第3話 自身の身の上と、将来に向けた決心


 ―――その日、わたしの全財産とすべての持ち物は、たった一本の古ぼけた日傘であったらしい。


 師走の年の瀬に、あるさびれた地方都市の、これまたさびれた公民館の正門前で、広げた日傘に隠すようにして置き捨てられていたそうだ。

 傘はこげ茶の大振な蝙蝠傘で、触れるのを一瞬ためらうくらいにはボロボロだった。


 ―――前日は雪がちらつく曇り日で、公民館の事務員はそんな日によくある忘れ傘かと思ったのだという。

 ところが、片付けようと無造作に傘を拾ってみると、なんと、その傘下に1~2歳の幼児がちょこんと座っているではないか。

 そりゃあもう、ビックリしたそうな。

 そりゃあうん。ビックリするだろう。多分幼児の方もびっくりしてた。

 覚えてないが。


 そんなエピソードを知ったのは、中学卒業のころ。

 些細な縁があり、わたしを発見したという件の事務員に話を聞く機会を得たからだった。


 ―――わたしに当時の記憶は殆どなかったが、ただ、雪に濡れたコンクリートの床がとても冷たくて、尻がムズムズしていたのだけ何故かやたら鮮明に覚えていた。


 

 それはともかくとして。

 私が赤ん坊として目覚めてから、およそ1年ほど過ぎて。

 1年も経てば、順調に身体に肉がつき、腕にはハイハイが出来るほどの筋力が備わってくる。


「アーレン、ほら、こっちまでおいで。ほら、ほら」


 パンパンと手拍子を交え、老婆――イェルダは、穏やかな笑顔で私のことを促す。


「おい、イェルダ。あまりアーレンを急かすな。ついこの間ようやく手をついて進むことが出来るようになったばかりだぞ。

 無理させて怪我でもしたらどうする」


 彼らの話す言葉を日常会話程度なら、どうにかこうにか、ある程度は理解できるようになっていた。


「あら、あなた。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。

 この時期にはもう腕の筋肉はちゃんとハイハイ出来るくらいには発達しているって、情報庫(データベース)に書いてあったんですもの。

 むしろ、この時期にちゃんと訓練しておかないと、充分な筋力がつかなくて後で危険なんですって」

「それは…むぅ」

「もう、心配性なんですから」


 コロコロと笑うイェルダの傍らで、老翁―――ヴィザルは渋面をつくってみせる。

 だが、その視線は必死にハイハイを遂行しようとする赤ん坊に釘付けだ。


 微笑ましく見守る老夫婦を余所に、当のハイハイを遂行する赤ん坊=私は、真剣そのものであった。

 いやぁ、このハイハイって意外と難しいんだよ。

 ある程度上半身を支える程度の筋力はついてはいるが、それでも赤ん坊の身。非力な腕で身体を支えて、かつ前進しなければならない。

 ひと掻きごとにすごく体力を消費する。

 …これ、明日になったら筋肉痛になったりしないだろうか?

 赤ん坊に筋肉痛があるのかは謎だが。

 無いことを祈ろう。


「はい、到着~♪ よくできましたね、アーレン!」

「うむ、見事だぞアーレン。なかなか堂々とした、見事なハイハイぶりであった!

 今夜は祝杯だ!!」


 どんなハイハイだ。

 というか義父(ちち)よ。あなたは最近、いつも私をダシにして飲んでいる気がするぞ。肝臓腎臓は大切にした方がいい。

 臓器は大事だ。臓器が真っ先にダメになった元70代からの忠告だぞ。


 ―――この赤ん坊の身になってみて。

 普通なら言葉の習熟はもっと先なのだろうが、元々前世の記憶があったおかげか、この身体の基本スペックが高いのか、順調に言葉を理解することが出来ている。

 赤ん坊は基本寝るのが仕事で、あとはする事が無くて暇だった、というのもあるけれど。

 まだ日常会話程度ではあるし、文字は読めないとはいえ、それでも格段の進歩である。

 そうして、言葉を理解できるようになれば、いろんなことが分かってくる。


 ―――まず、やはりというか予想通りというか、ここは私の生きていた前世の世界とは違う、別の世界ということが、ほぼ確定した。

 まあそうだろうなと思ってはいたが。


「あら大変。アーレンったら、ちょっと熱っぽいわ。

 たくさんハイハイして疲れちゃったのかしら?」

「む!? それは大変だ!! イェルダ、今すぐ医療庁に連絡を!!

