【2】
ミンミンと、相変わらずの鳴き声が外から聞こえる。
そんな風景をぼんやりと眺めていた時だった。
「ちょっと君!!」という看護師さんの焦ったような声が響いたかと思うと、ドタドタと煩く廊下をかける音が近づいてきた。
ガラッと強引にドアが開かれた。
私は、ゆっくりと顔を向けた。
「やっぱり」
と苦笑すると、息を切らした涼がものすごい剣幕で近づいてきた。
「お前、大丈夫なのか!?」
キレ気味に心配されるのは初めてで、なんだかおかしくて笑ってしまった。
すると彼は不機嫌そうに、「笑いごとかっての。バーカ」と頭を軽くはたかれた。
だがその表情は、先ほどまでの、張り詰めていたような頬の緊張はなくなっていた。
「ただのストレスだろうって。大げさに伝わっちゃったんだね」
血を吐いたときはどうなることかと、私自身不安で仕方なかったのだが、今は腕に点滴のチューブが繋がっているだけだ。
「でも、しばらく安静にしてなきゃダメだって。外に出れないのも、ちょっと悲しいなぁ」
と寂しく笑うと、「嘘つけ」と涼は笑った。
「思ってねえだろ。この引きこもり」
「ばれたか」
と返して笑いあう。
だけど、悲しいのも嘘じゃない。
病室には同室の人がいないから一人なのだ。昨日の夜のは意識が朦朧としていたから気にならなかったが、病室に一人でいるのは心細いし、何をしてもつまらない。
それに涼がバスケをしているのを見るのも好きなんだから。しばらくそれを見れないのが、普通に残念だ。
そんなことを考え、無意識にため息をこぼしてしまう。
すると涼は「バーカ」と私の頭をぐしゃっとした。
「ただのストレスなんだろ。すぐこんなとこ出れる」
ぶっきらぼうに彼は言う。
彼の優しさに、頬が少し熱くなる。
「うん」
照れ笑いを浮かべると、なぜか頭をもっとぐしゃぐしゃにされた。
彼が、帰った後のことだった。
薄暗い病室に、母親が入ってきた。
心細かった私は、ただ単純に歓迎した。
だが母の泣きはらした瞳と、続いて入ってきた主治医を見たら、そんな感情は吹き飛んだ。
――そして私は、自分が病気だと知らされた。
***
翌日、当たり前のように涼は病室に来た。
それがたまらなく嬉しかったのだが、同時に言い表せない苦しさも湧いてきた。
昨日の話が頭から離れなくて、一睡もできなかった。そのせいか、私はすごく不調に見えてしまったらしい。
涼に真顔で心配された。
言おうか、迷った。だけど結局言えなくて、
「退屈すぎて、昨日星を夜遅くまで数えていたの」
だから、寝不足なの。
あくび交じりに笑うと、涼はあきれ顔で「バカだろ、お前。知ってたけど」と言った。
「たくさん寝ないと治るもんも治らねえぞ」
涼に言われ、私は「うん」と小さくうなずいた。
――でもさ、涼。
寝てる時間さえ、もったいないって思ってしまうんだよ。
あとどのくらい、涼のことを考えられるのかなぁ、とか。どのくらい一緒にいられるのかなぁ、とか。
涼の居るこの地に居れる時間は、私には少ししか残っていないらしいから。
そんなことを考えていた私に、涼は「ちゃんと寝ろよ」と言って腰を上げた。
パタンと静かに閉まるドアを見届けると、私の目から涙が溢れだした。
我慢していたわけではなかった。涼の去っていく後ろ姿に、何故か泣けてきた。
堪えることのできない嗚咽が、小さな病室に響いた。
夜、私はまた眠れずに星を数えていた。
小さな星が散りばめられる中、自分が主役だといわんばかりの赤や青い星。
窓から見えるそれらは、とても美しいのに、少し悲しい気分にもなった。
コン、と窓ガラスが鳴った。
ゾクッと背筋が震えた。
だって、誰もいない。なのに音がした。
気のせい気のせい気のせい。
自分に言い聞かせるように心の中で唱える。
だが、なんと窓の向こうに人影が見えるではないか。
ふっと意識が遠のくのがわかった。
すると、窓が勢いよく開く音が聞こえた。
「おい……香夜。しっかりしろ。俺だっての。俺」
オレオレ詐欺のようにオレオレを繰り返す声に、私はうっすらと目を開いた。
涼が、視界に映っていた。今は面会時間をとうに過ぎているはずなのだが。
