第12話 定められた転機


「―――ハァッッッ!!!」

 裂帛の気合と共に、両刃の剣が大気を切り裂く。

 十分な速度と威力の乗った斬撃はしかし、狙った獲物を捉えることはできなかった。


「―――シィィイッッッ!!!!!!」

 お返しとばかりに、攻めて体勢の崩れたところを狙って放たれる、3対6手の鎌腕。


 並みの人間の動体視力では残像すら見えない高速の連撃。

 それを私は、並みの人間では有り得ない運動神経で、『一歩も下がることなく』回避してみせた。


 これには鎌腕の主も驚愕したのか、次の一手に躊躇が生まれる。


 その一瞬の隙を、私は見逃さない。


 呼吸一拍、相手を中心として円弧を描くように、ぬるりと立ち位置を変える。

 重心移動と構え、死角への移動を同時にこなした間合いの詰め方は、機械のように合理的で、かつ捉えどころがない。


 ―――攻めあぐねた鎌腕の主が、状況の不利を悟った瞬間には、もはや既に大勢は決していた。


 鎌腕の主が苦し紛れに放つ、既に死に手の鎌撃をいなしたうえで、超高速の剣撃が放たれる。

 既に懐に入り込まれた鎌腕の主には、成す術も無く―――。


「そこまでっ!!」

 

 傍らから掛けられた試合終了の声。

 寸止めした銀の刃を納めると、私は息を吐き、身体の力を抜いた。


「―――お見事です。王子」


 崩された体勢を整え、鎌腕の主―――『虹眼侯』グレースブルースは慇懃に礼を尽くて己を負かした相手を称える。


「いや、なかなか危なかったよ。

 正直、最後の一合、連撃を捌ききれなかった可能性もあったし」


「いえ、それにしても、です。

 この暫く、坊ちゃまの成長は目覚しく、この虹眼侯、十二の瞳を日々驚きに彩る毎日に御座います。

 ……この分では、私ではもはや、坊ちゃまには太刀打ちできなくなる日も遠くありますまい」


「ははは。まだまだだって。

 グレースだって、まだ手加減してくれてるじゃないか。そんなに簡単に追い抜けたりはしないさ」


「………これでも軍庁長官にして中央統括の任を任されている身。

 生身で、その私の100%と戦えるのは可能性としてすら普通あり得ないのですが……」


 ぼそぼそとグレースが何かを呟いていたが、聞こえなかったのでそのままにしておく。

 私は流れる汗を拭い、訓練場として利用した広場の片隅に歩いてゆく。

 そこには簡素ではあるが日除けの屋根を備えた観覧席が設えてあり、護衛の錬鉄機鋼を従えた老翁が、静かに佇んでいた。


「義父上(ちちうえ)。如何でしたか?」

「……おぉ。アーレン。

 見事であったぞ。

 まさか、あのグレースに勝つとは……」


 老翁――ヴィザル=ディ=アレッサリア国王陛下は笑顔を浮かべ、観覧席に設えたソファに腰掛けたまま息子の勝利を祝う。

 深いしわの刻まれたその表情は嬉しそうで、その声音も喜びに満ちていた。


 ―――だが、その声には以前のような力強く、思わず身を正してしまうような威厳は無い。

 皺枯れた声に張りはなく、近づかなければうまく聞き取れないほどに弱々しい。


 足腰も衰え、外を移動するにも乗用機鋼車と御者を利用せねばならず、かつてのように、王としての風格を備えた立ち居振る舞いは見ることができなくなっていた。

 そんな義父が身を起こそうとするのを助けながら、静かに年月の流れと、世の無常さを噛み締める。


 ――――――この世界に来て、はや16年。


 転生当時、すでに老齢であった義両親の身には、ここにきて、隠しようも無い衰えが見え始めていた。



 屋敷へと戻ると、そこには忙しく立ち働くメイドたちと、義母の姿があった。

「あら、アーレン、あなた。

 お帰りなさい。早かったのね」

「義母さん!」


 皺枯れた顔に満面の笑みを浮かべながら、義母が私達の帰宅を迎える。

 その細腕にキラキラした派手な飾りを一杯に抱えて、パタパタと無駄に広い廊下を歩きながら。


「片付けはグレースの部下達がやってくれたからね…っていうか、義母さん、なにやってるのさ。

 そんなに歩き回って大丈夫なの?」

「大丈夫よ、今日は調子が良いから。

 あんまり寝てばかりだと身体が腐っちゃうわ」

「けれど…」

 そう言いつつ周囲のメイドたちを眺めると、どうしたら良いものかとあぐねている様子が分かる。


「だってアーレン、もうすぐあなたの16歳の誕生日でしょう?

