第2話


 帰宅した翌日、僕は会社に出社した。

 最寄駅から徒歩10分。オフィス街から少し外れた区域にある、若干の真新しさを残すビル。エレベーターに乗って、4階で降りる。ここが僕の職場だ。

 有名家電メーカー、の下請けである電話相談室。電話口にて初期不良や故障についての相談を承り、場合によっては修理や回収の手配をする。しかしその実態は苦情対応が主である。メーカーに非がある場合もあるが、そうではないことがほとんどだ。

 ただし説明して道理が分かるのであれば苦労はしない。顧客側の過失を指摘しても大体向こうが燃え上がっていくだけなので、お茶を濁す態度で鎮火作業を行う。お客様のご期待に沿えなかったということですね、はい、はい、お客様のお気持ちはよく分かります、ええ、ええ、今後への貴重な意見とさせていただきます、はい、はい、誠にありがとうございました、という具合に。


 そんな仕事なので、新人さんが入っては辞めて、ベテランも気づいたらいないことがザラにあるが、僕はもうここに務め始めて三年になる。

 仕事の前に上長に傷害事件のこと謝ろうと思いながらロッカーから出ると、同じ時間帯の出勤する女性スタッフたちが休憩室で談笑していた。通りすがりに挨拶をすると、ぎょっとした顔をこちらに向けてきた。

 社内自販機の前に居た顔見知りの社員に話しかけてみるが、ここでもなんだかよそよそしい。

 なんだろうと思って休憩室の裏手からロッカーでの交わされる話を聞いてみると、

「ねえ、――が出勤してるって」「え、だって――じゃ?」「うん、――って噂でしょ」「総務の――見たんだって」「指を――なんて嘘だ~」「本当だって――」

 はっきりとは聞こえないが、どうやら僕のことを噂しているらしい。あの騒ぎの中に誰か僕を見ていた人がいたのだろう。

 傷害事件というショッキングな出来事を同じ会社に務める人物が起こしたのだ。噂をしないほうが無理なのだろう。

 このまま姿を見せるといらぬプレッシャーを与えそうだ。波風を立てたくはない。道具を取るためにはロッカーに寄る必要があるので、僕はそのまま話を聞いていた。

「前から思って――、いつも笑顔だけどなんか目が笑ってな――」「ちょっとやめなよ。――何考えてるかわかんないけどさ」「ぼんやりしてる人ほど――」「キレる若者ってやつ?」「じゃなくて――サイコパス的な」「それは言い過ぎでしょ――分かるけど」

 噂話に乗じて好き放題言う女性社員たち。めちゃくちゃ悪口言うじゃないですか。

 目が怖いって……具体的にどうすればいいんですかね。

 そんなことを考えているうちに話はエスカレートしていく

「そういえば高卒から入社したにしては年齢が合わなくない――」「彼、高校通ってなかったんでしょ――問題があったとか」「いやそれは仕方なくて――」「数年前に起きた拉致監禁――」「誘拐されたの――」「妹さんと――」「え、どういう――」「ちょっと、それはここでは――」「いいじゃん、教えてよ」「あんまり大っぴらには言えない――」「いいから、いいから――」「私の後輩から聞いた話なんだけどね――


 ――彼、妹さんと一緒に誘拐されて一年以上監禁されたんだって」


 僕は思い切り壁を蹴った。

 ガンと派手な音がして、空気が凍り付く。

 様子を覗いてみると、噂話をしていた女性社員たちは蜘蛛の子を散らすようにそれぞれ仕事場に向かっていた。

 これでようやく仕事道具を取りに行けると思ったところで、壁を見ると大きく凹んで石膏部分が露出していた。

 上長に謝ることが一つ増えてしまった。


 +++


 傷害事件なので下手をするとクビになるかもと思っていたが、不起訴のため特に処分はないとのことだった。しかし壁を壊した件についてはそうもいかなかった。うっかり足をぶつけてしまったと説明したが、反省と防止策についての始末書を書くことになり、弁償についての手続きも行うことになった。

