第3話


 ここ1週間以上、全く眠れていない。

 吐き気と頭を駆け巡るイメージに苛まれていると気づいたら朝になっている。

 体調に支障をきたして家族全員に心配されたし、あまりに顔色が悪いので会社でも上長からも呼び出されて事情を訊かれた。全く眠れないのですと説明したところでどうしようもない。いきつけの精神科医に相談してみても改善しなかった。


 腹の内側から何かがうごめくような不快感を抱えながら受電業務をしていると、そんな時に限って温度感の高い顧客にあたってしまう。

 どうやら初期不良で洗濯機が動かないらしいが、興奮していて話を聞いてくれそうにない。

「どうするんだよこれよぉ˝!!」「ご迷惑をおかけして申し訳ありま」「謝罪はいいからどうするか聞いてんだあ˝ぁ˝!」「こちらで担当者を手配しますので確認後に」「今すぐ新品持って来いよボケがァ!」「申し訳ございませんが、規定でまずは確認を」「あ˝あ˝あ˝あ˝、るっせえぇてめぇらの都合なんて知らねえわ」

 怒声のボルテージが上がっていく。熱量に充てられて僕の頭も徐々に熱くなっていく。かつ、体調不良で頭に声が響いて吐き気がこみ上げてくる。普段なら対処できたはずだが、今の僕には余裕がない。

「お客様のご協力がないと今後の対応ができかねて」「あ”ぁ”てめいま対応できねえつったか!? てめえらのクソ製品のせいでこちとら損害被ってるん」「なのでそれを確認するためにご協力を」「あ˝あ˝あ˝それはもういいっつってんだ」「ではどうされますか」「だから新しい製品を寄越」「できません。お客様の申告が嘘の可能性も」「は――?」

 ああ、しまったと思ったが、もう遅い。

 受話口ではもはや意味をもった言葉の体を成していない奇声のような声が聞こえる。

 それを相槌ともつかない言葉で返す。自分がなにを話しているかもわからない。次第に熱くなった頭と体調の悪さが限界を超えて、僕はその場で嘔吐した。


 +++


 対応は上席が引き継いで、僕はゲロまみれになったデスク周辺を掃除した。

 多分もうこのキーボードは廃棄になるだろうなと思いながら水洗いした。一応耐水性能はあるらしいが、そういう問題ではない。

 もりもり吐いて少し気分は良くなったが、さて仕事するぞという訳にはいかず、早退することになった。


 帰宅すると母も父もユメもいなかった。

 唯一家で留守番をしていたアカリが早い帰宅に驚いた表情で迎えてくれる。事情を説明するともっと驚いて「え、じゃあ休んでたほうがいいんじゃない? え、今は体調良い? じゃあえとえとお風呂に入る!? なにか食べる!?」とてんやわんやしてるのが少し面白かった。