 あなたが大人の仲間入りをする晴れの舞台だし、戴冠式も兼ねているのだから、私だって何かしたいわ」

 首を傾げながら、ニコニコ顔でそう語る義母の表情は生き生きとしていて、なんとも口を挟みづらいオーラを纏っている。


「だからって、その準備を現王妃様が手伝うのはどうかと思うよ、義母さん…」

 苦し紛れに苦言を呈してみせるが、そうやって嬉しそうなのが自分のためだとわかっているから、どうにも強くでることができない。


「イェルダよ」

「……あぁ義父さん、義父さんからも何か言ってやっ」

「その宝飾は随分前の、それこそわしの戴冠式の時に使ったものだし、落ち着いた性分のアーレンには少々派手すぎやしないか?

 息子の一生に一度の晴れ舞台、ならば仕立て直すより一から作り直したほうがよかろう」

「それもそうね」


「義父さん……」

 どうにも援軍は期待できないとわかり、私は説得を早々に諦めて、メイドたちに義母が無茶をしないよう気をつけて欲しいと告げてその場を後にした。


「ふぅ」

 自分の部屋に入ると、ソファに落ち着く。

 年の離れた一人息子へ、とあてがわれたその部屋は、こじんまりとした、雑多な物で溢れた部屋だった。


 本来の広さとしては、6畳半といったところ。

 部屋に足の踏み場もないほど積み重ねられたものは、まず主に目の付くのは書物の類だ。


 アレッサリアの歴史を記述した歴史書、風土史、少子化により閉鎖され、王宮に寄贈公開された錬鉄機鋼たちの機密資料。


 そうした、古今問わず積み重ねられた紙の資料はもとより、『廃都』より発掘したアレッサリア全盛期の生活を思わせる各種の陶器類や武器類の出土物、聖法圏全土の地質調査によって得た様々なサンプル等々。