 緊急コードの発令だ、錬鉄機鋼(ギ=アプストル)に告ぐ、非常事態である! 直ちに総員―――」

「(ごすっ!)はいはい、あなた。そんなに大げさに騒がないで。

 この年頃の赤ちゃんは熱を出すのなんて日常茶飯事だって前にも言ったでしょう?

 熱を出すたびに大騒ぎしないの」

「―――。(ぴくぴく)」


 …さすがに生身の人間が何もない掌から衝撃波とか生み出せないので、少なくとも元の世界とは根本的な常識が異なる事がわかった。

 …義母(はは)よ。

 私は必要ないが、謎の衝撃波をくらってまともに吹っ飛んだ義父(ちち)には必要そうだぞ。

 白目向いて痙攣しとる。


 とはいえ、異世界だろうが現実世界だろうが、転生している時点でもうとっくに私の常識の範囲外なわけで。

 たとえ彼らが異世界人で、摩訶不思議な魔法を使える魔法使いなのだとしても、こうして赤ん坊である私を拾い、育ててくれているという事実は変わらない。


 私を拾って育ててくれた老夫婦―――イェルダとヴィザルは、私に対して非常によくしてくれている。

 どうも、この夫妻には他に家族がいないようで、彼ら以外の人間の姿を見たことは今まで一度もない。

 見たところ、子供も居ない。

 私の育て方のぎこちなさを見ると、そもそも今まで子供を作ったことが無いような節がある。それがどういう事情によるかは分からなかったが。


 …まぁそれはともかくとして。

 彼らは赤ん坊である私を―――当人から見ても、やや過剰なのではないかと思うくらい―――存分に可愛がって、大切に育ててくれていた。

 おかげで今まで、何不自由なくすくすくと育ってこられている。

 

 ―――明らかに、私は彼らとは血の繋がった子供ではないというのに、だ。


 天涯孤児として一生を終え、また新しい生でも孤児として生を始めた私としては、何とも新鮮で、何とも面映ゆく……彼らには、感謝以外の言葉がない。


 ……けれど。

 故に。だからこそ。

 私は、不安になる。


 ―――私の正体を、この二人が知った時のことが。


 不安の種は、他でもない。

 この赤ん坊の中に入っている『もの』が、前世の記憶を宿した、到底普通の赤ん坊というものではない、薄気味の悪い『なにか』であるという事実を、知られてしまうこと。

 恐怖している、といってもいいかもしれない。


 …ただし、私の恐怖しているのは、自分が再び捨てられるという可能性に、ではない。 


 もしも。

 正体を知られて、私のことを何か赤ん坊ではない恐ろしく気味の悪い魔物かなにかだと思われ、そのまま捨てられてしまったとして。

 ―――それはそれで仕方がない、と私は割り切っている。


 だって、そうだろう?

 普通に考えて、うん十年も生きたジジイの記憶を持った赤ん坊とかキモいし怖い。

 私なら絶対に関わりたくない。


 彼らに見捨てられれば、流石に1歳児の身では、まぁそのまま野垂れ死ぬ以外の選択肢は無いだろう。

 とはいえ、どうせ一度終えた命。臨死体験から体感でまだ一年程度だ。

 何かの拍子におまけのエクストラステージが少しついてきた、くらいで割り切ってしまえる程度には、死に臨む覚悟は自分の中に残っていた。


 ―――恐れるのは、私の身の上についてではない。

 ―――私は、彼ら夫妻の、私に向けられるあの無償の笑顔を曇らせてしまうかもしれないことを、恐れていた。


 いつかは知られることになるだろう。

 彼らがあまり普通の赤ん坊に対して理解が及んでいないとしても、私の態度はあまりにも普通ではない。

 なるべく赤ん坊らしい態度は心がけていても、どうしても不自然になっているのは否めない。

 遅かれ早かれ、彼らは赤ん坊の『中身』の異常さに気づくことになる。


 その時のために。

 出来るならば、こんな私にも良くしてくれる、彼らの優しい心を、なるべく傷つけないために。


 ―――傷は浅い方が良い。


 私はなるべく早く、もっと深く言葉を学び、伝えることが出来るようにならなければならなかった。

 自分の正体を。

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