南柯の夢は月明かりの下
ぷにばら
第1話
気付いたら小指を嚙み切っていた。
歯の構造上、切るというよりは砕くという表現が近いかもしれないが、ともかく捻りを加えて千切られた小指は持ち主と分離して僕の口の中にある。
奥歯で爪の先をかみ砕いて勢いで肉片を呑み込んでしまってから後悔する。
小指の付け根だった部分から引っ張ってみると、先端がぐちゃぐちゃになっていたが第二関節までの骨を取り出すことができた。筋繊維と黄みがかった脂肪が少しついている。
「あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝」
髪を派手に染めた若者が右小指があった箇所を抑えて蹲っている。左手で抑えていても心拍に合わせて血が噴き出す様が分かる。
「らいひょうぶれふか?」
大丈夫ですか?と訊こうとしたのだが、指を口に含んだままだったのでふざけているみたいになってしまった。
若者は叫び続けているので多分聞こえていないのだろうが、こちらに敵意向き出しで睨んでくる。
でももとを正せばぶつかってきて絡んできたのも、こちらの襟首をつかんできたのも、へらへら笑っているのが気に食わないと殴ってきたのもこの若者が勝手にエスカレートして行ったことだ。
絡まれた僕は眼前で喚き散らすヤンキー崩れのような若者の顔よりも襟首をつかむ手の小指が不自然に立っていることが気になってしまった。ピンとそそり立つような小指。気づいたらがぶっとやっていた。反動がついていたためか意外と簡単にちぎれてしまった。
夜の繁華街の人通りはそれなりに多い。絡まれている時は知らない振りをしていた通行人が今は立ち止まって輪を作り、奇異の目でこちらを見ている。記念に撮影しておきたいのかこちらにスマホを構えてくる人もいた。カメラを向けられていつもの癖で笑顔を作るとギャラリーから悲鳴が上がった。ああ、血まみれだから凄惨に見えたかもしれないなと反省していたら、真っ当に通報した人がいたようですぐに警察がやってくる。僕は小指を若者に返して、大人しく警察に連行された。
+++
2日間の取り調べの末、僕は釈放された。
正当防衛は認められなかったが、若者のほうが
あんな怪我をして訴えないなんて何か後ろ暗いことがあるのだろうか。ならば、そんな事情を抱えながら人に絡まなければいけないほど何かに憤っていたのだろうか。
それなら可哀想なことをしたなあと思いながら帰宅すると、玄関で待っていた母親に平手打ちされた。
「あんた、人様に迷惑かけて、ましてや一生ものの怪我を負わせるなんて!!」
母が今までに見たことのない形相で怒鳴りつける。傘立てを巻き込んで倒れた僕は母を見上げるような形でその説教を聞く。次第に言葉が尽きた母親が肩で息をする。
父親はその様子を黙ってみており、ただ一言「もう二度とするな」と言った。
僕は二人に謝った。
リビングへ行くと「パパ~!」と喜びの声とこちらにやってくる足音が同時に聞こえる。
来るという予感に備えて腰を低くした僕に向かってユメが飛びかかってくる。
「パパ~、おかえり~!」
「ただいま、っと」
僕はその体当たり的なハグを正面から受け止めてそのまま抱きすくめる。
思っていた以上に衝撃があり、もう5歳になるのかと成長の早さを実感する。
「どこに行ってたの?」
「んー、ユメが一生行くことのない場所かなあ」
留置所に居たとは言えないので、言葉を濁す。
ユメは「いっしょう……?」と首を捻ってから、
「もしかしてデズニーランドに泊まってた!?」
「そこまでワクワクできるところじゃないかな」
「じゃあ道路?」
「ワクワクは減ってるけども」
もうちょっと人権に配慮したところかな。
というかディズニーランドはユメの中では一生行けないという分類なのだろうか。それはちょっとあんまりだ。
「ユメ、今度ディズニーランド行こうか」と訊くと、「いいの!?」と驚きと喜びが入り混じった顔で聞き返してくる。
もちろんいいともさ。その可愛い表情が見れるならばどこへでも連れて行ってあげたい。
「まーたユメを甘やかしてる」
リビングでやり取りを見守っていたアカリが呆れ混じりに声をかけてくる。
少しやつれていて、この数日間とても心配してくれたのだと分かる。
「おかえりなさい」
それでも普段通りを装って話しかけてくれることに優しさを感じた。
ユメを抱っこしたまま、僕はアカリを見上げて言う。
「ごめん、心配かけて」
僕が謝ると、胸元に顔をうずめていたユメが不思議そうに首をかしげる。なんでもないよという風にユメの頭を撫でる。
「それよりも先に言うことがあるでしょ」
「え、ごめんって……」
「それは聞いたって」
くすくすと笑うアカリの声。
ああ、そういうことか。
「ただいま、アカリ」
アカリが笑って頷いてくれる。
ソファーで新聞を読み始めていた父親がなぜかげふんごふんと咳払いをした。
その後、家族揃って晩御飯を食べて、ユメをお風呂に入れた。
髪を洗う時にシャンプーを使ってとげとげした髪型にしてやるとユメはきゃっきゃと笑って大層はしゃいだ。
ユメを寝付かせた後で、ベランダで涼んでいるとアカリが隣に座った。
終わりかけの夏がぬるさの残る風を運んでくる。
どこかで夜更かしな蝉が次の季節に抵抗するかのように鳴いていた。
「……心配かけてごめん」
僕が改めて謝ると、アカリは「それはいいって……いやよくないんだけどさ」と困った顔をした。
「びっくりしたし、心配したし、相手方への申し訳なさもあるし、そもそも小指食べたってなに?って思った」
「つい、条件反射的に……」
「つい条件反射的にやることでもないでしょう」
怒られてしまった。返す言葉もない。
何を言っていいのか分からくなったのか、アカリが僕の肩に頭を預ける。
僕はそのまま頭を撫でる。指で滑らせる髪の感触が安らぎのような感情を与えてくれる。
いつも通りことではあるけれど、だからこそここに帰ってこれてよかったと思う。
アカリの隣に居続けることが出来てよかった。
ふと、これが愛おしいという感情なのだろうかということを考える。
愛というと大げさだけど、隣に居続けたいと思うこの感情はきっとそう呼んでも差し支えない。
この心地に浸っていたいと思えること、それが幸福というものではないかと思う。
そうか、僕は幸せなのか。
母がいて、父がいて、ユメがいて、アカリがいる。
この現状が幸せなのだ。
ならば僕はこの幸せが続くようにしたいなと思う。
いつまでも幸せが続くことが僕の望みだ。
僕はアカリにもう一度「ただいま」と言った。
+++
夢を見た。
日の届かないコンクリート張りの地下室。
暗くてじめじめして寒くて熱い。
なによりとても生臭く息苦しい。血と、精液の匂い。
息苦しさの原因は口に物が詰まっているからに他ならない。
溺れそうなほど液体が溢れるそれを僕は知っている。
口に含んだ先端を奥歯で嚙み砕く。ぐちゅっと音がして、肉片となる。
収まりきれず、口からはみ出した一部は露出している。
今まさに体内に取り込まれるそれは、肥大化した陰茎だった。
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