第4話
仕事を休んで数日経っても体調が良くなることは一向になかった。
むしろ悪化している。
もはや昼夜は関係なく、眠くなると悪夢じみたイメージが襲ってくる。
決まって僕はあの地下室の記憶を見せられる。
ある時は硬いコンクリの床に僕と妹が寝転がっていた。
乱暴をして満足をすると、あいつは毎度地下牢の入り口から丁寧に妹を地面に置いた。鎖につながれた僕は妹に限界までにじり寄って声をかける。妹は僕に心配させまいと笑顔を作る。それがかえって痛ましかった。
ある時は暗い牢の中で中年男性が僕をタコ殴りにしていた。
あいつは食べ物を粗末に扱われることを異常なほど嫌う。残したり吐いたりすると決まって妹も僕も見境なく殴打した。おかげで僕は口に含んだ物は瞬時にかみ砕いて飲み込む癖がついてしまった。
ある時は妹が生きたまま腹を捌かれていた。
あいつの興味の対象は次第に性から暴力へと過激なほうへ移っていった。最終的には手術用メスで妹の腹を掻っ捌いた。腸やらなにやらを取り出されて、どす黒い血が大量に流れて、こと切れていく妹をただ見ていた。
ある時は僕の口にあいつの陰茎が突っ込まれていた。
妹が死んですぐに今度は僕を玩具扱いする。奉仕の精神を学ばせてやるとか意味の分からないことを言って、ピンとそそり立つそれを僕に近づけた。手枷と足枷の鎖は外されていて、チャンスだと思った。従順にそれを口に含んで、口の中一杯になったところで、僕は自分の顎を思い切り殴ってそれを噛んだ。硬い筋に歯が通る確かな感触があった。僕はそのまま反動をつけて引っ張って嚙み千切った。中年男性は大した悲鳴もあげずに死んだ。
+++
眠れないし、眠気が怖い。
意識が落ちる間際に決まってあのイメージを見せつけられる。
時系列は決まっておらず、陰茎を嚙み千切って殺した次の夢であいつはまた出てくる。
夢の中のあいつは何度死のうが、平然と現れて妹を犯して壊した。
何度も何度も眠くなる度に繰り返し脳裏にフラッシュバックする。
眠れないことと悪夢を見ることの二重苦で気が狂いそうになる。
いや既に兆候は現れていて、気づいたら父親に嚙みついていたことがある。
医者から貰う薬も強いものに変えてもらうが効果はない。
今後も家族に迷惑をかけ続けるのなら隔離施設に入ろう。
そんなことを考えていたら、知らない場所で突っ伏していた。
寝不足のせいか、意識が不意に途切れることが増えている。
その時もぬかりなく悪夢が付きまとう。
今は住宅街の道路で倒れていて、自分がなぜここにいるのかさえも不明だ。
やはりそろそろ潮時かと思ったところで、僕に声をかける人影があった。
「大丈夫ですか、しっかりしてください!」
見上げるとその人物には見覚えがある。
僕をゆすって呼びかけているのは、先日小指を僕に噛み千切られた若者だった。
僕は若者の手を借りて、近くの公園まで連れて行ってもらった。
+++
僕をベンチに座らせるなり「俺、飲み物買ってきます」とひとっ走りした若者がペットボトルを数本持って帰ってくる。
好きなやつ選んでくださいと言うので、僕はスポーツ飲料をもらう。
「いやあ、びっくりしましたよ。道路に人が倒れていると思ったらまさかあなただなんて」
「はあ……」
若者はこの前のメンチ切りとは一転した清々しい笑顔を見せてくる。
もしや兄弟かと疑うが、その右手には包帯が巻かれており、小指は欠損している。
「あの、先日は申し訳ありませんでした」
「ん、これっすか? いえいえ、全然いいんですよ」
まるで犬に噛まれた程度にしか考えていない風に右手を振る。
「いやよくないでしょう、不起訴で賠償金も請求されないなんて」
「ははは、本当に大したことないと思ってるんですよ。難しいことはよく分からないですし」
そうハキハキ返す様子はあの夜に絡んできた人物とは別人にしか思えない。