 風呂にゆったり浸かってから、うどんを食べた。

 しっかり歯を磨いてから、僕は眠ることにした。

 夜は眠れないが昼間なら寝られるかもしれない。

 心配してくれたアカリが一緒に布団に入って、手を握ってくれる。

「暑いかな? 手とか握らない方がいい?」

「いや温かくてちょうどいいよ。ありがとう」

 遠慮ではなく、手を通して感じる温もりが心地よかった。

 そのおかげかすぐに眠気がやってくる。

「なにか、話してて」

「お、ここぞとばかりに甘えてるな。撫でてあげよう、よーしよし」

「うん……」

「お仕事頑張ってて偉いね。毎日ちゃんと起きて、謝りたくもない相手に謝って、それでも笑顔を絶やさない。すごいことだよ」

「それは……アカリとユメがいるから……」

「うん、知ってるよ。つらいことも苦しいこともいっぱいあるのに、それでも私たちのために頑張ってくれてる。ありがとうね。大好きだよ」

「……僕も……」

 言い切る前に意識は穏やかに落ちていった。


 +++


 目を覚ますとすっかり夜が更けていた。

 皆寝ているかと思ってリビングに下りたら、母がソファに座って金曜ロードショーを見ていた。画面の中では連邦保安官の二人が謎の孤島に潜入捜査を行っている。

「あら、起きたの。なんか食べる?」

「いや、あまりお腹減ってないからいいや」

「今日のこと、あんたの上司から連絡あったんだけど」

「え、そうなんだ。なんて言ってた?」

「体調が優れないなら数日は休んでもいいって」

「そう、じゃあ明日からちょっと休もうかな」

「あんた、大丈夫なの?」

「平気平気、ちょっと寝不足だっただけだよ」

 そう言いながら麦茶をコップに注ぐ。テーブルを通る時、多角形に折られた黄色の折り紙が置かれていることに気づく。

「これは?」

「ああ、ユメが幼稚園で作ったみたい。あの子、最近折り紙に凝ってるんだって」

 僕はそれを手に取って、そのままベランダに出た。

 麦茶を片手に、黄色の多角形を空にかざす。

「『お月様』だってさ。よくできてるよね」

 背後から近づいてきて、そう声をかけてくるのは母ではなくアカリだった。

 腕を擦って「ちょっと冷えるね」と言いながら僕の隣に座る。

「そうだな、正確にぴっちり折っているところなんか芸術的と言っていい」

「親バカだなあ。その辺はほら、私譲りなんだよ」

「図工の成績は悪かったのに?」

「なんでそんなこと覚えてんのさ、ばか」

 拗ねるようにアカリが言う。

 僕は笑って、半分になった月を見上げる。

「あれ、月ってなんで落ちてこないんだっけ」

「地球とお互いに引き合ってるからでしょ?」

「ああ、万有引力だ。馬鹿みたいな話をするとさ、子供の頃、月の満ち欠けは実際に月が削れたり膨れたりしてると思ってたんだ」

「三日月はがりがりに削れて、満月は球状に膨んでるってこと?」

「そうそう。それがもし本当になったら、釣り合いが取れなくて落ちてくるのかな」

「どうかなあ、地球に落ちてくるのか、それともどっかにすっ飛んでいっちゃうのか」

 僕は改めて折り紙の月を半月に重ねる。

 もしどこかに行ってしまうのなら、この紙の月に挿げ替えてしまえばいい。

 それならいつでも安定して、僕らを照らしてくれるはずだから。

 きっとその月は本物と違って満ち足りかけたりしない。

 それは、とても綺麗な月なのだろうと思う。


 +++


 本来なら休日出勤の予定であったが、休みを取ったので僕はユメと遊びに行くことにした。近くの公園に行くだけだが、母も一緒に来るという。ならばせっかくなのでと父も誘ってみるが、案の定来ないと返事がある。妹の仏壇がある和室に籠って、こちらを振り向くこともしなかった。すっかり塞ぎ込んでしまって、ユメともあまり遊びたがらない。


 公園に行くとユメは嬉しくて仕方ないと言った風に遊具に飛びつく。僕がおどけて怪獣のふりをして追いかけるときゃははと笑う。

 しばらく追いかけっこをしていたが、僕の方がバテて休憩を余儀なくされる。

 ユメは遊び足りないのか「向こうで遊んでくるねー」と走っていく。

 様子を見ていた母が水が入ったペットボトルを渡してくれる。

「あんたもすっかりおじさんの仲間入り?」

「ひどいな。まだギリギリ20代前半だって」

 肩で息をしているこの体たらくでは説得力はなかった。


 +++


 やはり夜になると眠れない。

 正確には夢と現の狭間を行き来している感じだ。

 しかし決まって悪夢のようなイメージを強制的に見せられるので全く寝た気がしない。

 気づいたら見覚えがある地下室に僕がいる。手枷足枷が鎖につながれていて、粗雑にコッペパンが一つ置いてある。

 嵌め殺しの檻の向こうでは「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」と妹が叫んでいる。妹に枷がついていたが、それは鎖ではなく手術台のようなベットに固定されていた。服はまるで乱暴に引きちぎったみたいに無惨にはだけている。

 俯瞰のようにしてその光景を眺める僕は「ああ、最初の日だ」と思った。

 の僕は状況が分からず困惑するばかりだったが、今の僕はこの後なにが起きるか知っている。

 予想通り、僕らを連れ去った誘拐犯が現れた。ああ、そうだ。あいつは本当は妹だけを連れ去りたかったのだ。妹が目的だった。

 何がしたかったかなんて、そんなの分かり切っている。

 でっぷりと太った中年男性の下半身は露出していて、陰部は醜くそそり立っている。

 手術台に固定された妹の脚は強制的に開かれていて、下着は既に剝ぎ取られている。

 鈍感で愚かな過去の僕はこの時に至って事態を把握をようやく把握した。

 妹は泣いていて、やめろ!やめてくれ!!と今の僕も過去の僕も喚く。


 その直後の妹の張り裂けるような叫び声は、今後一生耳から離れることはないだろう。

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