第29話 久々の図書室

 勇んで向かったはいいものの、図書室に入るにはずいぶんと勇気がいった。

 夏休みに入るまで、半月以上もサボっていたのだ。当番の日も無視していたし、図書委員のみんなも怒っているかもしれない。

 三階と四階の間の踊り場で、三角バケツを蹴りながら悩む。他のクラスの号令が聞こえ、四階から降りてきた三年生が悩む私を奇異の目で見ながらすれ違う。


 ――駄目だ。本は絶対に返さなきゃ。


 私は大きく深呼吸し、覚悟を決めて進んだ。図書室の靴箱には、女子の下履きと大矢先生のスリッパが入っている。

 勇気を出して、入り口の戸を開けた。

「失礼します――お久しぶり、です」

 深く頭を下げて、上目遣いでカウンターを見る。すると二年生女子の先輩が、驚いた顔で両手を口に当てて立ち上がった後、こっちに飛び出して来た。

「渡辺さん!やっと来たあ!」

 正面から抱き着かれ、更には何度か揺さぶられる。

「あ、あの、ええと」

 私は目を白黒させた。待って、これってどういう状況なんだろう。

「みんな心配してたんだよ、渡辺さんが図書室に来ないなんて、絶対にあり得ないもん」

「……すみません」

 もう一度頭を下げると、先輩は強く首を振った。

「いいのいいの。あ、でも次の登校日、渡辺さんが一人で当番なんだけど。大丈夫?来られる?」

「はい。問題ないです」

 先輩は、ぱあっと明るい笑顔になった。

「良かった!あ、無理になっても、大矢先生がいるから気にしないでね。今日は人もいないから、ゆっくりしていって」

 私は、ちょっとこそばゆい気持ちで頷いた。――本当に心配してくれてたんだな。私なんかのために。



 久しぶりの図書室は、何も変わっていないようで、少しだけ空気の違いを感じた。まだ湿っぽかった梅雨明けの空気が、さらりとした夏の風に変わったからだろうか。

 私は全ての本棚をじっくり眺めながら、最後に『日本文学』と書かれた棚に行きついた。私が一番読むジャンルだ。

 作者のあいうえお順に並んだ棚の中ほどで、私は足を止めた。

 ――あ、これ。

 太宰治、『人間失格』。大矢先生が話していた、兄の愛読書。

 惹かれるように手を伸ばしたその時、後ろから低い声が耳元で囁いた。

「お前には早いって言っただろ」

 途端、背筋をゾクゾクしたものが走った。私は反射的に飛びずさり、本棚を背にびたっと張り付ける恰好で振り向いた。

「おっまえ、おもしれぇ」

 そこにいたのは、肩を揺らして大笑いする、白衣を着ていない大矢先生だった。

「脅かさないで下さいよっ」

 声を殺して抗議すると、大矢先生は腹を抱えて絨毯の床に転がり、さらに笑った。

「こういう時でも図書室では小声なんだな、お前」

 悔しくて、何か言い返そうとした。だけど言葉が出てこなくて、私は奥歯をぎりぎりと噛みしめた。

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