第30話 『女の子』
私は借りていた本を返し、代わりに『人間失格』を借りることにした。大矢先生が一瞬微妙な顔をしたけれど、後は何も言わなかった。
それから1時間待ったけれど、図書室には私以外の客は来なかった。だから特に片づけることもなく、先輩と一緒に窓を閉めて図書業務を終了した。
「先生、お願いします」
「おう」
先輩から鍵を受け取った先生は、ふと思いついたように私を振り返った。
「双葉。お前ちょっと残れ」
「は?」
「話、しよう」
私が怪訝な顔をする横で、先輩はぺこりと頭を下げた。
「それじゃ、お先に失礼します」
そのまま去っていく先輩に、私は慌てて「お疲れ様でした」と声をかけた。
「さて、と」
大矢先生は思いっきり伸びをしてから、私に目線を合わせてニンマリと笑った。
「俺の城に行こうぜ、いいもん仕入れたんだ」
「あそこは、大矢先生だけの城じゃないですよ?」
私が困った顔をすると、大矢先生はぶんぶんと首を振った。
「今日は佐野は来ない。来るなって言っといた」
なんだろう。子供っぽい表情がなぜか胸にきて、どうにも拒否できない。
「分かりました。行きます、行きますよ」
「よし、決まり!」
得意げな大矢先生を見て、私は自分の弱さにため息をついた。
大矢先生に続いて階段を下りながら、私はふと気になることを思い出した。
「先生」
「なんだ」
「何で私には、『人間失格』はまだ早いんですか?」
大矢先生は言葉に詰まり、何かを考えるように短い髪をかきむしった。
「まあ、あれだ。乱暴なシーンがあるから、かな。強姦とか、そういう」
その言葉は、どこか信用できなかった。もっと違う何かを気にしている、そんな予感がした。
「乱暴なシーンなら、江戸川乱歩で慣れてますよ?」
「いや、そういうんじゃなくて」
何かを言い返そうと振り返った大矢先生は、急に口をつぐんでこっちをじーっと見つめた。
「なんですか?」
「いやお前、なんか雰囲気変わったような」
「へえ、どんなところがですか」
私は笑いたいのを我慢して、澄ました顔を作った。だけど大矢先生は少し首を捻り、正面に向き直った。
「分かんねえ。気のせいかな」
私は肩を落としつつ、新畑のおばちゃんが昔愚痴っていたのを思い出した。世の男というものは、たとえ惚れて結ばれた妻が相手だとしても、髪型の変化にも気づきゃしないのだ、と。
じゃあ私は、なんのために髪を切ったのだ。女の為か。ああ、女の為だな、東先生という。
そうむくれて一階まで降りて来た時、視線の端に白い影が見えた。なんと廊下の向こうの方で、東先生が頬杖をついて外を見ている。
瞬間的に警戒した私だが、この時河野さんの言葉が脳裏によみがえった。
『東はさ、大矢に惚れてんの』
髪を切って頭が軽くなったせいか。私は唐突に思いついたいたずらにほくそ笑んだ。
「大矢先生、ちょっと待ってて」
私は返事を待たずに駆け出して、渡り廊下を一気に走って旧校舎に駆け込んだ。追いかけそうになった大矢先生に右手で『待て』と制止して、ちょうど影になる入り口すぐの壁の裏に隠れる。私からは東先生が見えるが、あちらからは見えない位置だ。
「おい、何だよ!」
大矢先生が不思議そうな顔で呼ぶのが聞こえる。それを無視して東先生の方に目を走らせると、大矢先生に熱い視線を送っていた。
――うわ、マジだった!
私は情報が事実であると確信し、手だけを出して大矢先生を『おいで』と手招きした。
「お前、何してんだ――」
「大矢先生!」
窓から身を乗り出した東先生が叫ぶ。
「あの!少しの時間でもかまいません!どうか私の話を聞いてくれませんか!お願いします!」
目まで出して渡り廊下を覗くと、大矢先生の顔から隙が消えたのを感じた。
「すみません、忙しいので」
そのまま長い足で跳ねるように走り去る。東先生はそれを目で追いながら、悲壮な表情へと変わっていく。
ちょっとかわいそうだなあと思って眺めていると、ふわっといい匂いが鼻先をくすぐった。爽やかで、どこかほろ苦いような――。
「うぎゃ!?」
「おーまーえーはー」
私は、大矢先生から思いっきりヘッドロックをくらっていた。
「先生っ、離して、お願い」
慌てて離れようと、手足をばたばたさせて暴れるがびくともしない。この人、見かけによらず腕力が凄すぎる。
「だったら、変なイタズラ、すんじゃねえっ」
ますますぎゅうっと絞められて、私はもう必死に叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、お願いだからマジで離れてー!!」
ヘッドロックが苦しい訳じゃない。
大矢先生から漂う匂いが苦し過ぎた。
胸が熱くなって溶けるような、頭がくらくらするような、そんな不思議な香りに私は狂いそうになっていたのだ。
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