 人の指を嚙み千切るより、壁を壊す方が罰が重いなんて変な話だと思うけれど、世の中そういうものなのだろう。


 そのあとは通常通り業務を行った。

 洗濯機でスマホごと洗濯した、電子レンジで卵を温めていたら破裂して部屋が汚れた、掃除機から腐ったネズミの死体がでてきた、エトセトラエトセトラ。

 僕は「はい」と「ええ」と「おっしゃる通りです」を乱用しながらいつも通り電話対応をする。

 定時まで働いた後、休憩室で始末書を書いて提出して退社した。


 21時頃に帰宅するとユメとアカリと母が迎えてくれた。

 父はこの時間にはもう既に就寝しており、健康優良児であるユメもすごく眠そうだった。

 僕が晩御飯を食べている間、ユメは眠気に抗いながら幼稚園であった今日の出来事を話してくれた。その様子を可愛らしく思いながら話を聞いていた。

 食べ終える頃にはユメは椅子に寄りかかって寝息を立てていた。

 頃合いを見て、アカリが「風邪引くからベットで寝ようねー」とユメの肩をゆする。

 その様子でさえもアカリ込みで可愛らしく思える。僕はつい顔を緩めたところで、今日の女性社員たちの噂話を思い出した。

「ねえ、アカリ。僕の笑顔って怖い?」

「え、なんで?」

「いやなんか目が笑ってないって言われてさ」

「あー……」

「心当たりある?」

「んん、目が笑ってないというか、細めた目が妙に迫力があるんだよね」

 なんかこんな感じで、と自分の目じりを横に引っ張って再現しようしているが、いまいちよく分からない。

「どうすればいいと思う?」

「笑う時に極力目を閉じたらいいんじゃない?」

「こう?」

 僕は笑顔を作った後、なるだけ目を閉じてみる。

 それを見たアカリは引きつった表情で「うわ、嘘くさい……」と言った。

 どうすればいいんだ……。


 +++


 クーラーを最大まで効かせているのに、暑くて寝付けない。

 僕は何度も何度も寝返りを打つ。頭を巡るのはあの噂話。

 言葉が頭を巡る。狭い箱の中で繰り返し反響しているみたいだ。

 ああ、それにしたって暑いなあ。身体はこんなに冷え切っているのに、喉からこみ上げてくる 吐き気が煮えたぎって眠れない。

 時間感覚が引き伸ばされて、意識は明徴で、心音と共に打ち寄せる波が僕を苛む。

 言葉がぐわんぐわんと頭の中を反響する。


『彼、妹さんと一緒に誘拐されて一年以上監禁されたんだって』

 ああ、そうですその通りです。そうなんですよ。

 高校二年生の夏、僕は頭のおかしい異常者に拉致されたんです。

 その時に中学生の妹が一緒に居たんですけどね、二人してまとめて地下室にぶち込まれたんですよ。

 今思えばあのデブで臭くて不快な中年男は本当は妹だけが狙いだったと思うんですが、僕が一緒にいたからついでに連れてきちゃったんでしょうね。

 地下室は本当に酷い場所でしたよ。奴隷みたいな手枷足枷が付けられるし、冗談みたいな鉄格子がはめ込まれいる。コンクリートばりで、掃除しないから虫がたくさん湧いていて、汚物が常に隅にある。まあ僕たちが出したものなんですけどね、はは。


 異常者は異常なので言ってることもやってることも理解できなかったですね。今でもあいつが何がしたかったのかはよく分からないですよ。でも金持ちの息子らしくて、辺りに何もない郊外に一軒家を与えられてそこで引きこもって暮らしていたらしいですよ。僕らはその地下に監禁されていたんですね。


 妹ですか? ええ、ええ、可愛い奴でしたよ。髪を肩くらいに揃えて、後ろでひとまとめにしているんです。お兄ちゃんお兄ちゃんって懐いてくれて、ふわふわ揺れてるのが可愛かったなあ。

 僕はね、ここだけの話、妹が好きだったんですよ。ライクじゃなくてラブのほうで。けど世間的に許されないし、それとは関係なく妹は生きたまま腹を捌かれて死んじゃいました。

 はは、腹を捌くなんて言うと魚みたいですね。でも死ぬときにぐりんと白目を剥いて、だらしなく舌を出してるところは別の生き物みたいで見てられなかったですね。ああ、あんなに可愛かったのになあ。


 まあもういいじゃないですか。

 いま僕はこうして生きていて、幸せをかみしめているんですから。

 あんな臭くて汚い、地下室のことなんて忘れて、生きていこうとしてるんですから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る