第一章:法悦の寄る辺

 チャンネル9は、九つ存在するマインドパレスの中でも、とりわけ力を入れて創り上げたチャンネルでした。聳え立つゴシック様式の大聖堂は、わたしの混沌とした意識の流れを秩序だったそれに戻す為に建造したモノで、頻繫に訪れていました。黄金色に輝く空、初冬の朝の凪いだ空気、霞の向こうに囀る小鳥達の声。ルーシーの押す車椅子に乗って当てもなく側廊を進むのは何とも気持ちの良いものでした。この小さな木製の車椅子は、一番初めにルーシーがわたしの為にと創ってくれたもので、今でこそ他と比べてしまうと見劣りするものの、長く使い続けているお気に入りの品でした。

 雲を貫いて構えるこの大聖堂は無限の柱、無限の尖塔を備えています。勿論、廊下の長さも無限大に伸ばす事が出来ましたから、わたしの気が済むまで散策を続ける事が出来ました。等間隔で後ろへ流れてゆく柱の一本を取って見ても、完璧な素材で創られ、完璧な比率を保ち、完璧な彫刻を施されているのが殆ど直感的に分かります。きっとどんな現実の教会も、敵う事は無かったでしょう(尤も、仕方ない事ではありましたが残念な事に、わたしはどの現実の教会へ訪れた事もありませんでした)。

 静かに流れる恣意的に変化の無い景色を眺めながら、わたしは先程まで部屋で見ていた映画について考えていました(現実とこちらでは、より精神の深い部分に接続しているからかこちらに居る時の方が思索に耽りやすかったのでした)。

 映画と言っても、そこにストーリーはありません。ルーシー曰く、それは資料映像と呼ばれる記録用の映像を繋げて編集したモノで、大量の知識をインプットさせる目的で作成されたそうです。かつてはルーシー自身のインプットの為に使用された数々の資料を、彼女はわたしの為とわざわざ人間用へ編集して出力してくれました。過去の様々な瞬間に切り取られ保存された映像群。先程見た映像は、様々な食料供給用の工場内部の記録を集めたものでした。

 巨大なレーンに規則正しく並んで吊るされているブタ達は、待ち構えているアームによって部位ごとに切り分けられて、次の瞬間には頭だけになって廃棄されています。勿論、頭にはまだお肉が付いていましたし、何処か別の工場で処理されるだけの事かもしれません。しかしわたしは、食品工場の映像を見る度に、廃棄される彼等の悲しげな顔から目が離せないのでした。わたしは考えます。一つのサイクルの中で生まれゆくブタの数と、死にゆくブタの数を。数奇な運命を辿る事になるベイブと名付けられた幸運な子豚について。最初に信仰とブタを天秤に掛けた人間についても。二足歩行で歩くブタの行列は飼育場からレストランまで続いていて、席に座った客の前で順番に頭を切り落とされてゆきます。切り落とされた頭が店の裏に積まれ続けて屋根より高くなった頃、マフィアのトラックがやって来て頭を全て引き取ります。そうして引き取られた頭は、傲慢な人間の家の玄関にメッセージの代わりに置かれたり、あるいは、やっぱり傲慢な人間がふと目を覚ました時に枕元に置いてあってその人間を睨み付けている係を引き受けたりします。恐らく、そのような事が起きていた筈です。

「リリー?変な事を考えていませんか?」

 後ろで車椅子を押しているルーシーが怪訝そうな声で言いました。深層意識のレベルで繋がっていると、お互いの考えている事がなんとなく分かります。今も、後頭部の方に視線を感じるようなむず痒い感覚があって、彼女の疑念の色——それはピンク、あるいは紫色をしていました——がわたしの志向性の外にぼんやりと存在していました。ルーシーも、わたしがおかしな事を考えている時に感じる色なる色を、認めたのかもしれません。

「ええ、そうかもしれません、よくわかりましたね」

 わたしたちがわたしたちだけの特別な繋がりによるコミュニケーションを取った時、わたしは少し嬉しくなります。孤独が強敵である事は、これまでにルーシーから貰った本に学んでいました。

「天井画に変化が確認されましたので」

「ああ……気を抜いてしまいましたね」

 言われて側廊のアーチ天井を見上げると、確かに天井画が変わってしまっていました。始めは天使達が天へと昇ってゆく画が描かれていたように記憶していましたが、今はどうでしょうか、羽の生えた子豚の群れがこちらにお尻を向けて飛んでいます。眺めている内に生意気な子豚達に愛着が湧いてくるようでしたが、わたしは修正する事に決めました(確かに空を飛ぶブタの怪物は存在し、それを新しい主と崇め奉る事もやぶさかではありませんでしたが、この場所には相応しくありませんでした)。