 もともと大した広さではないが、そんなスペースにぎっちりと詰め込まれた種々雑多な物の山が、この部屋の体積を圧迫していた。

 部屋の中をイメージしやすいように例えるなら、フィールドワークを常としている考古学者の研究室、とかがイメージに近いかもしれない。


 これが、私の部屋。

 王子様の私室としては狭すぎるかもしれないが、前世の魂が庶民だったので、広い部屋は逆に落ち着かないのだ。



 ……なおこの部屋、義母と、屋敷の清掃や雑務を統括するメイド型の錬鉄機鋼たちにはすごぶる評判が悪い。

 彼女らの界隈では『魔窟』だの『秘境』だの『最後の難所』だの『王子の巣穴』だの呼ばれているらしい。

 ひどい。


 いつか征伐(そうじ)する場所として日々虎視眈々と狙われているという噂もある。

 なにそれ怖い。あと巣穴とかいわないで。


 ―――ふと、傍らに立て掛けてある姿見に、自分の姿が映る。

 そこに佇んでいるのは、金髪碧眼の、端正な顔立ちをした青年だ。

 まだ、やや少年ぽさは残っているが、切れ長の瞳とはっきりとした目鼻立ちは、前世で言う一般的な欧州白人に近い風貌だといえる。

 ……コーカソイドの血統がどうとかあまりそのあたり、人種間の違いは知らないのでざっくりとした感想だけれども。


 身体つきは日々の修練のおかげか、がっしりとしていて肉付きも良い。

 外で運動は良くするから、適度な日焼けもしていて、血色もいい。

 超のつく健康体である。


「健康的な、若い身体…か」

 今世における自分の肉体を見て、感慨深く呟きが漏れる。


 ―――『私』の前世における肉体というものは、なんとも酷いポンコツだった。

 生まれついての虚弱体質で、年中何か病気にかかり、特に肺やら呼吸器が弱かったから、激しい運動も出来なかった。

 そんな肉体をなんとか騙し騙し、70年ほど生きたわけだが、その人生の中で満足に身体を動かして運動した経験なぞ、数えるほどしかない。


 それがどうだ。

 今世の身体は、歩いただけで息切れするようなことは無いし、鍛えれば鍛えるだけ、応じた筋肉がつくじゃないか。


 凄い。


 ……『望んだままの動きが出来る』ことの幸せというのは、きっと健常で人並み以上の人生をおくった人間には分からないだろう。


 だから私は、身体をひたすら鍛えた。

 ポンコツな身体の所為で前世で出来なかった反動というか、70年溜まった欲求不満の発露というか。

 で。その結果として。


 軍用錬鉄機鋼の頂点の一つである虹眼候グレースブルースと、1対1で渡り合える戦闘能力を得ることができた。

 さらには、その上―――人類の仇敵である、魔物を模した錬鉄機鋼―――想定敵と呼ばれる相手とも、互角に渡り合えるくらい強くなった。


「……まぁ、ちょっとやり過ぎたかな、とは思わないでもないなー……」


 外の世界は瘴気が溢れていて出れないし、魔物はもう千年以上、この聖法圏に攻めてきていない。

 無用の長物というのはこういうのの事をいうのかもしれない……などと思い悩んでいる、

 と。


「………ん?」


 ふと、自室の外が騒がしいことに気づく。

 疑問に思っていると、唐突に、ドアが開かれる。


「―――坊ちゃま、火急につき失礼いたします!

