五、

 いよいよマユミちゃんの家に引っ越す当日となった。僕は教えてもらったバスに乗るのかなと思っていたが、なんとマユミちゃん本人が車を運転して迎えに来てくれた。父と一緒に荷物を積み込み、車に乗り込む段になって、父が帰ろうとするので、僕は「父さんは来ないの」と聞いた。父はへっと笑って、「もう乗れないだろうが」と言った。確かに、小さな赤い軽自動車の後部座席は、僕のランドセルやらプーマやら服やらでいっぱいになっていた。

 僕は隣の運転席に座るマユミちゃんの横顔を見て急に心細さに襲われ、「父さん……」とつぶやくと、父は「マロに餌やりに戻らなきゃ」と言った。それで僕はまたマロが恋しくなった。トイレの世話をするようになってから、僕は以前にもましてマロに情が湧いていたのだ。

 そんな僕の横でマユミちゃんはというと、緊張した面持ちでハンドルを握っていた。僕を迎え入れるために、わざわざ運転免許をとってくれたらしい。車は……今思えば、レンタカーか何かだったんだろうか?

 マユミちゃんの運転はひどかった。国道に出て、路肩をのろのろ走行していたので、僕は後ろから来る車にクラクションを鳴らされないかハラハラしっぱなしだった。途中で未舗装の農道を行くと近道なのだが、その中に用水路にかかる小さな橋がある。初夏になるとホタルが飛ぶ用水路で、その時は目の前に紅色の蓮華の花の美しい絨毯が広がっていたが、僕は欄干のない橋から車が落ちるのではないかという心配でそれどころではなかった。歩いていく時はひとっ飛びで渡る、全長三メートルぐらいしかない橋を、途中で止まり、ハンドルの向きを変えながらゆうに五分はかけて渡った。家まであと五百メートルほど。その距離がとてつもなく長く感じられた。

 以前は畑だったという家の前の空き地に車を停めた頃には、二人ともへとへとになっていた。だがマユミちゃんは僕を励まそうとしたのだろうか、玄関の鍵を開けるのも忘れて顔を上げ、「たっちゃん、明日から朝ごはん作ってあげる!」と叫んだ。

「……え、でもマユミちゃん、工場で働いているんじゃなかったの、朝四時からって……」

 僕の言葉にマユミちゃんは表情をちょっと曇らせ、「首になった」と気まずそうに言い、「あたし、バカだから仕事できないのかも」と子供の僕に真面目な顔で言った。僕が返事に困っていると、マユミちゃんは気を取り直し、明るく「たっちゃん、大丈夫よ、お金はたっちゃんのお父さんがくれるから」と言った。

 僕はぎくりとした。僕の両親はそのせいであれほど喧嘩をしていたのだが、マユミちゃんはそれを知らないのか、あるいは理解できないのかのどちらかであるらしい。

 僕はともかく、目の前のこと――荷物の積み下ろし――に集中しようとした。そこでマユミちゃんに玄関の鍵を開けさせて、荷物を一つ一つ部屋の中に運ぶのを手伝ってもらった。こっちを持ってとか、そこに置いてとか、指示をわかってもらうのは大変で、全部終えた頃には夕方になっていた。


 荷物を部屋に運びながら、僕は腹が減ってきた。マユミちゃんはというと、僕の片付けがまだ終わっていないのに心ここにあらずという表情で、まるで宣言するかのように「今夜はお寿司!」と叫んだ。見ると、ちゃぶ台の上に茶封筒があって、中に五千円札が入っていた。これも父が置いていったお金だったと思う。やがて寿司が出前で運ばれてきたが、辛いものが好きなマユミちゃんがたくさん入れてもらったわさびを、僕は涙を流しながら箸でつまんで剥がした。マユミちゃんは食べ終わると塗りの重箱をまとめるのも忘れて寝てしまったので、数時間後に回収に来た店員に僕が返した(まだ使い捨て容器が一般化する前だった)。

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