【3】

 その日を境に、体調が悪くない日はほぼ毎晩教会に通った。

 そして、二人しかいない空間にピアノの音を響かせた。

「相変わらずうまく弾くなぁ。これでピアノ習ってないんだもんなぁ」

 感心したように漏らす涼に、私は照れ笑いを浮かべた。

「私はピアノを習って、決められた譜面通りに弾きたいわけじゃないもの。先生なんかつけられちゃったら、自由に弾けなくなっちゃうし、それに……」

 毎年この地に遊びになんて来られなくなってしまうかもしれない。

 それは、絶対に嫌だ。

 ポン、と最後の一音を響かせ、私は満足して席を立つ。

「それに、やっぱりたまには運動もしたいしね」

 ピアノを本気でやるならば、バスケなんて許してはくれまい。指はピアニストの命なのだから。

 やはり私は、ピアノ奏者には向いていない。

「ま、お前がそれでいならいいけどな」

 涼は、私が入院してからずっと見舞いに来てくれている。他に友達だっているはずなのに、毎日欠かさず、だ。昼も夜も、私に付き添ってくれる。

 まあ多分、私に涼以外の友人がいないから気を遣われているのだろう。

 それが嬉しい気持ちもちゃんとあるのだが、なんというか、少しもやっとする気持ちもある。

 気を取り直してもう一曲、とまた椅子に腰かけて鍵盤を鳴らし始めた時だ。

「あ……」

 指が痙攣けいれんしていた。

 自分の体なのに、意思に反して言うことを聞いてくれない。

 こういう時、自分が病気なのだと思い知らされる。怖くて、私はもう片方の手で指を隠す。

「帰るか」

 ギッと長椅子を軋ませ、彼は立ち上がって扉の前にいた。

 もう終わりだと、彼の瞳が雄弁に告げていた。

 この瞳に私は逆らえない。

 彼がこのような表情かおをするときは、決まって彼のほうが正しい判断をするときだからだ。

 彼はただのわんぱく少年ではない。この年で冷静さも兼ね備えた、将来有望な人材なのだ。

 当然、そんな彼を放っておく人は少なく、私がこの地に着いたばかりのころは、いつも人に囲まれている。

 私から彼に声をかけることはなく、いつも彼のほうから来てくれる。もはや恒例行事になりつつあった。

 正直、彼が私に気があるのかもと思ったこともある。だがその度に、ことごとくそんな期待は打ち砕かれた。

 だから、期待なんてしないようにした。期間限定の友人でいようと、心に決めた。


――なのに。


 私はそれ以上を望んでしまう。特別な存在でいたいと思ってしまう。

 暗い森を抜け、私は空の病室を見上げた。

 抜け出していられるのはせいぜい三十分ほど。彼といられる時間は、それだけ。

 私は来週この地を去って、全く知らない国へ赴く。

 別に、死にたいわけじゃない。もちろん治したい。だけど、治療が成功する確率は低いらしい。受けたことなんてないし、確率なんて言われたって正直ピンとこない。


 生きるか、死ぬか。


 治療した後の結果なんて結局は二択なのだ。やってみなければわからない。

 けど、もし母があんなに泣いて懇願するように「治療を受けて」と言わなければ、私は――……。


「どうした」


 窓から病室へ侵入した後、私がベッドに行かずに足を止めるものだから、彼は眉をひそめた。

 私はくるっと回れ右をして彼に向き直った。

「涼は、良い男になるね」

 そう言って笑って見せた。



「いつもありがとね。じゃあ」

 一方的にそう言って、私はカーテンをシャッと閉めた。

 薄暗い室内は、月の明かりでほのかに蒼白かった。

 そして私は、先ほどから我慢していた眩暈に耐え切れずに布団に倒れこんだ。息が荒くなって、気持ち悪い汗が背を伝う。

 もう何度もこの症状を体験しているはずなのに慣れない。「ああ、またきた」と軽く扱えない。眩暈がするたび吐き気が込み上げてきて、私はこの苦しみを味わいながら死ぬんじゃないかと何度も思う。

 だけど医者が言うには、これはまだほんの初期症状で、これを放置しておくとさらにひどい吐き気、意識レベルの低下、痙攣、そしてこれらの症状のせいで私の身体は死の淵に招かれるかもしれないらしい。



 苦しくても、辛くても、私は明日を生きなければならない。

 私が生きることを諦めたら、悲しんでくれる人がいるから。何より母と約束した。

 私は母より先に死んではいけない、何があっても、死なないと約束した。

 だから私は、正解かわからない道を進まなければならない。


 選んだ道がたとえ、私にとっての地獄だろうと。

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