第31話 フラッシュバック

 さんざん騒いだ後、私と大矢先生はぐったりと階段に座り込んでいた。

「あー、おもしれえ」

 大矢先生は何を思い出しているのか、時折くっくっと忍び笑いをしている。私も手すり側の壁にもたれながら、腹のそこから出てくる楽しさを抑えきれない。


 ――なんか私、普通の女子になってんじゃん。


 周囲の女子が先生たちにじゃれるのを、ずっと遠巻きにして眺めていた。キラキラした笑い声をうるさいと思いながら、羨ましく思っていた。そんな私が今、女子と同じことをしている。相手が大矢先生で、ここに先生と私の二人しかいないからできることだろうけど。



「しかし、あっちいな。今日は」

 私と顔の高さを合わせるように座った大矢先生が、手で首辺りを仰いだ。その動きに合わせて、さっきのドキドキする香りが微かに漂う。

「先生って、香水つけてるんですか」

「いや。汗臭いから、ボディスプレーはかけてる。――匂うか?」

 気にして脇辺りを嗅ぐ大矢先生を眺めつつ、私は一人納得した。

「なるほど。フェロモン系の匂いがしたのか」

 自分で言うのもなんだけど、私はジャンルを問わずたくさんの本を読んでいる。なので、雑学知識だけは大量に頭に詰まっている。

「そのスプレーには、ムスクとか、イランイランとか、男性のフェロモンと似た成分が入ってると思います。近づいた女性が、みんなメロメロになっちゃうような」

 大真面目に答えたのに、大矢先生はまたクスクスと笑い出した。

「んなわけあるか」

「ありますから!動物だって昆虫だって、みんな異性を誘うためにフェロモンを発してるんですから!」

 ムキになった私を見て、大矢先生は急に面白そうに目を細めた。

「つまりお前が、俺の匂いに惚れそうになったと」

「んなわけない!」

 私は顔を真っ赤にしつつ否定した。

「私、女になる気はないんです!だから男には惚れない!」

 ぷいっと横を向いて壁を睨んでみせた。だけど妙に間が長くて、私は恐る恐る大矢先生の方を窺った。――なぜだ、悩んでいる。


「あのさ。女になりたくないってのは、そのー、どういう意味だ?」

「へ? いやあ、それは」 

 変なところを真剣に受け取られて、戸惑う。

「あ、いや。センシティブっつうか、言えない内容ならいいんだ。お前が実は女子が好きで、それで男になりたいっていうなら、俺もできるだけ力に……」

 大矢先生は、どうやら康人と同じ勘違いをしたようだ。私は人生二度目の質問に、げんなりしながら答えた。

「だって、女って嫌じゃないですか」

「どこがだよ」

「どこって、うーん、どう説明すればいいかな」

 私は自分の発言の意味を考えつつ、無意識に髪をかきあげた。どうやらこの考えは一般的じゃないみたいだ、康人みたいに猛反発されたらどうしよう。

「男って、いい学校行っていいところ就職したら、定年までバリバリ仕事できるじゃないですか。でも女は、どんなにいい高校やいい大学行ったって、結局すぐ結婚しなきゃいけないし、男に養ってもらうしかないし。結婚したら急いで適齢期までに子供を産まなきゃいけないし、あとは家の事と子育てをたった一人でこなしていかなきゃいけないし。歳を取ったら取ったで、今度は子供に面倒を見てもらわなきゃいけない……じゃないですか」


 大矢先生がやけに真剣な顔をしているから、私も必死で言葉を紡ぐ。伝わらないであろうことを、少しでも分かってくれると願いながら。


「でもそれって、男や自分の子供に甘えているんじゃなくて、自分が生きるための責任を奪われている気がするんです。責任を背負えないなら、自由だってない。……それに、私は医学部目指してるけど。よく考えたら女じゃ無理なんです。医学部を卒業したらもう出産の適齢期だから、医者にはなれない」


 わずかに大矢先生の眉が歪んだ。それを見た途端、私は自分が間違っていることを言っているような不安を覚えた。


「えっと。私は夢がないから、医学部に行くのは別にいいんですよ。だけど、行くからには医者になって、ずっと働きたいなって。自分の責任は自分で背負いたいなって。でも女には無理だから、大人になったら男になりたいな……て」


 気が付いたら、胸に抱えていたものを全部吐きだしていた。なんとか言葉にしようとして、余計なことまで言ってしまった気がする。

 