「なんでいるの?」
当惑する私に、涼は人差し指を口元に近づけた。私の唇に、彼の指が優しく触れた。そう、私の唇に。
普通黙らせるなら自分の口元に人差し指持ってくと思うんだけど。
おかげさまでまた意識が遠のきかける。
「お前、ちょっと来い」
と、強引に手を引かれ、窓際に連れてこられる。
「え、ここ二階だよね」
そういえばどうやって上ったんだ、と窓の下を覗き込むと、いつの間に用意したのか梯子がかかっていた。私の病室ってそういえば、小さなベランダみたいな空間があったな、と今思い出す。
「どうせ寝れねぇんだろ。だったら、抜け出すぞ」
そう言って、彼は手を伸ばした。
「行くぞ」
どこへ、とは聞かなかった。
「――うん」
と、手を重ねた。
夜病院を抜け出すなんて、どこかの漫画にありそうだ。
とてもドキドキした。夜無断で抜け出したことに対してなのか、涼が隣にいたからなのかは分からないが。
着いたのは、教会だった。
もう使われていない礼拝堂は、子供たちの遊び場となっている。
そこに、一台のピアノがある。
私はよく、そのピアノに触れていた。
近くに民家はないから、誰かに気づかれる心配はない。
そっと近づき、鍵盤に触れる。
トントン、と鍵盤を押して音が出るのを確かめる。
やっぱり、ピアノは好き。音が好き。聞いてくれる人の顔がほころんでいくのを見るのが好き。
椅子に腰かけ、涼がいつしか口ずさんでいた鼻歌を弾く。
「香夜」
ふと、涼が話しかけてきた。
なるべく、そっちを見ないように意識しながら「何?」と続きを促した。
「……病気だったんだろ」
ああ、音が乱れた。
鍵盤を叩く指が重い。軽やかな曲が作れない。
私は、否定も肯定もしなかった。
「海外、いくんだろ」
それにも答えなかった。いや、応えられなかった。
何といえばいいのかわからなかった私は、ただ唇を噛み締める。
「香夜ちゃん。あのね、お父さんが今いる国にね、香夜ちゃんの病気を研究してらっしゃるかたがいるんですって」
母が、泣き腫らした目のまま笑った。
無理して作っている表情に、胸が痛くなった。
「それは……お父さんのところに行ったら、治るってこと?」
じっと母の目を見つめると、母は「それは」と笑ったが、続いてくる言葉はなく、代わりにまた涙の筋を作った。
「断言はできません」
母の隣にいた主治医が、代わって言葉を紡いだ。
私は、返す言葉が見当たらなかった。
「ですが」
主治医は、眼鏡を軽く押し上げた。
「このままでは、長くて一年といったところです。治療を受けて治る可能性はあるが、その可能性は、高いとは言えない」
ポタ、と涙が鍵盤に落ちた。
視界が滲んで、うまく弾くことができない。指が小刻みに震えてうまく力が入らない。
私は、母に微笑みかけた。
「行く。だって、治りたいもん」
その言葉に嘘はない。
だけど、
「行きたくなんてない……!」
ピタリと、演奏が止まってしまう。
音が、紡げなかった。楽しく弾くことができなかった。
どうしたって悲しい響きになってしまう。
だって、会えなくなってしまう。
今までだって夏だけしか会えていなかったのに、それすら叶わなくなってしまう。
「私は、涼に会えなくなるなんて嫌!!」
広い教会に、自分のものとは思えないようなヒステリックな声が響き渡った。
そんな私に、涼は「バーカ」と頭をくしゃっとした。
「今生の別れじゃあるまいし、大袈裟」
茶化す涼に、「そうなっちゃうかもしれないんだよ」と
「そうならないために、お前は行くんだろうが」
ぐにっと私の鼻をつまみながら、涼は大きくため息をついた。
「待っててやるから、いってこい」
見たことがないくらい、彼は優しく笑った。
私は、「うん」と泣き笑いを浮かべた。
本当は、納得なんてできてない。でも君が笑うなら。信じてくれるなら。私もそれに同意しなきゃ。
場所が教会がだったからだろうか。
病気も回復して、また彼に出会うことができる。
このときは、そんな希望をもてた。
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