「少し止まってください、直します」

 目を瞑って手を組んで、わたしは天井へと意識を集中させます。集中して集中して。ピンクの絵の具の塊のイメージ。キャンバスに乱暴に配置されたそれを拭い取って握り潰して、深呼吸と自らの抱く法悦的感情への着目。わたしに凪を齎す、共感覚的プログラムによって9に紐付けられた聖なる金色のクオリア。洞窟に滴り落ちる水滴の早回しの映像に鍾乳石が勢い良く育っては空間を塞いでゆきます。

「出来ました」

 天井に目を向けると、想像した通り子豚達は綺麗さっぱり消えていましたが、代わりに配置され直した天使達は丸々と太っていて、その画からは中々飛び立つのにも苦戦している様子が伺えました。もしかすると、食欲旺盛な天使だったのかもしれません。尤も、天使がブタを食したとて、罰せられる事は無いでしょう。

「お上手です」

 わたしは修正に失敗してしまったと思いましたが、ルーシーはどうしてもわたしを褒めなければ気が済まないようでした(あるいは、そのようなご機嫌取りプログラムが適用された可能性もあるでしょう)。ですが、彼女の声を聞いていると、そこに根拠の無い説得力が生まれて来るようでした。もう一度見上げてみると、確かに、たまには世俗的な天使も悪くはないと思えました。

「どうでしょうか……まあ、金の牛を描くよりは良かったかもしれませんね。ではルーシー、帰りましょう」

 わたしがそう言うと同時に、大聖堂の中へ入る為のトンネルが突然現れました。あるいは、わたしが側廊のこの地点で帰る気になると知っているわたしが過去に。夢が遡及的に干渉されるように、マインドパレスもまた遡及的に干渉する事が可能でした。

 車軸がキイキイと鳴る薄暗いトンネルを抜けると、そこは長椅子を並べられた石造りの身廊でも窮屈な告解室でもなく、漆喰で塗り固めたような真っ白で何も無い四角い部屋でした。車椅子がくるりと回って入って来た方に向き直ると、すっかりトンネルは消えてしまって、のっぺりとした壁があるのみでした。

「目を閉じてください」

 ルーシーがそう言うと、車椅子から手が離されたのを感じました。わたしはぎゅっと目を瞑って、彼女の言葉の残滓に縋りつきます。瞼の裏の暗闇と外の色が等しくなって、全てがあやふやになって溶けてゆきます。身体の感覚が無くなって、皮膚は溶け落ちて、支えを失った肉が崩れて——飛び出した精神は栓の抜かれた排水溝を目指して低い所へ流れてゆき、ストローで吸い込まれるように超高速で飛んでゆきます(ジェットコースターに乗った神々が引き延ばされたわたしと並走してこちらに手を振っています!)。一種眩暈にも似た、全てが巨人に引っ張られる感覚の中でわたしは藁にも縋る思いでルーシーの存在に闇雲に手を伸ばし——

「目を開けて」

 両の耳のすぐそばで力強く囁かれたかのように轟く雷に、わたしの瞼は導かれるように強制的にバチンと持ち上がりました。目の前に広がるのはまた真っ白な部屋ではありましたが、所狭しと配置された未だ役割の把握しきれない機械達と、自らが繋がれているベッドのお陰で、すぐにここが現実であると分かりました。共感覚的色相変換モニターは先程までは活発に映像を映していた様子でしたが、今は薄い煙のように9番の色をたなびかせるだけでした。

 わたしの周りで影が炎のように揺らめいて、HALOがまだ光っている事が分かります。ゆっくりと音が戻ってくると、星辰があるべき位置に収まるように、規則的な電子音のピーカーブーが定位置へとやって来て鳴り始めました。それと同時に、ブーンという音を立ててHALOが停止しました。

 HALOとはわたしの頭頂部に接続されている環状の機器の事で、見た目が天使の輪によく似ている事からそう名付けられたようでした(なんともありがたい事に、起動時にはピカピカ光る無料の後光サービス付きです)。ルーシー曰く、殆どの部分は透明で、起動時にはパルスがよく見えるそうです。彼女の難解な解説を要約すると、いつ崩壊するかも分からないわたしの不安定な思考回路——対象の志向性をHALOはサポートし、また特定の思考パターンを取り出して信号のループを形成するプロセスを経る事で、わたしは任意の事物への後天的な絶対的集中力を獲得しているという事でした。わたしはその後天的な能力によって膨大な記憶のカテゴライズ化や複数のマインドパレスの構築を可能にしていたに他ならないのでした。

