第二章:望む大海、望む展開

 1


「今度、新しく機械技師先生がやってくるそうです」

 チャンネル5は、大海原に面した岩壁に口を開けた天然洞窟です。崖の中腹辺り、石灰岩地層が浸食されて出来たこの洞窟はまるで綺麗に割れ目の入ったスコーンのようで、南向きな事も相まって、天然のバルコニーの役割を果たしていました。空は必ず雲一つない深い青空で、日の当たる平らなスペースに設置された丸机と二脚の丸椅子はどちらも木製、白いペンキが暖かな陽光を反射して眩しく輝いています。青は藍より出でて藍より青し、一面の水平線に広がる大海原はどんな青よりも鮮やかな色をしていました。遥か下では、波濤が轟音と共に真っ白な飛沫を上げて打ち付けていますが、あまりに離れている為に遠近感が狂ってしまいます。

 誰が創ったのか——それは勿論、殆どの場合わたしではありましたが——僅かに海面より上に突き出た岩に、しがみつくような格好で一隻のボートが固定され、その絶対に港とは呼べない場所からこの場所——上の洞窟まで蛇がのたくった跡のような狭く急な階段が続いていましたが、わたしの足、もとい車椅子では利用する事は叶いませんでした。尤も、この通路は急過ぎる為に殆どヤギ専用と言ってしまっても構わない程でした。

「機械技師……?何故です、どこか具合が……?」

 爽やかな初夏の空気は一転、耐え難く焼けつくような暑さへと変わりました。途端に動悸が激しくなり、巨大な海は最早原始的な恐怖を呼び覚ますのみで、狂った遠近感の中で背景のすべては小指の爪の先よりも小さく縮んでしまいました。

 これまで、ルーシーに何か特別対応の必要な事態が発生したことはありませんでした。それなのに突然機械技師が呼ばれるとは只事ではないと、わたしは半ばパニックになりかけていました。ルーシーは、ある意味ではわたしそのものでした。

「リリー、ただの定期メンテナンスです、落ち着いてください」

「本当に……?これまで外の人間が訪ねて来る事はありませんでした」

「これまで、私のメンテナンスは先生が担当していました。ですから、確かに突然人を呼ばれた事には疑念が生じます。ですが自己診断プログラムに因ればプログラムが初めて働いた時以来、現在に至るまで異常は発生していません。加えて——」

 崖際で海に向かっていたルーシーは言葉を切ると、わたしの方へ向き直りました。

 彼女はこちら側では人の形を取り、しばしばわたしの姿を真似ました。違う点と言えば、区別を付ける為のアイデンティティらしい球体関節と、地に着いた二本の脚で、それ以外は、真っ白な長い髪も肌も、鏡に映ったわたしそのものでした(但し、彼女の頭には“輪っか”がありませんでした。彼女は代わりに月桂冠を被るのを気に入っていましたが、あいにくと今日は何も被っていませんでした。あるいは、被っていた所で、この風では飛ばされていたでしょう)。

「そうですね、ルーシーに何かあればわたしが初めに気付く筈です」

 深層意識のレベルで接続されたわたし達には、お互いに嘘を付くという選択肢は存在しません。どんなに上手く隠そうとも、小さな違和感の最後の一つで気付いてしまう事でしょう。吹き込んできた潮風が疑念を吹き飛ばします。ルーシーがまったくもって正常である事を反芻すると、世界も正常さを取り戻してゆきました。

「先生は多くを語らない方ですから、きっと何か考えがあるのだと思います」

「ごめんなさいルーシー。手術に影響が出ないと良いのですが」

「現実へのフィードバックとして心拍数が僅かに上昇しましたが問題ありません、筋肉移植が失敗する確率は極めて低く、漂白された組織を使用する場合その確率はさらに下がります」

「それなら安心ですね」

 バイタルを安定させる為に手術中はマインドパレスに閉じこもっていたものが、こちら側で崩壊してしまっては元も子もありません。幸いにも現実への影響は小さく、風に吹かれながら波の音を聞いているうちにわたしはすっかりまたリラックスしていました。

「終わったら教えて下さい」

 わたしは崖際まで車椅子を動かすと、目を閉じました。暖かな陽射しが心地よく、潮風は爽やかな海の匂いと共に適度な涼しさをもたらしてくれます。秘密基地のようなこの洞窟は地上にこそ通じておらず、このチャンネルは、広く創った割には行動範囲のごく狭い世界でしたが、それでもわたしはこの場所をとても気に入っていました。

