第838話 驚きの吸引力。なお吸ったものは回収できません

 機械の多くは時代が進むほど大した講習を受けずとも誰でも扱えるよう、ストレスフリー・メンテナンスフリーに設計されていく事が多い。そうした万人仕様が世間に普及していく一方で、プロ仕様もまた現場の最前線で残っていくのである。


 ロッカーから見つけた『宇宙服』はここの貸与品らしい。過去に誰かが蹴りでもしたのか、思い切りひしゃげたロッカーから覗いていたのを引っ張り出してみた。


 保管場所が壊れていたせいか見るからに劣化しているようで、残念ながらコレ自体は使えそうにない。


 しかし他の無事なロッカーがまだ無数にある。手当たり次第に開けていけば状態の良い物のひとつくらいあるだろう。


〔いかがでしょう? 支給しているのは我がコミュニティが誇る最新の宇宙服です。そちらはさすがに廃棄すべき状態ですね〕


  全体にふっくらしている以外はほとんどツナギと変わらない作り。ここの従業員が使っていたのは万人向けに進化したものなのだろう。


 さらに壁には『バカでも分かるように』と言わんばかりに着用手順を図解したものがペイントされている。AEDの手順みたいな感じ。


 文字が読めない人間にも配慮しているのだろうか? 近未来なら発達した翻訳機械や公用語といった物でなんとでもなると思ったら、どうしてそううまくいかないらしい。


 国家・民族・団体・個人の思想といった変なイデオロギーでも邪魔したのかね? 便利だからと使う人ばかりではないのは今も昔もよくあることだし、時には国単位でカルト社会みたいな訳が分からない思想に染まるのが人間だしなぁ。


 ――――『現物の確認』と称していくつかのロッカーを『管理者』に開けてもらい、使用に耐える物を見繕う。素人目だからなんのアテにもならないが。


 でも正直助かったよ、キューブでロッカーの錠前を破壊なんてしたらもう言い訳ができないからね。出来れば宇宙服を着用するまでは『トレーダー』でいなければならないのだ。


 可能な限りビックサイズを選択して服を脱がずに着る。


 当然として『管理者』からサイズの大きさをや元の服を着たままな事への指摘を受けたが、どうせ試着なので地肌では着ないと押し通す。


 それにしても万人向けというのは本当にありがたい。


 首尾よく宇宙服が手に入っても『着れる』かどうかは別問題だったし。


 屏風覗きのいた時代の宇宙服はまだまだひとりで着るのは困難な代物だったはず。それ以前にまず着る手順でさえ素人には理解しがたいものだろう。なにせ真空の世界で使う代物だ、ただの洋服のように足を通せばいいというものではない。


 何かの話で聞いたことだが、海外で本格的な防毒マスクを購入した人がそのマスクを被って窒息死したケースがある。その人物は正しい知識も訓練も無しでいきなりマスクを付けた結果、呼吸することも脱ぐ事も出来ずに死んだという。


 プロ仕様というのはそういうものだ。最初から玄人が使う前提設計だから素人相手のポカは想定していない。そんなものを想定するより性能を上げるのがプロフェッショナル仕様というものである。


 いやまあ、ブッカブッカで動き辛いけどね。着物を着たままでさらに着ぐるみを着たようなものだ。たまにあるビックサイズ専門のお店で見た特大のシャツを着たみたいな気分だよ。


 もちろんこれは宇宙服であってシャツのような軽やかなものじゃない。想定していたよりはずっと軽いけど、これで何キロも宇宙を行けは普通に拷問だなぁ。


 あとトイレに行っておけばよかった。事が済むまで脱げないんだった。服ごと着たからオムツパックも意味ないわ。


〔トレーダー。我々にとって食料の確保が最優先です。しかしこのように各種装備などの本格的な補給が本星から届くまで、あなたの持つ代替商品で補う提案も受け付けています〕


 こちらがどんな思惑かを知らずに商売の話を続ける『管理者』――――どうかもう少しだけ騙されていてほしい。


 せめて久々に稼働したボンベに酸素の補給が終わるまで。残量は左手についているペラペラの液晶みたいな画面でメモリとして確認できるようだ。二酸化炭素はフィルターで除去する仕組みかな。


 ひとメモリで1800秒。それが6本だから基本は3時間分になる。こういうメーターが上がっていくのを待つのはジリジリするなぁ。


 スキューバの酸素ボンベはサイズにもよるけどひとつで1時間だっけ? もちろん呼吸を荒くすれば予定よりずっと早まるだろう。


 その宇宙服の左腕に付け直したスマホっぽいものケースの締りを確認する。ゴワゴワの手袋の上からスマホっぽいものが反応するかと心配だったが、はっきりとした意志の上で触ればちゃんと動くようだ。どんな方式でタッチを認識してるんだろう?


 しかし用途にあわせた紐の的確な縛り方を色々な妖怪に習っておいてよかったよ。『相手に教わる』というのは会話を続けるテクニックのひとつでもあるので、何かと聞いていたんだよね。


 でも実際に幽世での江戸的な生活で役に立つんだコレが。


 幽世に来る前はタコ結び・縦結び・蝶結びしか出来なかったので、何かというと知り合いたちに残念な目をされたのは軽くトラウマである。実生活で『○○結びくらい知らんのか?』みたいな目が屏風これを何度さいなんだ事か。


 カプセルの乗り込み場所は更衣室の横にあるエアロックを抜けた先になる。そこから伸びるガイドラインによって偏向器までストレートに繋がっているらしい。

 

 それはグネグネ曲がるほうがおかしいもんね。線路だって可能ならまっすぐ敷く。電車が曲がりくねるのは土地の都合だ。宇宙空間ならいくらまっすぐ伸ばしても誰にも咎められまい。


 ヘルメットは宇宙服と一体型。イラストに従って酸素供給を始めた後、頭にカポリとはめれば首元の隙間が自動で端を引き込んで埋まってくれる。昔見たSFアニメようにお手軽だ。


 あれは確か有名なロボットアニメの続編だったっけ。ナイーブな主人公の着る白いスマートな宇宙服と違って、肉襦袢の親玉みたいな体系だから全然カッコよくないが。ここが空ならムササビみたいにビラビラを広げて滑空できそうだもの。


〔ではこれで見学を終了します。お疲れさまでした、トレーダー。取引所に戻ってください〕


 ここで急に『管理者』が約束を反故にするような事を言い出した。カプセルの見学が終わっていないというのに戻れとは。


〔あなたはゲストであり、権利外の場所への移動・活動はすべて有償です。そして残念ながらあなたの口座にはここから戻るだけの3epbnmは残ってません。よってこれ以上の活動を制限します〕


 端金ではここまでってか。しかも帰りの切符代も無いと来た。それなら残高の枯渇前に警告のひとつも欲しいものである。


 無料制限より質が悪い。テーマパークでずっと並んでいたのに、いざ乗れるという段階にきてから別料金と言われた気分だよ。


 逆らうと制圧するぞと言わんばかり。まああの辺はそういうお国柄だよね。別にあっちら辺でなくても危険な場所に民間人がいたらこんなものだろうけど。 


 せっかくここまで来たのだからカプセルを見たいと粘ったが、『管理者』はさっさと宇宙服を脱いで部屋に戻り今後の取引の話をしろの一点張り。


〔トレーダー。我々はもっと有意義な取引が出来るはずです。賢明な判断を期待します〕


 ――――どうやら『商人トレーダー』を演じていられるのはここまでのようだ。


 イラストにあった通りに腰にある短いフックワイヤーを壁のバーにかける。


 これはいわゆる安全帯。工事現場なんかで見られる転落防止用の命綱と同じもの。


〔警告。有償エリアでの退去時間を超過しました。口座から引き落とせる3epbnmは残っていません。あなたは有償エリアに不法に侵入しています〕


 どうも移動はおろかその場にいるだけでも対価が必要だったらしい。そういえば創作で宇宙コロニーだと空気にも税金が掛かるとかのセリフがあったなぁ。


 そこで息をしているだけで国からお金を請求される世界とは、こんなにも殺伐とした冷えた気分になるのか。


〔現時点をもってあなたのすべての資産は5z.504wto@esogpd法に基づき差し押さえられます〕


 こんな怪しいやつにコロニーの見学を許したのはそういうことか。高価なサービスをそれとは知らせず使わせて、気付けば大金が吐き出されているわけだ。


 無知な人間を陥れる手口は創造主の人間にプログラムされたからかね? まるで騙し討ちのような方法。ぼったくりバーかよ。


 ――――いや、カルト集団か。人を攫って資産を奪い、あまつさえ強引に組織に組み込むような。


 この手の団体がよくやっててる事だ。浄銭とか言ってね。


〔偉大なるコミュニティのへの貢献はクルーの義務です。これよりあなたは共同体の一員として精力的に活動にあたってください〕


 宇宙服、よし。酸素、よし。安全帯、よし。


 キューブでエアロックらしき場所をザクザクと切っていく。


 いくつかを分断してキューブを消した瞬間、強烈な吸引を感じて室内が竜巻のように荒れ狂った。


 すべてがエアロックの向こうに吸い出されていく。見えていなかったゴミやチリが問答無用で次々に。


 掃除機に遭遇したダニになったらこんな気分だろうか。


 即座に警報が鳴ってオレンジの室内灯に切り替わると隔壁らしいものが下りてくる。だがそれも途中に出したキューブによって阻まれて、世界を隔てる壁は完全に閉じることはなかった。


 やがて室内の気圧が外と同じになると自然に吸引は収まる。さらにこの区画の電力的な物が停止したのか、それまであった重力も消え去っていた。


 ――――カプセルのある場所はもう宇宙と同じ環境らしい。では行こう。後は伸びているというラインに沿ってまっすぐ進めばいい。


 どこかでしくじって宇宙の彼方に投げ出されぬように、慎重に。


 制限時間は3時間を切った。もう後戻りはできない。



<実績解除 スペースランナウェイ 3000ポイント>

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