 わたしが考え事に夢中になっていると、ちょうどルーシーのコミュニケーション用マニュピレータの内の一つが心配そうに覗き込んで来て、わたしはふっと引き戻されました。

「おかえりなさい、リリー?大丈夫ですか?」

「大丈夫です。少し考え事をしていただけですよ」

 HALOを使用した後は決まってしばらくの間集中力が必要な事象への判断が曖昧になってしまい、取るに足らない考え事一つにすら無意識の内に極度の集中状態を発揮してしまう事がありましたが、わたしは大丈夫の意を込めて、彼女の腕にこれでもかと付いたセンサーの類に微笑んでみせました。これだけあれば恐らく、彼女の視覚に相当する器官がひとつくらいは接続されているでしょう。

「大丈夫そうですね、すぐに先生がいらっしゃいます」

 そうして、ルーシーの腕が引っ込められると、それと入れ替わりにまた別の腕が出て来ました(と言っても、わたしの視界に入らないよう注意して何本ものアームがこちらを観察しながらスタンバイしているのが常ではありました)。その腕は、わたしとのコミュニケーションに特化した三本爪マニュピレータで、いつも隙をみてはわたしの手を握ってこようとするのでした。一度、何故手を握ってこようとするのか聞いてみた所、ルーシーは、手を動かす事が脳の発達に繋がると考えた結果、わたしの手を動かすきっかけを作る必要がある為と答えてくれました。しかし残念な事に、この三本爪マニュピレータは彼女の数ある腕の中で最も繋ぎづらいとも言える腕でした。ただ結果的に、彼女の思惑通りかは知り得ませんが、うまい繋ぎ方を探ろうとわたしは手を動かす羽目になっていました(三本爪マニュピレータの腕を持つロボットとのデートはオススメ出来ません。何故なら、絶対にうまく手を繋ぐ事が出来ずに中々出発が叶わず、手をこねくり回しているうちに一日が終わってしまうからです)。

「ルーシー、渦潮の立体モデルを用意出来ますか?」

 ふと考え付いて、彼女のプラスチックと金属で構成されたカチカチの手を揉みながら尋ねてみると、収納されていたモニターが音も無くわたしの前に伸びて来ました。まだ画面は暗いままです。

「ええと——こんなイメージです」

 抽象的な深層風景のイメージや細かいニュアンスを伝えたい場合、同一の共感覚を保持したルーシーの存在はこれ以上ない程に便利です。深い海の色に集中して恣意的に共感覚を刺激すると、色相変換モニター上にはすぐに5番の色が現れて、竜巻のようにうねり始めました。それと同時に、目の前の画面上にも逆巻く渦潮の演算モデルが現れます。

「これで正解でしょうか?」

「流石ルーシーですね、完璧です。ここに棒人間を投入して貰えますか?」

 言い終えるや否や、間髪入れずにデフォルメされて両腕を真っ直ぐ横に広げた棒人間が投入されると、渦潮のぐるぐると力強く回る水面に沿ってぐるぐると回り始めました。段々と中心に近付くにつれて回転は速くなり、遂に渦の中心に触れたと思った瞬間、棒人間は渦に飲み込まれて海底に叩き付けられてしまいます。わたしは満足して言いました。

「つまり、わたしは先程このような状態にありました」

「どういう意味でしょうか」

 そう言ったルーシー側の色相変換モニターには、疑問の色が提示されています。

「チャンネル9——マインドパレスからこちら側へ戻る際、わたしの精神は超高速で振り回されて、さながらおもちゃ箱の中身と一緒に渦潮に巻き込まれた人間のようでした」

「それは——申し訳ありませんでした。おもちゃ箱の中身を撤去する必要はありますか?」

「面白かったと伝えたかったのですが……来たようですね」

 ちょうどその時、扉の向こうでシューという消毒用の煙を噴射する音が聞こえ始めました。

「先生がいらっしゃいました」

 ルーシー側の色相変換モニターに映っていた困惑の色は、それと同時に5番の色で上書きされました。

 しばらくして噴射の音が止むと、扉が静かにスライドして、先生が現れました。

 先生はルーシーと共にわたしの身の回りの世話を焼いてくれている方で、私の知る限りでは常に白衣か手術着を——今は滅菌室用の手術着の上に白衣を羽織っていました——着用している男性でした。年齢を教えてくれた事は一度も無く、外見からは野心溢れる若者にも、艱難辛苦を乗り越えた初老の人物にも取れました。マスクの為に顔も分からず、観察出来るのは骨の張った高い鼻と、反対に深く落ち込んだ眼とやたらと腫れぼったい瞼だけでした。短く刈り揃えられた白髪交じり——もとい殆ど真っ白の髪の毛は彼の年齢を余計に分からなくさせている要因の一つでしたが、わたしはそれがアルビノのわたしの為に合わせて染められたものである事を何故だか知っていました。

