外伝:騎士の本心(大矢先生視点)
ひたすらサンドバッグを殴り続ける。
「はいラスト10秒」
何もかも忘れたい、呼吸すらも忘れたい、ただひたすらに体を酷使したい。
「3,2,1、終了!……だから終了っつってんだろゴルァ!!」
ゴンっと鈍い音と共に、後頭部から星が見えるような衝撃が来た。
「いっでぇ!!おい亮、仮にも指導者の立場の人間が、裸の拳で頭を殴んな!!」
「無料で遊んでる奴が文句を言うなや!そんなに指導して欲しいなら金払え!!」
俺と言い合っているこのクソ野郎は、
「てかよおケイ。危ねえから、考え事しながらトレーニングすんな」
亮は、出会った頃のあだ名で俺を呼んだ。
「してねえよ!」
「してるだろ」
むきになった俺の正面に立って、小柄な亮は胸を張るようにして俺を見上げた。
「地に足がついとらんわ、拳が芯を捉えてないわ、呼吸のタイミングがぐちゃぐちゃだわ、もうボロボロすぎんだよ。集中できてないんだろ、一旦頭を冷やせや」
乱暴な言葉ながら、亮の言っていることは実に正しかった。
「分かった。わりぃ、ちょっと出直してくる」
ところが、俺がロッカールームの方に進もうとすると、亮は先回りをして立ちはだかった。
「おう、んだよ」
「水臭ぇなてめえ。悩んでるなら親友の俺に言えよ」
「言わねえよ。仕事の事だから、一応は守秘義務あるし」
「今更だろ。悩みって言うのは、誰かに話さなきゃ整理できねえぞ。今までもそうだったろ」
俺はグローブのまま頬を掻いた。確かにそうかもしれない。こいつに話さなかった直近の悩みは、整理できないまま最悪の結果で終わってしまった。
あの時も、亮にはさんざん怒られたな。もっと早く言ってくれれば、いくらでもアドバイスはできたのにって。
「それじゃ、黙っていてくれるか。かなりヘビーな問題だけど」
「ライトな話なら悩まないだろ。着替えたら事務所に来い」
「おう」
俺は軽く頭を下げ、ロッカールームに向かいながらグローブを脱いだ。――亮って、ますます教育者らしくなっていくな。俺なんてとっくに追い越していそうだ。
事務所のドアを開けると、そこには清潔な風が吹いていた。
白を基調としたシンプルモダンな空間。家具は白木で統一され、あちこちにフェイクグリーンなんかも飾ってあり、ボクシングジムの事務所というよりモデルルームだ。亮の好みを突き詰めた部屋である。
亮は、入ってすぐのシステムデスクの前に、鮮やかなオレンジの椅子を置いて腰かけていた。
「遅かったな。エアコンで冷えるから、これでも羽織ってろ」
ぽいっと投げつけられたものを、慌てて掴む。茶色いブランケットだ。
「おお、ありがとう」
「で?何があったって?」
俺が小洒落た感じの丸椅子に腰かけると、冷えた麦茶のグラスが差し出される。俺がそれを手に取ると、珪藻土の丸いコースターがコトンと置かれる。
俺は程よい濃さに入れられた麦茶を半分飲み、いつも思う事をつくづくと呟いた。
「やっぱ、お前が嫁なら最高だったわ」
「やめろやキショイ」
亮の本気で嫌そうな顔に、俺は久々に笑った。
「で。何を悩んでるんだ」
亮の問いかけに、俺の表情が固まった。
「――生徒に逃げられた。絶対、逃げられちゃいけいない奴に」
「どういう生徒だよ」
「亮は覚えてるか、渡辺輝人って生徒」
「そりゃな。俺もお前と探しに行ったし、あの惨状は忘れようがねえわな」
輝人の行方が分からなくなったのは、台風の翌日の夜だった。その翌日に知らせを受け、俺は亮にも助力を頼んで、最後の目撃情報のあった土手の向こうの河原へ向かった。
しかし、普段枯れているはずの川は濁流と化していた。大きな岩や根こそぎ倒れた大木が、下流であるはずのそこに流れ着いて堆積していた。
俺も含め、全員が絶望的な気分に陥った。おそらく生きていないだろう、そう思わせる光景だった。
「その妹が、今年入学してきた」
「ああ、それが『逃げられちゃいけない相手』ってか」
「正直、入って来た直後から異様だった」
俺は、入学式で見た双葉を思い出していた。女子にしては短すぎる刈り上げの頭、周囲を睨み上げるような鋭い目、張り詰めたまま解けぬ緊張。