 自分の膝に頬杖をついて、黙って聞いていた大矢先生は、言葉を選ぶように慎重に答えた。

「女――ていうか、女性にだって社会に出て頑張ってる人はたくさんいる。今はそっちが主流だと思う。これからは、もっとそうなっていく」

「いや、……でも」

 母は違うし、その母を愛する父もきっと違う。世の中の主流がどうなろうとも、親とは必ず尊敬しなくてはいけない存在だ。ならば、その言葉には一つくらい絶対的な真理があるはずだ。

「この世に正しいも間違いもない。そうやって生きたいのなら、女のままでもそうやって生きていい」

「そう、なんですかね」

 私は、さっきよりも激しく何度も髪をかきあげた。頭の中がぐるぐるで整理できない。そうであってほしいのに、何かが信じるなと抵抗している。

「でも私、男の出来損ないで、更に女としても出来損ないで。せめて、ちゃんとしたお医者さんの手で、体だけでもちゃんとした男にしてほしい。ちゃんとした大人に、なりたい」

 全てを言い尽くして、私は頭にやっていた手を膝に落とした。前髪がはらはらと額に零れるのを感じつつ、自分の愚かであろう発言に暴れたくなる。


 私如きが頑張ったって、ちゃんとした人間になんてなれる訳がないんだ。

 誰か私に正解を教えてくれ。合格なんて曖昧なものじゃなく、満点の花丸を描いてくれ。そうじゃないと、親も世間も私を許さない。


 大矢先生は、しばらく黙っていた。それから長い手を伸ばして私の頭を軽く撫で、慰めるような様子を見せた、のだが。

「おい。その額、どうした」

「え。えええ?」

 次の瞬間、強引に顔を両手でつかまれて大矢先生の顔面に引き寄せられた。ちらりと見やると、鋭い視線が額に向けられている。

 ――あ。傷か。

「別にたいしたことないですよ。抜糸も終わったし」

「あるわ!」

 鼻先で怒鳴られて、びくっと肩をすくめる。大矢先生の顔が怖い。

「誰がやった」

 地を這うような低い声に怯え、私は必死で言い訳を連ねた。

「えっと、あの、弟と喧嘩して。結構うちの弟って、キレやすくって」

「嘘をつくな」

 あっさり見破られて、私は観念した。

「……父に。私が斬らせました」

「斬らせた?」

「殺してもらいたかったんです。だから、カッター持たせたけど。……額斬られちゃったっていう、オチです」

「おま……オチってレベルじゃないだろ!」

 大矢先生は私の両肩に手を滑らせて、震えていた。悔しいのか辛いのか分からない感じで歯を食いしばって、それでも少し涙がこぼれていた。ゴム床の階段に、水滴が音もなく落ちていく。

 所在なげに視線を彷徨わせていると、大矢先生がつけているデジタルの腕時計が見えた。もう11時を過ぎている、帰らなくちゃ。

「先生。私もう帰ります」

 私が立ち上がろうとするのを、大矢先生は肩を思いっきり押し下げて止めた。

「ここにいろ」

「いや、母に昼前には帰るって――」

「お前の為に、冷蔵庫にジュース用意してんだよ、だからいろ!」



 ……この状況が、私のなんの記憶を呼び起こしたのか。

 唐突に脳裏を凄まじい形相の顔が支配し、息苦しい恐怖に襲われた。

 怖い、怖い、お願いやめて!



 私は無意識のうちに、大矢先生を突き飛ばしていた。

「なっ!――おい!」

 その反動で、自分が階段から転げ落ちた。

「大丈夫か!」

「――」

 大丈夫じゃなかった。足首を軽くひねっていた。だけど私は勢いよく立ち上がって、無表情を装った。痛みを悟られちゃいけない、変に気づかれて触れられたら、さっきの恐怖が戻って来る。

「お先に失礼します」

「おい待て、怪我は――」

 近づいてくる大矢先生の手に、私の体が総毛立った。

「もう急ぐんで!ごめんなさい!」

 私は睨みつけて相手を制し、階段下に置いていた鞄を取り上げた。足を引きずらないように奥歯を噛みしめ、できるだけ早足で立ち去る。じわじわ胃に痛みが広がって、息をするのも慎重になる。


 新校舎に戻っても、大矢先生が追ってくる気配はなかった。私は大きく息を吐き、さっき見た記憶を改めて思い出した。


 唐突に吐きそうになり、慌てて口を押えてうずくまった。

 あれは、兄だった。あの怖い顔は、兄だった。

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