 陛下が―――お父上が―――!」


「―――っ!」


 胸騒ぎがした。

 予感があったのだろうか。その言葉に、私は躊躇なく飛び起きた。

 迷わず剄技を行使し、一点集中、脚力を高める。


「何処だ!?」

「今は、陛下の居室に!」

 報告に来た錬鉄機鋼を押しのけるように部屋を飛び出すと、私は一心不乱、義父の元へと疾(はし)った。




……

………



 義父は、私の成人の儀に伴う段取りを決めている最中、心臓を押さえながら、静かに倒れたらしい。


 今、目の前で豪奢な天蓋付きのベッドに横たわるその姿に、国王としての覇気は影も形もない。

 ただ、老いと闘い続け、今にも敗れ去りそうなひとりの老人が居るだけだった。

 ……かつての、ほんの16年分ほど前の自分の姿と、義父の姿が重なる。


「……義父さん」

 静かに、その皺だらけの手を握る。

「義父さん」

 呼びかける。

「…………アーレンか」

 義父は、うっすらと目を開けた。


「……やれやれ。

 できれば、お前の成人まではしぶとく玉座にしがみつくつもりだったのだがなぁ」


 私の姿を認めて、ぎこちなく笑ったその表情は、気味の悪いほどに透き通っている。

 生気が抜け、活力を感じさせない声音は、自分の運命を察し、受け入れた人間のそれだった。


 その意味が、覚悟が。

 一度経験した私には痛いほど理解る。理解ってしまう。


「―――いいや、そんな事はない。そう、そうだ。

 医療庁の錬鉄機鋼たちの力を借りれば。

 だって、この世界の医療の水準は凄いんだ、だから……!」


 縋りつくように、纏わりつく予感を振りほどくように。

 私は金髪を振り乱し、看護型の錬鉄機鋼達へと救いを求めて首を巡らせる。

 その場に居る錬鉄機鋼たちは静かに自分の仕事に従事している。その仕事に慌てた様子はない。

 その粛々とした様子が、私にはどうにももどかしく、無意味だとわかっていても、心に苛立ちを募らせてゆくしかない。

 そうして、もうどうにも我慢できなくなって、今にも手近な看護官に掴みかかりそうになった私へ。


「天命はどうにもならぬよ。どんなに医療の技術が進もうと、な。

 ―――落ち着きなさい、アーレン。我が息子よ。

 次代の王がそれでは、示しがつかんだろうに」


 静かに声が掛けられた。

 聞き慣れた、だが、かつてなく弱りきった義父の声。

 その声の弱々しさが、浴びせかけられた冷水のように私の頭を冷やす。


「自分の体のことは、自分でよくわかる。

 ……そもそも、今まで生きてこれたのがその医療のお陰みたいなものだ。

 それももう限界、ということなのだろう」

 静かに笑みを浮かべて、義父は私を諭す。


 ―――悔しいが、実際、その通りだった。


 義父も義母も、ここ数年で体調を崩す頻度が格段に増えた。

 体力も目に見えて低下して、一日にベッドから起き上がっている時間も少なくなった。


 医者に罹る機会も増えた。

 今日は、珍しく義父も義母も身体の調子がよく、義父のたっての希望で、グレースと私の修練を観覧することになったのだ。


「……でも」

「アーレン」

「だって……そんな……そんなのは…」


「アーレン。

 私の愛する息子よ、聞きなさい」


 なおも動揺を取り繕えない私に、義父は静かに、だが私が憧れた、王としての威厳と力強さのこもった声で語り掛ける。


 私は息を呑み、ようやく我に返る。

 私が落ち着いたのを見計らってから、義父は、傍机に置いてあった豪奢な作りの小箱を指さした。


「……ほれ、そこの机の上に、箱が置いてあるであろう?

 その箱を……こちらに」

 私は言われるまま小箱を取り、病床の義父へ手渡した。


「……本来は、お前の成人の儀の際に、然るべき儀典に則ったうえで渡すべきなのだが……な。

 こうなってはもはや、体裁を取り繕う余裕もないわ。

 略式で許してくれ」

 そういって、義父は横たえていた身体を自力で起こし、私のほうへと向き直る。


 咄嗟に手を貸そうとした私を目線で拒んだ義父の瞳には、一国の王に相応しき、意志の炎が静かに揺らめいていた。

 その炎の輝きに、揺らめく炎の意味に、見ていられなくなった私は目を伏せる。


「―――アーレン=ディ=アレッサリアよ。

 アレッサリア聖法圏アレッサリア王国が第63代の王たるヴィザル=ディ=アレッサリアが勅(みことのり)を汝に授ける。

 身を正し、その清廉潔白なるを我が地、我が空、偉大なる聖法の理に誓いなさい」


 私は、静かに膝を折り、礼を尽くす。

「はい、我が王よ」

 短く、静かに、己の心を示す。


 『言葉は尽くさず、以て礼によって応えるべし』。

 アレッサリアの、あらゆるものが限られた国土の中で培われた、絢爛華美を好まず質実剛健を好しとする精神は、2度目の生を生きる私の魂の中にも育まれている。

 それを私に授け、導いてくれたのは、他ならぬ、いま目の前で最期の魂を燃やす、尊敬する我が義父だった。


「受け取るがよい。

 これが、このアレッサリアの国を治める者の証―――『王鍵』である」

 義父が震える手で小箱を開け、その中身を示す。

「……謹んで」

 両の手で受け取った『王鍵』は、凝った意匠の施された金の鍵だった。


「その鍵が、聖法圏2千年の歴史と、我らアレッサリアに生きた民の証である」

「……賜りましょう」

 掌に乗るほどのサイズのそれは、ずっしりとした重みと存在感を私に伝えてくる。


「頭を上げなさい。

 『王鍵』を譲渡した今これより、この国の王は私ではなく……第64代国王・アーレン=ディ=アレッサリア。そなたとなった。

 今この時より、頭を垂れるべきは私の方となったのだ。

 ―――では、心構えは宜しいかな……陛下?」


「はい、……猊下」


 心構えはしていたが、いざそう呼ばれると、何とも言えない居心地の悪さ、すわりの悪さを感じる。


 目の前にいる義父は、私がこの世界に転生した時から王であったのだ。

 私が王など、まして王でない義父など、想像ができなかった。


「なに。すぐに慣れる。

 ……それに。王などといっても、今の時代、国政含めて何もかも、錬鉄機鋼たちが全てうまく回してくれるだろう?

