ちょっと誤解されるような言い方をしてしまった。
「いちゃ悪いのか」
ぶっきらぼうにそう返され、彼は先に歩き出す。慌ててその影を追いながら、
「だって今日は会えないかと思ってたから」
と言い訳を口にすると、彼はニッと笑いながら振り返った。
「ほー?会えなかったってことは?会いたいと思っていたと?ほー?」
からかうような彼の口調に、私の頬はやっぱり熱くなる。
「ち、違う。そんなこと思ってない。勝手に解釈しないでよ」
はいはい、というように、彼は
病室に戻るのを見届けてから、涼は「じゃあな」といつものように窓から出ていこうとする。
その背中が、夕日のせいで輝いて見えた。
風に吹かれた彼の黄色に染まったシャツを、気がつけば掴んでいた。
「え、どうした。具合悪いのか」
と背中をさすられる。
「……嘘」
「は?」
「さっき、違うって言ったけど」
恥ずかしすぎて顔が見れない。……いや、眩しいから。そう、眩しいから彼のことを見れないだけ。
そう自分に言い聞かせながら、言葉をゆっくりと紡ぐ。
「私、涼に会いたかった」
たぶん私の顔は、夕日のせいで真っ赤だった。
彼は何の反応もしなかった。
引かれてたらどうしよう、真顔だったらどうしよう、とマイナスな考えが頭に浮かぶ。
そっと視線を上げると、彼はそっぽむいて口に手を当てていた。
逆光で彼の顔はよく見えない。
「……そんなこと知ってるっての」
涼は怒ったような口調で呟いた。
だけどその言葉を聴き取れなくて眉を寄せると、ぺシ、と頭を軽くはたかれた。
「なんでもねぇよ!」
じゃあな、と彼は窓から姿を消す。
夕日はいつの間にか姿を消して、空には夕日色の月と赤い星が光っていた。
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