第503話 白いブラックコーヒー(極深煎り)
本日はお早いお帰りを。そう念を押して秋雨氏は離れに戻っていった。
着替えの代わりに渡した洗濯物を見る目が何気に鋭くて怖かった。まるで狩猟に滾る犬のようである。血痕とかすごく落ちにくいし、これは洗うの大変だぞと頭を抱えていたのだろう。無理に汚れを落とさなくていいからね。
体がすっきりしたおかげでだいぶ頭も回るようになった。食後に飲んだ痛み止めもぼちぼち効いてきた。やはり現代人はお薬漬けの生活から逃げられないなぁ。
その後に控えていたリリ様らの診断は、診察というより分析・研究のような印象だった。少しだけ古めだが現代に近い医療技術で行われた治療は、東洋の薬学が専門の白頭巾たちには興味深いものがあったらしい。
筆を使って施術後のスケッチを取るニャンコたちがかわいい。その後は包帯を新しいものに変えてもらった。
診断の結果として、左手の爪は小指と薬指は根元から完全に無いためもう生えないかもしれないと言われた。
爪というのは根元が残っていればそこからまた生えてくるが、完全に無くなってまうと再生しないことがあるらしい。
あくまで可能性です、生える可能性も十分ありますと慰めてくれたリリ様がお優しくて涙が出そう。
取れた爪があればそれを被せることで再生する可能性は高まるものの、取れてから時間が経っているのでさすがに厳しいだろうとのこと。残りの三本は雑な拷問が功を奏する形で残っているので、こっちは順調に行けば1年ほどで生え揃うらしい。
当面は化膿止め薬を塗りつつ様子見ということになった。
指の骨折については親指が問題で、繋がった後も以前のようには物を握れないかもと言われている。ただこちらもうまく骨接ぎがされているので、日常を送る分には障害というほどの不自由は無いはずだと元気づけてもらった。
最後に耳の裂傷は問題なく治るとの事。見た目に分かる傷は人相を変えてしまうから、そうならずに済みそうでホッとしている。
まあ日頃からぼんやりしていると言われる顔なので、いかつい強面に憧れなくもない。でも無理に怪我をしたいわけじゃないからね。
1年か、長い片手生活になりそうだ。
診断後はすぐ呪物の専門家と会うため別室へ。事前に面会の手筈が整えられていたようで待ち時間ゼロである。
呪いの品を扱うということで、勝手におどろおどろしい部屋を想像していたけど普通の畳敷のお部屋だった。
怪しげな色の煙を吹くろうそくや、何が書いてあるのかわからないお札、蛇がウネウネ入り込んでいるガイコツとかは見当たらない。むしろ
ああいった
「お待ちしておりました」
待っていたのは黒頭巾の猫。深煎りしたブラックコーヒーのようなイケメンボイス。
呪具の専門家とは――――みるく様の事だったのか。
初めて会った時と違い今は黒い頭巾を被るようになった彼は、『みるく』という名を御前に返上して名の無いひとりの頭巾猫として再出発している。
これまでの功績と実力によって昇り詰めた白ノ国での地位を失くしてしまった事件について、その原因の張本人がこうして対面するのは複雑な気分だ。
関係の改善を願いつつも、やはり面と向かって膝を突き合わせると何を口にしていいものかと言葉に詰まってしまう。
「白石殿に置かれましては、下界にて大功を挙げられたとか。まずはおめでとうございまする」
余所行きぃ。こちらから話を切り出せないでいる事を慮ってくれた面もあるんだろうけど、どうしようもなく言葉のイントネーションが余所行き過ぎる。
仕事だから口を利くけど本当はおまえと喋りたくないんだよ、という感情が彼の背後にオーラとして見えるようだ。辛い。まだまだ彼の心の踏ん切りには冷却期間を置く必要があるのだろう。
「おうガキ。口だけ整えとっても不愉快なだけやぞ。言いたい事があるならはっきり言わんかい」
同じく言葉に籠った気配に気付いたのか、診察後に合流したろくろちゃんからみるく様の慇懃無礼な物言いに文句が出た。
ちょっと酒臭い。たぶん朝まで飲んでたなこれ。二日酔いもあって機嫌が悪いのかもしれない。
実のところみるく様は妖怪たちの中では珍しい、
何気に100才ちょいほど行っているとばり殿より、実は年下だったりするから妖怪たちの外見年齢は信用できない。
妖怪の寿命からすれば100才でも若輩か。このおっかない化け傘ちゃんから
ちなみにとばり殿は洗身、つまり怪我人の体を洗う手伝いをしてくれたあとは謹慎の命を守って自室へと戻っていった。
去り際のものすごく何か言いたそうにしていた顔が忘れられない。もしかしたらしばらく自分が介添えをしてもいいと思ってくれていたのかもしれないな。
しかしこれ以上は立花様の温情も在庫切れと、上役のリミットを理解していたのだろう。さすが若手の出世頭だ。
そんなあの子は最後にちょっとした内緒話をしてくれた。
チョイチョイと手招きされたので腰を曲げて無事なほうの耳を近づけると『あまりしんどいようなら無理をするな』とボソリと言ってくれた。
さらに一度ゴクッと唾を飲み込むと、『役目が終わった後なら、牢の時みたいに部屋に直接来てもいいぞ』なんて甘やかすような事までも。
そして咳ばらいをしたとばり殿は顔を引き締め、『ではな』と今度こそ戻っていった。
とてもありがたい話だが、さすがに用も無くプライベート空間へお邪魔するのは申し訳ない。謹慎明けにでも折を見て、何か摘まめるものでも持ってお礼に行こうと思う。怒られてすぐ食べ歩きもマズイだろうしね。
――――そうして代わりにやってきたのがろくろちゃんと胴丸さん。いわゆる下界コンビである。さらに最近すっかりしおらしくなった矢盾もいた。
しゅーんとはしてるけど以前よりこっちを見る目から棘が取れたように思う。呼び捨てにされる事も完全に諦めたらしい。
開口一番に『おはようございます、白石様』と、様付けをつっかえることなく言えるくらいに。
拉致の件を受け、今後は幽世で外に出る場合は前に矢盾、後ろにろくろちゃん。そして鎧姿の胴丸さんを
不覚を取ってまた下界に連れ込まれても、これなら胴丸さんだけは付いて来てくれる形になるからだ。
付喪神である胴丸さんは、その特性から怪我をしている手をいちいち鎧に通さずも脱着できるので正直ありがたい。
包帯越しとはいえボロボロの着物を着替えるとき、うっかり手が引っかかったりして痛くてたまらなかったもの。
――――例によって横道に逸れていく思考の中、すぐさま返事をしないみるく様の態度を受けてにわかに背後の気配が剣呑なものに変わっていく。
どうやら今日のろくろちゃんは、朝からちょっと機嫌が悪いらしい。
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