「リリー?終わりました」

 太陽は神の如く、南の空に常に高くあり、やがてルーシーが声を掛けてくれるまで、時間を忘れてわたしはずっとそうしていました

「では戻りましょうか。お手伝いをお願いします」


 2


「リリー、来ました」

 ある朝、ルーシーがそう言うと、次の瞬間にはもう頭の中は共感覚的プログラムに基づいて彼女の発した興奮の色で埋め尽くされていました。色相変換モニターは8番の色を噴火のように大量に吐き出して、彼女の精神状態に引っ張られたわたしも、もう何も手に付かない状態です。天井のレールから吊り下げられているマニュピレータ達も心なしか浮足立っていて、鮮烈な目覚めでした。

「8番、炎のイメージ。機械技師と鍛冶の神を関連付けたのですね」

 また繋ぎづらい三本爪マニュピレータが降りてきて、手持ち無沙汰のわたしの手を握ってきます。

「機械技師は、この部屋まで訪ねて来るでしょうか」

 そう尋ねると、モニターには否定の色が混ざって表示されました。

「許可が下りていません。そもそも、私には点検用のハッチが備わっていますから、おそらくはそこで事足りるでしょう」

「そうですか……何かしらコンタクトが取れるかと期待していたのですが……。何かあれば教えてください」

 わたしの気分とは裏腹に空回りする興奮を他所へ押しやって横になると、怒っていると判断されたのでしょうか——彼女の腕が空中であたふたしているのが横目に見えましたが、わたしは構わず目を閉じてしまいました。

「機械技師先生が点検窓の前まで来ました——どうやら彼は男性のようです」

「彼が私の中を見ています。驚きました、彼の両腕は機械仕掛けの改造義手で構成されています」

 どうやら、ルーシーはわたしの為に逐一状況を報告してくれようとしているようでした。目を瞑ったままでいると、どんどんと報告が流れてゆきます。

「彼に挨拶をしてみました。彼は——殆ど何も知らされていないようです。私が会話可能なタイプである事に、大変驚かれた様子です」

「彼が言うには、私には何も問題は無いだろうという事です。自己診断プログラムの結果から鑑みるに、私も同意見です」

「本当にただの定期メンテナンスだったのですね」

「始めからそう伝えていた筈ですが」

 第三者までもがそう言うのなら、本当に何も無いのでしょう。わざわざ機械技師を呼んだ先生の思惑は相も変わらず謎のままではありましたが、わたしはようやく手放しに安心する事が出来ました。

 しかし、声が途切れたので目を開けてみると、彼女が“今は手一杯でそちらへ割くリソースがありません”のふりをしている事に気が付きました。つまり、腕を無意味にふらふらとさせて、画面も真っ暗になっていますが、本当はこちらの事はしっかり観察している状態の事です。彼女が“手一杯”になる事なぞ想像も出来ませんでしたから、わたしはもっぱら、少々お待ちください。のサインだと理解していました。

「ルーシー?」

「…………」

 声を掛けても、返答はありません。大人しく待っていようと、わたしはまた目を瞑っている事にしました。

「リリー?何かありましたのでお伝えしたいのですが」

「ええ、何か考えていたようですね」

「彼が、貴女とお話してもよいと」

 告げられた瞬間、わたしの両の瞼はバネに弾かれるように上がりました。何しろ、わたしにはこれまでルーシーと先生以外に話し相手というものが存在していなかったのです。しかし喜びも束の間、すぐに一つの疑問が浮かび上がってきました。