 人間の王なぞ、決済印を押すための飾り付きスタンプみたいなものだ、気負わずともいいぞ」


 義父のフォローに、私は静かに苦笑する。


「……しかし、これで……あぁ、これでやっと……」


 疲れの見えた義父の身体をベッドに再び横たえる。

 義父は呟き、静かに、静かに長く、息を吐いた。


「………………終わったのか………………」


 その姿はどこか、長旅の果てに目的地へ辿り着き、重い荷物を下ろした旅人を思わせた。


「お疲れさま、義父さん」

 そのねぎらいの言葉は純粋に、『王』としてではなく、困難な仕事をやり切った父に向けた、息子の言葉だった。

 天涯孤独であった前世では、掛けることも、掛けられることもなかった言葉。

 だが、自分でも驚くほど、抵抗無く口をついて出た。


「ふふ。

 ……まさか、こうして王の役目を終えた時、イェルダ以外からねぎらいの言葉を貰えるようになるとは、即位した当時は夢にも思わなかったよ」


「……」


 私が転生するまで、この世界の人口はたった二人だった。

 かける相手は決まっていたのだ。


「―――我が、息子よ。

 どうか、今際の際に臨むこの老いぼれの、懺悔を聞いてくれ」

 枯れ枝のように細くなった身体をベッドに預けたまま、義父は視線を窓の外へと向ける。


 屋敷の外には、いつもと変わらない青空が広がっている。


 いつもと変わらない、半径30キルメルに限られた、最後の楽園の青空だ。


「―――お前が、この地に召喚されたとき、な。

 興奮して泣き叫ぶイェルダに抱かれたお前の姿を見つけた時、私は喜ぶより先に、安堵したのだよ」

「…安堵?」

 冷たい強風に煽られ、今にも吹き消える蝋燭の灯のように、義父の瞳が揺れていた。



「……『あぁ、私が最後にならずに済んだ』と、『この重責を背負ったまま、逝かずに済む』、と…」



 そう語る義父の言葉は揺れて、苦悶に顔を歪める。それが、身を蝕むものによるのか、心を苛むものによるのかは、私には判らない。

 そして、彼は、決して私にも、そしておそらくは義母にも語らなかったであろうその心の内を、訥々と語った。



「怖かった。

 ―――2千年にわたるアレッサリアの歴史を背負ったまま死に逝くのが。

 数千年、数万年の人類の歴史の幕を、最後の王として引き降ろさければならない、その役目の重さが。

 ……私は、怖かったのだ」


 

 ―――私の脳裏に、かつてのある光景が浮かぶ。

 かつて、まだ義父が元気であったころ。

 夕食の席で、やや酒精の入った当時の義父が、杯を傾けつつ自嘲気味に語った話だ。


『そもそも私は別に、アレッサリアの王家に連なる人間でも、何でもなくてな。

 ……古ぼけた家系図で言えば、私の先祖は『大浸食』の折、この地に避難してきた何処かの亡国の靴職人だそうだ。

 イェルダの方の祖先は、この丘陵で牧家を営んでいたらしい。こっちは少し、何代か前に王家の傍流の傍流の血が流れているらしいがな』


 一点の曇りなく磨かれた銀杯に映る自分の姿を眺め、彼は笑ったのだ。


『……結局のところ。

 わしもイェルダも、消去法で最後に面倒なお鉢が回ってきただけに過ぎん。

 王家なんてのは名目だけ。

 そもそも根っこの部分で、わしらは王族なんて大層な器ではない。

 ―――錬鉄機鋼(かれら)が王を欲しているから。

 ―――他に人間がいないから。

 ……そのように振舞っているだけの、ただの平民だ』

 

 今、私の前に居るのは、威厳と王威を湛えた、偉大なる王ではなかった。

 ……死の淵に立ち、その深さに呑まれそうになったひとりの老人の姿が、そこにあった。


 その姿を見て、―――そこに私は、もう一人の私を幻視した。


 前世。

 自らの一生に絶望しながら死に臨み、その無意味さに恐怖した私の姿だ。


 私は、孤独な老人として生を終えた。

 一方、義父は、『王』としての役目を果たし、堂々たる人生をもって、逝こうとしている。

 『貧民』として終わった私と、『王』として終わる彼。

 対極であるはずだ。


 なのに、いま死に臨む彼の姿は、かつての私と大差がない。

 