「12歳にして、もう戦う人間の空気をまとっていた。輝人は気弱さが目立ったけれど、妹の双葉には強いが故の危うさを感じた。――誰も近づけようとしなかったんだ」
「あの父親の子らしいな」
俺はイラっとしたが、亮がそう思うのは無理もない。
輝人捜索の時、亮もあの親父に会っている。あいつはボランティアの捜索隊に落ち着きのない指示を繰り返し、挙句に見つからない理由を『頭の悪い田舎者のせい』だと喚いたのだ。それをきっかけに協力者は一気に去った。その背中にも『無責任』だの『人でなし』だのと、罵詈雑言を浴びせた。
「双葉はあのクソ親父とは似てねえよ。あの家を守るために、仕方なくそうなっただけだ。あのクソ親父が息子を殺したって噂が出て、心無い人間が脅迫文を送ったり、壁に落書きに来たり、新興宗教に狙われたりしていたらしい。それを、双葉は一人で追い返してたんだ」
「両親は?何してたんだ」
「小学校からの報告書によると、母親は精神を病んじまったらしい。弟も暴れると言っていた。だから、自分がなんとかしないとって、本人がさ」
亮は黙ってうな垂れ、肘をついた右手で額を支えた。
「――子供一人には、地獄だな」
「でもな。俺や数人の生徒には、心を開くようになってきたんだ。何度かヤバい事件はあったけど、なんとか乗り越えてくれた。強いというか、しなやかな奴だ」
双葉自身の力なのか。少し増えた友人の支えなのか。登校日に現れた双葉は今までになく朗らかで、仕草にも柔らかさがあった。髪を整えたのは気づいていたが、それだけでは説明がつかない印象の差があった。
だけど。
「だけど。突然逃げられた。俺が……気になった事を指摘したら、人が変わったように怯えて、逃げた」
そこまで言って、俺は残っていた麦茶を全て飲み干した。
途中から顔を上げていた亮が、少し緊張しながら尋ねる。
「何、指摘したんだよ」
「額の、傷。思いっきり、でかい」
「――まさか親父か」
「ああ。だけど、それよりも怖かったのが」
無垢な少女の口から出るはずがない、身の毛もよだつ言葉を思い出す。
「『殺してもらうつもりで、父親に斬らせた』って、言ったんだよ。――それ、さらっと流すように言うことか?笑いながら言える言葉か?」
輝人はまだ良かったと思う。あいつは、死への憧れを隠さなかった。助けて欲しいというサインを出していた。それでも守れなかった俺はバカだが、まだ分かりやすかった。
「双葉は、誰にも助けてもらうって気がないんだ。額の傷だって、縫って多少目立たないとはいえ、何にも感じていないんだ。強いとかしなやかとか言ったけど、そうじゃなくて、そう、鈍いんだよ」
言葉にするほど怖くなる。この長い会えない間に、あいつはどんな傷を背負うんだ。まさか命が危うくなりはしないのか。
「俺をあてにしていないのは分かってんだ、だけど俺から逃げないで欲しい、せめて理由を教えて欲しい。もう、会えない時間が恐ろしいんだ。何も考えたくない」
俺は全てを語り終え、力が尽きてうな垂れた。
しばらく事務所には沈黙が流れ、亮が吐息交じりに言葉を発した。
「じゃあ、聞けばいいんじゃね」
顔を上げると、亮は背もたれに身を預け、何かを考えるように天井を見上げていた。
「逃げる逃げないってのは、本人の意思だから。そこはどうしようもないかも知れない。だけど、理由を聞くことはできるんじゃねえの」
亮は勢いをつけて、背もたれから身を起こした。
「ケイは必死になりすぎるところがあるけど、それがケイだから。そのまま、考え付くことを全部やれよ。ただ、焦ったってしょうがねえからな。人が変わるには、時期ってもんがあるだろ」
「どんな時期だ」
「それは知るか」
少々乱暴に答えたあと、亮は俺のグラスに再び麦茶を注いでくれた。
「まあでも。鈍さってのは、親に反抗するようになったら次第に直るもんさ。俺だっててめえだって、高校の時そうだったろ」
「そう、だったかな」
俺は少しだけ高校時代を思い出そうとした。
だけどすぐに息苦しいもやが立ち込めて、耐えきれず記憶を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます