さよならマユミちゃん

高梓文(コウシフミ)

一、

 僕の手元に一枚の写真がある。赤ん坊――生後七ヶ月ぐらいだろうか――の僕を抱いた、十代の女の子の写真。女の子はセーター姿で嬉しそうに僕を抱いているが、抱かれている方の僕は不自然に体を斜めに伸ばしている。これは体が逃げようとしている証拠だ。可愛がられているのに、僕は戸惑っていた。


 今日、妻のお母さんが娘の面倒を見に来てくれたので、久しぶりの息抜きとして僕は車を走らせ、いとこの佑樹ゆうきと居酒屋で落ち合った。と言っても僕はまったく酒が飲めないので、へべれけになった佑樹の相手をするだけなのだが。

 佑樹はしばらく見ないうちに少し痩せたようだった。そして、髭も伸ばしていささかワイルドな雰囲気を醸し出していた。

「まだ信じられないな、あんな家がシェアハウスになるなんて。」

 突き出しを箸でつつきながら、僕は思わず思っていたことを漏らしてしまった。

「何言ってんだ、もう最初の入居者と契約したんだぞ。ほら、あの近所に最近大学ができただろう、そこの学生でな。」

 佑樹は「となると、靴箱ももっと若者受けを考えたいところだな」と独りごちながら、スマホの画面をスクロールしている。やる気満々である。

 送ってもらった写真を見ながら僕が「なかなか頑張ってきれいにしたんだな」と言うと、佑樹は上機嫌で枝豆を口の中に弾き飛ばした。

「リフォームの業者に見てもらったら、昔の家だから造りはいいんだってよ。片付けも、俺が暇にあかして自分でやったし、業者にも頼んだんだ、嫁のブランド品を売って作った金でな。」

 そして「おっ、そうだ」と、指をおしぼりで拭き、カバンから小さな紙切れを取り出した。

「こんなの、見つけたから一応。」

 コンビニで売っているようなピンクのポチ袋に、太い鉛筆の、直線を無理やり折り曲げたような字で「たっちゃん へ」と書いてあった。紙の色あせ具合からして、相当古い。だが、折り目のわずかな膨らみが、折りたたまれたお札が一度は入っていたことを示していた。口はピカチュウのシールでふさがれていたが、ご丁寧に開封されて、中身は何もない。

「『ゆうきくんへ』って、俺のもあったけど、そっちも空だったわ。」

「誰かが使ったんじゃないの。」

 すると佑樹はビールの泡を舐めながら、こっちを睨んだ。だがすぐに、

「あいつかな。」

「あいつ、な。」

 僕たちはどちらからともなく笑い、僕は運ばれてきた刺し身を、佑樹はビールをもう一口口に入れた。言わなくても二人とも、誰のことかはわかっている。僕はジュースの、佑樹はビールのグラスを持ち上げ、乾杯をした。幼馴染のいとこ同士、以心伝心の和気あいあいとした空気。


 その人を思い出す時、僕の心の中では雨が降っている。それも憂鬱な鉛色の空から落ちてくる、暖かい雨だ。今年の秋は明るい爽やかな晴天にはなかなか恵まれず、気温も高いままで、ちょうどそんな空模様が続いている。靴底からいつの間にか染み込んできて、靴下をじっとりと濡らす雨。僕にとってそんな存在だったあの人を、何度も思い出してしまうのは天気のせいかも知れない。

 会計を終えて店の外に出ると、むっとした埃臭い風が吹いてきて、国道沿いの商業施設や住宅の明かりに照らされた、どんよりとした夜空が見えた。また一雨来るのだろう。僕はジョッキを三杯も空けて酔っ払った佑樹を居候先の友達の家に送り届け、この地区で唯一十時まで営業しているドラッグストアに車を飛ばした。近頃雨でなかなか外出できない妻の代わりに、買い物をしていかなければ。切れかかっていた娘用の紙おむつと、妻の夜食用の粉末スープ。「おっぱいをあげるから夜でもお腹が空く」と言っていたっけ。

 レジで財布からカードを取り出す際、ポケットからさっきもらった『たっちゃん へ』の袋がちらりとのぞいた。その人の存在はこのポチ袋にも似ている。僕の記憶のどこかにいて、何かの折に顔を出す。

 エコバッグに紙おむつと粉末スープのパッケージを詰め込むと、僕は店の入り口にある時計を見やった。10時5分前。閉店時間にはギリギリ間に合ったが、この調子だと帰宅は遅くなりそうだ。そう思って慌てて自動ドアをくぐると、ポトリ、と風に吹かれた雨粒が手に落ちてきた。涙のように暖かい雨。

 その瞬間、僕の足元から、不思議な熱い力がこみ上げてきた。僕は動くこともできずに、しばらくその場で立ち尽くした。

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