「相変わらず白いな」

 先生はわたしを見ると眩しそうに言いました(実際の所、この部屋の照明はやや弱く設定されていました)。先生の掠れたハスキーボイスが響くと部屋中の電子音とぶつかって、全てのアームがぐるりと彼の方を向きました。

 白い、しろ、透過される銀の王冠。彼の色に引っ張られて、モニターはソーダフロートになってしまいました。

「おはようございます、先生。ルーシーに呼ばれましたか」

 先生は一番五月蠅く主張しているであろう、目まぐるしく色を変えて渦を巻く共感覚的色相変換モニターを無視すると、他のモニター群の方をルーティン的にチェックし始めてしまいました。わたしの方からは何が表示されているのかは見えませんが、恐らくはわたしの身体の状態を示す数字やらグラフやらがピコピコしているのでしょうか。

「向こうでは何を?」

 先生がどこかのボタンを押す度にライムと桃の色をした電子音がぶっきらぼうに声を上げて、その度にモニター上にはサブリミナル的にライムと桃の色をした稲妻が走ります。機器には全てルーシーが入っている筈でしたが、今は何も喋らずおとなしくなっていました。

「天使との格闘を」

「相変わらず何を言っているのかさっぱりだな」

 機器のチェックは終わったようで、先生の目線は今はわたしの頭上10センチメートル、HALOに注がれていました。

「チャンネル9です。あそこには大聖堂が建っていて」

 わたしがそれについて言及するとモニターは黄金色のオーロラを躍らせてみせましたが、やはり先生は興味無さげに何度か頷きながら、さっさと次の作業に移りたいのか黙々とわたしに掛けられている毛布を退かすだけでした。そういえば、わたしはこの快適な毛布が何で作られているのか知りませんでした。

「ルーシー、支えてやってくれ」

 そう言うと、掴まりやすいようにルーシーが両側から腕を二本差し出してきてくれました。先生は濡れタオルを取り出して、服を脱ぐジェスチャーをしています。確かにわたしは足が無い為に倒れやすくはありましたが、殆どの時間上体を起こして過ごしていましたし、服も前で合わせるだけの簡単なものでしたので毎回ここまで大掛かりにする必要があるかどうかは疑問でした(そもそも身体を拭く程度の介助ならばルーシーにも可能でしたが、わたしはこれが触診を兼ねているのだと予想していました)。

 継ぎ接ぎだらけの真っ白な肌の上に先生の武骨な大きな手が触れる度に、骨の当たるゴリゴリとした感触が響き、お互いに無感情な時間が過ぎてゆきます。

「筋肉量がまた落ちている、どうしようもないな。漂白装置の準備が整い次第対応する」

 誰に聞かせているつもりでもないのでしょう、先生は独り言のようにぼそぼそと喋ります。

「ほかに何か問題は」

 ルーシーに袖を通すのを手伝ってもらっていると、先生は丁度思い出したかのように尋ねてきました。

「いいえ先生。とても好調です」

 今までに何回この問答をしたかは分かりません。ですが、調子はどうですかと訊かれれば決まってわたしは元気です、あるいは、それに準ずるような事を反射的に答えてしまうのでした。一体何と答えればよいのでしょうか?畢竟、わたしはわたしについて無知であり、この形骸化した問答には何の意味も無いと思えてしまうのでした。

「何かあればルーシーを通して連絡を」

 そうして、やはり先生も適当に頷くと部屋を出て行ってしまうのでした。

「そうだ、輪っかを使い過ぎるなよ、負荷が掛かる」

 最後に振り返ってわたしの頭の上に向かって釘を刺すと、終いに扉が閉まって先生は消えました。

 真っ白で、ほんのり光を放つ一連の記憶を閉じ込めたガラス瓶にI want youのラベルを貼り付けて、わたしはそれをどこかの宮殿のどこかに放置された物置の奥の方へと押し込みました。棚に瓶を置いて戻って来た瞬間、わたしはすぐにその場所への道を忘れてしまいましたが、いつかI want youのトリガーが引かれた際には条件付けされたこちらに向かって指をさす先生の映像が甦り——あるいはルーシーが掘り起こして——問題なく一連の記憶が思い出されるでしょう。

「ルーシー、お出掛けしましょう。——HALOを起動、チャンネルを5に設定」

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