「本当ですか!ですが……どのようにして……?電話があるといったお話は聞いた事がありません」

 一瞬、まさかこの部屋に直接——とも考えましたが、この部屋に入るには面倒な準備が色々と要る筈でした。突発的に手配出来るものではないでしょう。

「説明致しますと、私はこの家に偏在しています。つまり、今現在、リリーと会話している私と、機械技師と会話する私が同時に存在しています」

「便利ですね」

「ええ、そこで私が電話交換手さながら、橋渡し役を務めます。このように致しますと、疑似的な通話体験が可能になります」

「ルーシー、考えましたね。起き上がりたいので手を貸して下さい」

 手を伸ばすと、ベッドが持ち上がって背もたれを作るのと同時に、二本の腕が伸びて来てわたしを引っ張り上げてくれました。

「準備はよろしいですか?」

「ええ、普段通りあなたと話すだけでしょう……?いつでも大丈夫です」

「では始めます——」

 しばらくの間、無言の時間が続きました。やがて、咳払いのようなノイズが流れると、彼の言葉が聞こえてきました。

「あ——初めまして、リリーさん?何て呼べば良いのか……どうも、僕は君のアンドロイドの点検に呼ばれた男だ」

 普段通りの彼女の声色で突然慣れない話しかけられ方をした為に、わたしは笑いを堪えなければなりませんでした。恐らく、緊張と混ざっておかしな顔になってしまっていたでしょう。

「ルーシー、あなたは女優になるよりコメディアンを目指すべきですね。今のは返答ではありませんよ」

「変な気分です——ええと、はじめまして機械技師さん。呼び方はリリーで構いません。と伝えて下さい」

「ああ、変な気分だ。目の前のルーシーが言うにはリリー、君は病気か何かでどこかの部屋に居るらしい。それとも全部出鱈目で、僕は新手のチューリングテストか何かに掛けられて弄ばれているのかな」

 お互いにルーシーの声しか聞いていない筈でしたから、確かに相手の存在を確かめる術はなく、そしてルーシー程能力があれば、それをやってのける事も十分に可能ではあったでしょう。とまれ、今は彼女の向こうに相手の存在を信じるほかありませんでした。

「信じて下さい、わたしは確かに存在していますよ。実の所、ルーシーの存在がわたしの存在証明のようなものなのです。もしも、視覚に頼る事の無い共感覚的な色分けを人々の間に可視化させる事が出来たならば、わたしたちは同じ色をしている筈です」

「よく分からないな……超能力の研究でもさせられてるのか?ルーシーは君が無菌室から出られないと言っていたが……」

「いいえ、わたしたちはアンドロイドと人間、二者間の抽象的な観念の相互理解、唯一無二の円滑なコミュニケーションの為に同一の共感覚を保持するよう、プログラムを摂取し、深層意識のレベルで接続されています。つまり——わたしたちは阿吽の呼吸、という事です」

「どうやら僕はとんでもない人間——いや、アンドロイドと話をしているらしい、リリー、それじゃあ君が部屋から出られないのは……ずっとこのルーシーと繋がってなきゃならないからって事になるのか?一体……どんな法があればそんな人体実験を許可出来るのか……」

「どうか勘違いしないで下さい、ルーシーにわたしが不可欠なのではなく、わたしにルーシーが不可欠なのです。無菌室から出られない理由——わたしは漂白された人間であると言えば伝わるでしょうか……」

 これまですぐに返事が返って来ていた所、ピタリと声が止みました。恐らくは、漂白装置についての知識を総動員してわたしの発言が真であるかどうかを吟味しているのでしょう。

 次世代の医療の道を切り開くと大々的に発表され、主に移植事業に革命を齎したとされている、忘却の液体。レテと呼ばれたその液体はまるで牛乳のようにまっしろで、不透明で、触れるもの全ての情報を綺麗さっぱり洗い流して——リセットしてしまう性質がありました。バスタブに張られたお湯に身体を通すように、漂白装置のプールを通った肉はあっという間に処理を施されて、身体のどんな場所にも適合して拒否反応の出る心配も無い、魔法の組織へと変貌を遂げました。脳裏に蘇るのは、もう数えきれない程に繰り返し見た実験の記録映像。

 事件か事故か、わたしはそんな漂白装置に浸された、後天的アルビノ人間でした。尤も、漂白装置に曝された当事者がその体験を語る事は不可能でしょう。レテのヴェールを潜り抜けた人間へと待つのは死か絶対的な忘却のみであると考えられ、当事者は何の能力も持たない、赤ん坊以下の存在へと帰着してしまうとされていました。そしてわたしの場合、他でもないルーシーが、その絶対的な忘却状態から、実存を確立するに至るまでの要石になっていました。

