二、

 僕たちはその人を、「マユミちゃん」と呼んでいた。僕の父は三兄妹で、一番上が僕の父、二歳下の佑樹の母のカスミ叔母さん、そしてさらに十四歳(父から見ると十六歳)も下にいたのがマユミちゃんだった。僕、それに佑樹とも十四歳しか歳が違わないので、叔母さんではなく名前で呼ばれていたというわけだ。

 ということは、僕たちが生まれた時、まだ中学生だったのだろうし、自分の母親、つまり僕たちの祖母をまだ十代で亡くしたことになる。だが僕にとって当時のことは、たった一枚手元に残されたあの写真を除いて、想像に任せるしかない。とにかく僕たちが物心ついた時には、祖母の残してくれた古い木造家屋に一人で住んでいたのがマユミちゃんだった。木の壁に木サッシの窓、そしてそこによくガタピシいう窓ガラスがはまっており、玄関は引き戸で、開けるとコンクリートの土間と板張りの上がり框があり、曇りガラスの扉を開けると畳の居間に続いている、そんな家だ。僕の祖母が亡くなって、この家は僕の父に相続された。一人で住むのには広すぎる家にマユミちゃんを住まわせていた父は、一回りと四歳も歳の離れた妹をめっぽう甘やかしていた。

 僕がまだ幼かった時分、父はよく僕を連れて、マユミちゃんのもとを訪れていた。家に着くとだいたいいつも、僕を上がり框に座らせた。それから「これで遊んで待っていなさい」と当時流行っていた電池式のゲーム機を渡して、自分はしばらく中でマユミちゃんと話をするのだ。

 ある時、僕は上がり框が高くて、自分の足がブラブラするのが面白く、ゲームに飽きるとそこから跳び下りて遊んだ。そして、退屈しのぎに居間に続く曇りガラス戸を少し開けてみると、二人がちゃぶ台(そんな前時代的なものもあったのだ)を挟んで向かい合っており、父がマユミちゃんに何やら封筒を渡すのが見えた。後から考えればあれはお金だったと思う。室内はあちこちにスーパーのビニル袋やティッシュの箱、脱ぎ散らかした服や靴下などが散乱しており、父は何か言いながら、眉をひそめてそれらをどけていた。僕は中をもっとよく見ようとして、足下で何かをひっくり返した。それは飲みかけのオレンジジュースの瓶だった。瓶が割れてジュースが土間にこぼれ、僕はズボンの裾を汚してしまった。

 物音に驚いて出てきた父は、まず騒ぐなと僕を叱りつけた。マユミちゃんはちゃぶ台の上でぼうっとお金を見つめているだけだった。父はふうんとため息を一つつき、「どうしたんだ、この瓶は」と聞いた。

 ジュースでベタベタになったそのズボンをどうしたか、僕は覚えていない。帰りに父が新しいのを買ってくれたような気もする。それからマユミちゃんが「町内会のオバサン怖いの、燃えるゴミに瓶を出すな、って」と言っていたことも覚えている。

 その頃は僕たちが家へ帰っても、母はだいたいいなかった。家計を支えるためにパートを掛け持ちしていて、週末も家を空けていることが多かった。その母が夜になって疲れた顔をして帰ってくると、僕は父に言われた通り、「バッティングセンターに行ってきた」と嘘をついた。その時々の流行によって、バッティングセンターがジャスコになったり、駅前にできた映画館になったりした。母はその時はただ「ふうん」と言っていたが、僕が寝た後にこう言っているんだろう。

「そんなあげられるほどのお金、うちにもないでしょう」って。

 僕が育ったのはそんな家だ。


 好きだった女の子に言われたことがある。「辰起君ってね、とっても優しいけど、本当は優しくないよね」。

 僕が小学校に上がった年に、母が猫を拾ってきた。真っ白い猫で、両目の上にだけ丸い、眉毛のような模様があり、平安貴族みたいなので、マロと名付けた。

 マロは箪笥と壁の間に挟まっているのが好きな猫だった。物音一つ立てずに挟まっていて、何かのはずみで僕と目が合ったりした。僕が寝てから、父と母がお金のことで喧嘩をしていると、ふすまの細い隙間から、僕の寝ている和室にそうっと入ってきた。そして、暗闇の中で目を光らせて、父と母のいる方にじっと耳をそばだてているのだ。

 父は一度、「こいつは猫の星からやって来たスパイかも知れないな」と言った。「人間の生活を毎日観察して、星の本部に報告しているんだ。」

 僕の考えは少し違っていた。マロは飼い猫としての自衛本能から、自分の生存を左右する人間の様子を伺っているのだ。僕が心細くなって手を伸ばすと、時々撫でさせてくれることはあったけれど。

 僕は今までいろいろな人から、優しいと言われたことがある。でも本当はあの時のマロみたいに、理由や原因や結果はともあれ、自分が生きていくために何事もないことをただ願って「優しさ」をまとっているだけ――彼女はそれを見抜いたのだろう。

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