薫子かおるこってさ。めっちゃかわいいよね」


 あの秋の日の朝。宇喜多さんの友達は、教室に入ってくると、窓ぎわの席でひとり過去問を解いていたぼくに、突然、そんなことを言ってきた。


「尾木野って国立に行くの?」


 坂江さんは、キャラクターのキーホルダーをぶらさげた黒色の鞄を机の上において、「薫子は芸大よね」と、わざとするため息のような口調で言った。


「うわ、机の下にカメムシいるじゃん……。尾木野、なんとかしてよ」


 ぼくは、青色のリュックのなかからポケットティッシュをとりだして、一枚引きぬいた。カメムシの上にティッシュをかぶせて、つまんでしまうと、窓を開けて外に逃がした。


「助かるー」


 友達なんてごく少なく、クラスの中心から周縁へと追いやられ続けているぼくを、坂江さんはからかっている。坂江さんは、ぼくが宇喜多さんのことを好きだということを知っているのだろう。


 だとしたら、ぼくのありあまる恋慕を――クラインの壺やメビウスの帯のように循環し、単色ながらドットのように散った、一言で表現できそうでできない感情を、宇喜多さんは知っているのかもしれない。


「くっさ」


 カメムシの抵抗の痕跡は、教室に充満していた。それは冷ややかな空気にしみこんで、かんたんには霧散してくれなかった。


「おっはよー」

「おはっす」


 一昨年まで女子校だったため、男子の数は極端に少ない。この3年4組には、五人しか男子がいない。しかし、女子とフランクに話すことができる男子は、四人もいる。ぼく以外だ。ぼくはこの教室において、そして広く学年において、八流以下の外交官でしかない。


 ぼくは、一番のりで教室にきて朝勉をしていた。宇喜多さんももちろん、アトリエに早くから顔を出しているのだろう。宇喜多さんは、なにを描き、なにを思い、なにに笑い、どのような未来を想像しているのだろうか。

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