本の皺

 父の部屋には壁一面を埋めるほどの大きさを持つガラス戸のついた書棚しょだながあって、まるで家の中に小さな図書館があるみたいだった。日焼けもしていない大量の本が整然と収められているさまはそれだけで美しく、幼い頃からそれを眺めているのが好きだった。

 中学生の頃。ようやく小難しい本も楽しめるようになった私は、父の書棚を眺めるだけでは満足できなくなっていた。学校からさっさと帰っては、家に誰も居ない間に父の書棚を物色する。埃一つ被っていない綺麗な本を取り出して、折り目など付けないように丁寧に読み進めては、家に誰かが帰ってくる気配がしたらすぐに棚に戻す。きっと父に一言伝えれば、堂々と貸してもらえたけど、自分がどんな本を読んでいるのか知られるのが妙に気恥ずかしくて、結局コソ泥みたいな真似をしながら本を読んでいた。

 ある日、父の書棚で本当に面白い本に出会った。感動を誘う文字列に眼球の裏側をがつんと叩かれて、つい涙を落としてしまった。落ちた涙は本に吸い込まれて、私を殴りつけた文字を歪める。しまった。そう思ったころにはもう遅い。濡れた本に生まれたしわは乾かそうとも元のようには戻らない。

 誤魔化さねば! この期に及んで正直に白状するのを嫌った私は、書棚に空いた本一冊分の隙間を周囲の本をずらして埋めることで応急処置をする。これで簡単にはばれないだろう。汚してしまった本を自分の机についた鍵付きの引き出しにしまってから急いで本屋に向かう。繁華街の大きな本屋まで出向き、なけなしの小遣いをはたいてなんとか同じ本を手に入れた。そして次の日、父の書棚にこれをしまって万事解決した。几帳面な父は気付いていたかもしれないが、わざわざ追及してくることもなかった。

 このときの本は大人になった今でも持っている。一番のお気に入りだ。日焼けした表紙を見ると昔のことを思い出して笑えてくる。でも、たまに読み返せば、皺の寄ったページでまた涙を流す。今度は汚さないようにと注意しながら。

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