 <貧者も富者も、死に於いてはすべて平等である>と説いたのはどこの宗教家だったか…。

 私は過去の空虚さに怯え、彼は過去の重責に怯えていた。

 違いといえば、怯えているものの違い、ただそれだけだ。

 そして、それが理解できるからこそ、私は彼の、義父の心の裡が手に取るように解るのだ。

 だから。

 

 ―――あぁ、そうか。


 義父の手を、そっと握る。

 その手は皺だらけで渇ききり、握っただけで砂になってホロホロと崩れそうだった。


「父さん。

 ―――感謝します」


 父の瞳が、私を見据える。


「私の父となってくれて。

 私を受け入れてくれて。

 私を育ててくれて。

 私に誇りを教えてくれて。

 ―――そして、私に、最期の王としての役目を授けてくれて。

 ―――感謝します」


 私の言葉に、父は目を見開いた。

「……アーレン、私は、お前に……。

 異世界から来た、何も関係のないはずのお前に、『最後の王』などという、ろくでもない重責を背負わせてしまうのだぞ…!」


「いいえ。関係なら、ありますよ?」


 私は笑う。

「私はこの国に生まれました。

 この国で、産声を上げました。

 たとえ中身が異世界からきた『何か』であろうと、アーレン=ディ=アレッサリアたる私はこの国で生まれ、この世界で十何年生きてきたのです。

 ―――この国を愛するには、十分な理由でありましょう?

 中身が何であろうと、今まで生きてきたことは、決して嘘ではありませんから」


 関係がない?

 それは見当違いな台詞というものだ、父よ。


「それは―――」

「だから、私は王位を継承したことを、微塵も後悔しませんし、無関係だからと放り投げる気もありません。

 あなたの重責は、私が背負います」


 気負いなく、躊躇いなく。

 私は自然に、そして自分の意志で、それを、王の重責を背負い込む。


 元より、スカスカの中身(じんせい)が悩みだったのだ。

 一度目の人生は、空っぽの人生。

 空虚で無意味な、まるで泡沫のような、本当にあったかもわからなくなりそうな人生だった。


 ならば二度目の人生は、『最後の人類』だの『最後の王』だの、そのくらいの重み(プレッシャー)を加えてはじめて丁度いいくらいだと嘯いてみせようじゃないか。

 私の中身は、既にあふれんばかりに満たされていた。


「……お前は、それで良いのか、アーレン」

「はい」

「元は、異世界から召喚された、この世界に何の所縁もない人間だろう」

「ですが、この世界に生まれ直しました。

 あなた達に育てられ、今まで生きてきました。

 ……ならば、背負う資格は、それで十分でしょう?」

「王だぞ?

 それも、間違いなく2千年と続いた王朝の最期を看取る羽目になる。

 自分の代で、王家は途絶えるのだぞ……!」


「背負ってみせましょう。

 歴史も。

 人類の命運も。

 背負えるものはすべて。

 なればこそ―――」


 背筋を正し、ほんの数分前まで王であった人を見て。

 私は笑う。

 父の姿を思い浮かべ。

 私が知る限りで、最も偉大であった王の姿を思い浮かべ。

 その威風を己が身で顕すために。


「―――なればこそ、私がこの世界に転生した、甲斐があるというものです」


 目を驚きに見開いていた父が、私の姿を見て、決意を聞いて、やがてふと、表情を緩めた。


「………あぁ」

 まるで、憑き物が落ちたような。

「………そうか………」

 晴れ晴れとした表情で、父が笑う。


 心底、理解できたという表情で。

「お前は、ほんとうに。

 ―――私たちを救いにやって来たのだなぁ」

 大げさだよ、と私は笑う。

 長らく話して疲れたのだろう、父はそのまま寝息をたてはじめたので、私はそっと部屋を後にする。



 ―――そして、それから二日後。

 アレッサリア聖法圏第63代国王、ヴィザル=ディ=アレッサリア。享年74歳。

 彼は、妻であるイェルダ=メイ=アレッサリアに看取られ、静かに自室で息を引き取った。

 聖歴2018年の事だった。 

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