十、

 僕は林間学校で、クラスの畑中太はたなかふとしという奴と親しくなった。畑中の家は両親が共働きで、最近は高校生の姉貴に食事を作ってもらっているらしいのだが、「マズいから、俺早く自分で作れるようになりたい」と言っていた。「俺を彼氏に作ってあげるご飯の練習台にするの、やめてほしいよ。」

 僕は「なら、俺がカレーの作り方ぐらい教えてやる」と言って、林間学校が終わった翌日の振替休日に、畑中の家に行く約束を取り付けた。内心、浮き浮きしていた。僕は畑中の家のマンションの隣に住む、玉木慈たまきめぐみに憧れていた。二人は遠い親戚同士で、同じアニメが好きなのでよく互いの家を行き来していた。もしかしたら、彼女に会えるかも知れないと思ったのだった。

 そうして、心を弾ませながら大きなプーマのかばんを担いで家に帰ってくると、ちゃぶ台の上に食べたままのコンビニ弁当容器と、ウーロン茶のペットボトルとヨーグルトのカップが置いてあり、その横でマユミちゃんが仰向けになって寝ていた。ボサボサの髪は、水商売をしていた頃のカールがようやく取れてきたところ、下は部屋着の短いスカートなのに、股をあられもなく開いている。僕はふと、こんなだらしないマユミちゃんに対する苛立ちがこみ上げてきた。

 手を洗おうと洗面所に行ってみて驚いた。女物の下着とパジャマが、脱ぎっぱなしで無造作に投げ捨てられている。さらに流し台の中には傷んだ細い髪の毛が散らばり、使用済みの化粧落としシートが落ちていた。

「あ、たっちゃん、おかえり……」

 ようやく体を起こすマユミちゃんを見て、僕はそれまで感じていなかった林間学校の疲れが、どっと出てくるのを感じた。

「ふぁ……たっちゃん、今日来た客が、夜の仕事をしていた時に一緒だった人でね~」

 マユミちゃんは体を起こしてちゃぶ台に肘をつき、おでこを押さえながら言った、「一番高い酒を、全部十円玉で買っていったの」。

 僕はそれを聞いて笑ったが、マユミちゃんはしゅんとしたままだった。「十円玉、こうやってあたしの手のひらに載せて……あたし、数えて……そしたら、店長が『お前バカ』って……」

 この何年も後になって、それは計算もできないし、不器用で細かいものがつまめないマユミちゃんに対する嫌がらせだったのだと気がついたけれど、その時の僕にそう思いやってやるほどの精神的余裕はなかった。

「まったく、十円玉の枚数かける十じゃないか!そんなの小学生の僕でもわかるよ!」

 前々から腹の中に溜めていたことを、ついに言ってしまった。

「マユミちゃん、どうしてそんなに何にもできないんだよ!」

 自分でも驚くほど乱暴な声が出て、肩に担いでいたプーマのかばんが、畳の上にドスンと落ちた。言った後で、はっとした。マユミちゃんは僕と目を合わさず、再び視線をちゃぶ台の上に落とした。

 僕は気まずくなって、かばんをまた持ち上げ、襖を開けて奥の部屋に入っていった。母のことを思い出した。母がいたら、布団を敷いてくれたことだろう。父のことを思い出した。父はきれい好きだから、僕が家を留守にしても家の中を掃除していてくれるだろう。僕はプーマのかばんを枕にして畳の上に寝転び、夕方の薄闇に目を凝らして、古い家の黒光りする梁と、壁紙のめくれたところをじっと見つめた。堅い畳の上だったので、腰や背中が痛かった。だが、よほど疲れていたらしく、僕はいつの間にやら寝入ってしまった。

 ふと、マユミちゃんの声が聞こえた。「たっちゃん、スズヤで餃子買ってきたんだけど、食べる?」ほのかに、ごま油の香りも漂ってきた。しかし、僕は疲れのあまり立ち上がることもできなくなっていた。「たっちゃん、疲れたんだ?」

 僕は半分眠りにつきながら、次は餃子、しかも昔高い中華料理屋で食べた海老餃子を作れるようになろうと考えた。そうしたら、マユミちゃんにも食べさせてあげよう。


 今考えれば、僕たちがこうなった責任はすべて父にあった。マユミちゃんのことだって、誰か専門の人に相談すれば助けてもらえたかも知れないし、ならば母が家を出ることもなかったかも知れない。だが僕もマユミちゃんも、なぜか父は悪くないと思っていた。そして愚直に同じ屋根の下で暮らし、しかも必死でお互いうまくやっていこうとしていたのだ。

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