一体どういう心境の変化だろうか。
「ここだけの話なんすけどね、俺、カタギじゃないんすよ」
「え……?」
「ここらじゃ有名な組に入ってて、多分あなたも知ってると思いますよ」
組の名前を教えてもらうと、言う通り知識のない僕でも知っているビックネームだった。勢力としては県をまたいで影響のある大規模な組織だ。
「ヤクザなんて小指失ってなんぼみたいなとこあるんで、ほんと気にしないでください」
なんぼではないと思うのだが、本人がそう言うのであれば食い下がることもできない。
「なんというか、僕はあなたみたいな人を誤解していました。やっぱり住む世界が違うだけあって度量が違いますね」
「お、そう言ってくれるのはとても嬉しいですね」
若者はそう言って、子供みたいにくしゃっと笑う。
こう見ると普通の青年にしか見えないのに。
「俺はね、器の大きい男になりたいんですよ。いつか組の
「叶うといいですね」
僕はこの若者のことはあまりよく知らないけど、本当にその願いが叶うといいなと思った。
若者は頷いて力強く立ち上がる。
「そのためには毎日を一生懸命生きなければいけないんです! どんなことがあっても挫けたり、諦めたりしてはいけない!」
小指が無いこぶしを握って力説する様は素直にかっこいい。
僕も一緒に立ち上がって「そうだそうだ」と言う。
「人生は生きてるだけで辛くて、死んだほうがマシに思える時もあるけど、幸せを求め続けることが大事なんです! だから諦めてはいけないんです!」
若者の言葉に僕は頷いて、差し出された手と握手をした。
睡眠不足も相まって高揚感が止まらない。
「そういう意味では俺はあなたを尊敬してるんですよ」
「え、僕ですか?」
急に話題を振られて驚く。
「申し訳ないのですが、あなたのことを調べさせてもらったんです。数年前の拉致監禁事件のことを……」
「ああ、そうでしたか」
「調べるうちに怒りが湧いてきましたよ。そりゃあ俺も真っ当な人間ではないですが、あれは人間のすることじゃない」
若者は思い出して義憤に駆られるように顔を険しくして続ける。
「あんな環境で1年以上過ごして、妹さんも亡くして、それでもしっかりと生き続けているあなたを俺は尊敬します」
「はは、どうも……」
そんなに熱烈に褒められると少し照れてしまう。
「俺も見習なければいけないと思います。器の大きい男になるために、俺はあなたのようになりたい。あなたは本当に凄い人ですよ。あんな辛いことがあって、妹さんのことも悲しくて、生きてるだけでも大変だろうに――
――妹さんと誘拐犯の間に出来た子供を育てるなんて」
+++
混じりけなしの敬意を込めて褒め称える言葉を若者は言い連ねていたが、僕の耳にはもう届いていなかった。
子供とはユメのことだろう。それは分かる。
でも、妹と誘拐犯の間に出来た子供?
いやいや、何を言っているんだ。
ユメは僕とアカリの間に生まれた子供じゃないか。
なにを馬鹿なことをと否定しようにも、違和感が邪魔をして上手く口を開けない。
若者は妹と誘拐犯の間に出来た子供だと言った。
あの異常者は妹を犯す時に避妊をしていただろうか?
あの異常者はなぜ事が済んだ後に妹を丁寧に地面に置いたのだろうか?
あの異常者はなぜ妹を生きたままメスで腹を開いたんだろうか?
あの異常者は妹の腹からなにを取り出した?
「あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝!!!」
僕は若者を殴り倒し、そのまま地面を駆ける。
心臓がねじれるように鼓動して、臓物がひっくり返るような気持ち悪さに襲われる。
僕は家に向かって走っている。
アカリと話をしなければ。話して確かめなければ。
アカリ、そうだ、アカリだ。
アカリと僕はいつ出会ったんだろうか?