「リリー、その漂白というのは——僕の予想だと、どうも塩素系漂白剤の事ではなさそうだな……」

 返答までに、長い時間がありました。

「ええ、そうです。あなたも知る漂白装置の事です」

「いや——そういう可能性が存在する事について昔聞いた事はあった。ただ、まさか本当に存在するとは、驚いたな。いや、今全てに納得がいったよ。何故こんなにも高性能なアンドロイドがたった一人の人間の世話の為にあてがわれているのか不思議に思ってる所だった」

「当事者だけが当時の事を語り得ない為にややパラドックスじみていますが、わたしたちがお互いに切り離せない存在である事は分かって頂けたかと思います」

「それにしても、ルーシー、君みたいなアンドロイドは初めて見たよ、君達は随分一緒に居るようだし、今までどうやってきたんだい?」

「これまでは、先生がルーシーの事も覗いてくれていたようです。突然あなたに頼んだ理由は分かりません……先生は無口な方ですから」

「そうですよね?ルーシー」

 彼に向けてではなくルーシー自身に尋ねると、彼女は分かりやすいように、マニュピレータの手首を縦に振って頷いてみせてくれました。

「先生?あの医者の格好した不気味な人の事かな」

「先生はわたしを死の淵から救って下さった方です。良くして貰っていますし、あまり悪く言わないで下さい」

 しかしながら、先生は目つきの悪い為か何をしていても怪しく映る事が多く、彼を責める事は出来ませんでした。実際、わたしも先生のお世話になっていなければ、彼は人を殺した事があると言われたとて特段驚かなかったでしょう。

「悪かったよ、ただ——ひとつ変な質問をしても良いかな」

「ええ、構いませんよ」

「そうだな……どうして彼はあんなに真面目な顔をしてポルノ雑誌を逆さまに読んでいるんだろうか?」

「すみません、質問の意図がよく分からないのですが……」

「僕がここへ来た時、彼は学術書でも読むみたいな顔をしてポルノ雑誌を読んでた。しかも逆さだ——目を疑ったよ、ただ、それ以外は至って普通の人間だった。多分、君が先生と呼んでいる人だと思う」

「理解不能です……。先生には先生なりの考え方があるのでしょう」

 そもそも、先生が普段何をしてどう過ごしているのか、わたしは何も知りませんでした。そして、眼前に突然突き付けられた先生の奇行に、わたしは只々困惑するのみでした。

「僕は職業柄アンドロイドと接する機会が多い。そうすると、稀に致命的なバグに侵されたアンドロイドと出会う事がある。必ずしも奇行に走るとは限らない、ただ、何と言うか、経験から来るカンとでも言うんだろうか、職業的な第六感が——そう、付けている義手がどうにもしっくり来なくなるんだ——働いて察知出来る。彼と対面した時、全く同じ感覚があったよ」

「もう行かないと。リリー、話せて良かった」

「え、ええ、そうですね。わたしもそう思います、またいつかお話出来るとよいのですが」

「どうだろう、引き際は弁えているつもりだけれど。結局僕は何も弄らずお喋りをしただけだし、次はこう上手くは行かない気がする。根拠の無いカンだけれどね」

 そうして、機械技師の彼はあっという間に消えてしまいました。

「ルーシー、彼が先生について言っていた事は本当ですか」

「対象の雑誌は定期的に搬入される生活用品の中に含まれていたもので、特に問題点は見付かりません。そして、彼の言及した内容と合致する事象も確認しています。但し、性的嗜好についてのサンプル数が少ない為に、判断を保留していました。つまり、テキストではなく画そのものの鑑賞が目的である場合、対象の角度は判別のしやすさに依存する必要があるのでしょうか?私のテキスト認識、及び識別能力は天地無用に設計されています。この相違点も加わり、私の思考ルーチンでは客観性の担保された判断を下す事が出来ませんでした」

「簡単な事ですよ、ルーシー。人前で堂々とポルノを摂取する人間なぞおよそ正常ではあり得ません、これは主観的な主張ですが、これまでに学んだ記録映像群を鑑みるに、ある程度の正当性があると考えられます」

 ルーシーが躓いたので、これは、所謂“アンドロイドが絶対に答えられない100の質問”に含まれるようなタイプの一種の引っ掛け問題かとも考えましたが、わたしには分かりませんでした。機械技師の彼の言葉から推察するにわたしの下した結論が正しいと処理されそうではありましたが、絶対的な正しさは存在しませんでした。

「今度、先生に直接訊いてみましょう」

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