四、
小学四年生がもうすぐ終わりになる頃、母が家を出た。その前の晩、「そのうち、迎えに来てあげるから」とだけ僕に告げて。両親は目を合わせるのを避けていた。父は「これから家事の分担が大変だな」としか言わなかった。その頃仕事があまりなかった父は、食事は作ってくれたが、それまで母がやっていたマロのトイレの世話は、僕がやらなければならないことになった。猫は撫でるだけなら可愛いが、うんこは臭い。僕の苦労を知ってか知らずか、マロは今までよりよく僕にすりついてくるようになった。一番懐いていた母がいなくなって寂しかったせいかも知れないけど。
五年生の新学期が始まった頃、父が唐突なことを言い出した。
「お前、あの家でマユミちゃんと一緒に暮らすか。」
僕はその時それどころではなく、下を向いたままスコップを持って猫の砂を掬っていた。しゃがんでいると後ろからマロが僕のお尻に顔をこすり付けてくるので、くすぐったくて前のめりになりそうだった。
うんこを袋に入れ終わり、ようやく父の本気度を確かめようと顔を上げると、真剣な眼差しがそこにあった。僕は気圧されて、うんこを袋ごと、危うく足の上に落としそうになった。
「本当?」
「ああ、本当だ。」
「なら、学校どうするの。」
僕は早速、これからの生活を考え始めた。
「バスに乗れば通えるだろう。定期券を買ってやる。」
僕はそれで、何だかよくわからないが面白そうだと思った。大人になったらバスや電車に毎日乗るなんて時間の無駄にしか思えなくなったが、十歳の僕にはカッコよく思えたのだ。
「ねえ、あの近所ってホタルが来る流れがあるよね。」
「ああ、佑樹と一緒に見に行けばいい。」
僕はこれからの生活に何らかの希望を見出そうとした。中学受験で勉強が忙しくなると言っていた佑樹が、夏のホタル狩りについて来てくれるかはわからなかったが。
「お前、しっかりするんだぞ。」
その言葉は、甘い葡萄の実を舌で絡め取った後に残る渋い種に似ていた。僕はマロの背中の冬毛を抜いてやり、他に返事のしようもないので「わかった」と答えた。トイレの世話は面倒だが、大人しく僕に背中を向けてくるマロはやはり可愛い。こいつは連れていけないんだろうか?
その時リビングの電話が鳴り出した。「
僕がうんこの入った袋を持ってベランダのごみ箱の方へ行こうとすると、マロが「ニャー」と呼び止めた。振り返ると父がコードレスの受話器を持って自分の仕事部屋へ歩いていくのが見えた。「ええ、ですから……」電話の相手は僕に聞かせたくない、きっと弁護士さんか誰かだろう。
ごみ箱の蓋を開けて中に袋を放り込むと、マロは僕の足元でゴロゴロ転がった。花が散ったばかりの桜の細い枝がベランダの中まで入ってきて、まるで若緑の腕を差し伸べてくれているかのようだ。
のどかな日だったと記憶している。いよいよ家族が離れ離れになる。僕は、葡萄を噛まずに呑み込むみたいに、その事実をどうにかして味わわないようにしてした。
父がこの家から僕を出した本当の理由、それはこの家でこれから弁護士さんと話し合ったり、母が荷物を引き取りに来たり、ともかく子供の僕に見せたくないことがたくさんあるからだった。でも、父が言わないでいてくれたお陰で、僕は大人になるまでそのことに気が付かずに済んだ。
マユミちゃんと一緒に住むことを告げた翌日、父は早速プーマのボストンバッグを買ってきて、僕に荷物をまとめるように言った。僕は欲しかったプーマを、今年の林間学校に持っていけることを喜んだ。今まで使っていたのは近所の年上の子からもらったお下がりで、ロボットアニメのキャラクターがついていたから。まずそこに一番気に入っていた漫画を何冊か入れた。それから、当時流行っていたミニ四駆のレーサーズボックスも。広い納戸でミニ四駆を走らせても、マユミちゃんは母のようにうるさく言わないだろう。きっとこれからも楽しいことがいっぱいあるに違いない。
それから父は僕を学校の近くのバス停に連れて行って、これからの通学に使うバスの乗り方を教えてくれた。学校とマユミちゃんの家の近所を結ぶバスは一時間に三本ほどあった。父は「15時」と書かれている辺りを指差し、「学校が終わったら、この時間帯のバスに乗るんだぞ」と言った。僕はクラスメートに校庭のドッジボールに誘われて「いや、もうバスが来るから」と言う自分を想像してみた。今にして思えば何がと思うのだが、十歳の少年にはそれがたまらなくカッコいい台詞に思えた。
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