アカリと僕は結婚していただろうか?
アカリが出産したところを見ただろうか?
アカリが子育てをしているところを見ただろうか?
僕の記憶は曖昧で、本来あるはずの記憶がまるで像を結ばない。
頭の中では不鮮明で不細工なモザイクアートみたいなイメージしか浮かばない。
アカリ、アカリ、アカリ、アカリ。
僕は縋るように名前を呼びながら、自宅の扉を開く。
「アカリ!!」
玄関で呼び掛けるも返事はない。
かつてない焦燥感に囚われながら家の中を駆けずり回る。
リビング、自室、水面所、キッチン、トイレ、風呂場、物置を探したが姿はない。
和室を開くと父が感情を失ったかのような無表情で立っていた。
慌ててる僕とは対照的に、こちらをじっと見ている。
僕はまくし立てるように父に尋ねる。
「父さん! なあ、アカリがどこかを知らない? さっきからずっと見当たらないんだよ、今すぐ話したいことがあるのに。確認しなきゃいけないことがあるのに! いつもならおかえりって僕を迎えてくれるはずなのにさ! なあ、アカリがいないんだ、父さん、アカリが――」
父が僕の胸倉をつかんで、ひねりを加えて左頬を殴りつけた。
僕はなすがまま吹き飛ばされて、仏壇を巻き込んで倒れる。
「いい加減にしろ……」
父が僕を見下ろしている。
感情が無いように思えたのは見立て違いだ。
その瞳には憤怒が滾っていた。
「アカリはもう死んでるだろうが!!」
仏壇に供えていた花や線香が畳に散乱している。
そこにあったのは、アカリがこちらにむかってピースをしている遺影だった。
+++
僕は最初から知っていたんだ。
ユメは僕の子ではなくて、
アカリは誘拐犯に殺された妹で、もうこの世にいないことを。
+++
僕はまた地下室の夢を見ている。
ここでは外界の様子は見えず、ただ無機質なコンクリと電灯があるだけだ。
ろくに掃除をしないこの不衛生な環境では、何の液体かも分からない水たまりがあり、電灯を反射している像が朧月に見える。僕がそれを言うと、アカリは嫌そうな顔をしたが、他にやることもないのかその水面を眺めている。
不意にアカリが言った。
「私さ、お兄ちゃんのこと好きだよ」
「えっと、それはライクの方?」
「ラブの方」
「うわあ、まじか」
妹が僕のことを好きだなんて、全く知らなかった。僕だけが妹を好きなのだと思っていた。だから僕も「まあ僕もアカリのこと好きだよ」と言った。
「ライクの方?」
「ラブの方」
「ええ、本当に? 両思い? なにそれ、面白い。ちょっと気持ち悪いね」
「自分から言ったくせに。気持ち悪くはないでしょ」
「いや気持ち悪いでしょ。兄妹だよ?」
「確かに」
だからこそ僕もアカリも今日までお互いに言わなかったのだろうし、本当なら言うつもりもなかったのだ。
「まあでもいいよ、どうでも。世間体とかさ」
この際、気持ち悪くてもいいと思う。
アカリは「うん」と頷いて、膨れたお腹をさすりながら夢を見るように言う。
「……もし例えばさ、私のお腹の中にいる赤ちゃんがお兄ちゃんとの子供だったとして」
「うん」
「そして私とお兄ちゃんとこの子、あとはお母さんとお父さんが一緒に暮らしてさ」
「うん」
「そういう風に一緒に暮らせたら、とっても幸せだったと思わない?」
これが妹からの僕への最後の言葉となった。
僕がなにかを答える前に、あいつがやってきてアカリを連れて行ってしまったからだ。
手際よく拷問台のような金板にアカリを乗せて手枷足枷を器具に固定するところまではいつもと変わらない。
しかしその手には電灯を鈍く反射する医療用メスが握られていた。
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