第25話 『女』

 私の通う中学校には、夏休み中に登校日が2日ある。

 そのうちの1日が迫っているというのに、私は父に髪を切って貰えないでいた。飲み会やら釣りやらと理由をつけて、家に帰って来ないのだ。


 そしてもう明日が登校日という朝。私は母と康人と三人で、朝ご飯を食べていた。母は泣きはらした目でぼんやりとトーストをかじり、康人はリモコンでテレビのチャンネルを変えながら牛乳を飲んでいる。

 私はこっそりと、前髪を手櫛で降ろしてみた。もう目をすっぽり覆ってしまう長さだ、完全に校則違反だ。


 どうしよう、やっぱり父が帰ってくるのを信じて待とうか。それとも、また自分で切ってみようか。だけど、本音を言うとどっちも嫌だ。父のカットは河野さんにも良くないと言われたし、自分でカットしても東先生には怒られた。――東先生が明日学校に来るかは分からないけど、自分でもあれはヘタクソだったし、今も上手に切れる自信はない。


 ――しょうがない、河野さんにもらったアレに賭けよう。


「お母さん」

 うろんな目を向けた母に、私は妙につっかえながら言った。

「美容室で、髪、切りたいんだけど」

「お父さんにお願いしなさい」

「だって、帰ってこないし」

「じゃあ自分で切りなさい」

「自分で切っても先生に怒られた」

「なら諦めなさいよ」

「諦めたら校則違反になるじゃん!」

 私は机を叩いて立ち上がり、不愉快な顔をした母を見下ろした。

「じゃあ、お母さんが切ってよ」

「嫌!」

 即答した母は、大げさなほど身を引いた。

「なんで私にそんなこと頼むのよ!失敗したら私のせいにされるなんて、絶対に嫌よ!自分かお父さんでやりなさいよ!」

「何それ。お父さんなら失敗を怒られてもいいっていうの」

「当然でしょ、お父さんは男だもの!」


 ――何を言っているんだ、この人。


「じゃあ私は。私は女だよ」

 母は嘘くさい大笑いをした。

「女のなりそこないは、男の扱いで充分よ。養ってくれる男もできないんだから、男らしくするしかないでしょうが」

 母の目は、いつも私をバカにする時と同じで大きく見開かれている。だけど私は全然違う方向で、母に対して怒りを覚えた。

「へえ。お母さんは、お父さんや康人を自分より下だと思っているのか」

「はっ!?そんなこと言ってないでしょっ」

「男は女より下だって、今その口で言っただろうが」

 怒りが勝って、自分の口調が変わっていく。人を見下すなんて許せない、こいつが私の母親だろうが許せない!

「何言ってんの。あんたってば極論ばっかり」

 母は本当に、自分の言った言葉の意味が分からないようだった。私をからかうような一瞥をして、お上品ぶってコーヒーを飲んでいる。

 私が言っているのは極論じゃない、単純な言い換えだ。大人のくせに、考えなしでものを言いやがって!

「この外道が――」

「姉貴」

 テレビを見ていたはずの康人が、唐突に私を呼んだ。

「俺の小遣い使って。二千円くらいあるから」

 母が大慌てで怒鳴った。

「やめなさい!」

 康人はいやに落ち着いた様子で、空中の一点を見つめた。

「俺さ。姉貴が怒鳴られてるの見ると、暴れたくなるんだ」

 途端に、母の動きが止まった。

「正直、今も辛いんだよね。だから、お金あげるから行ってきて」

「ごめんっ――」

 私が謝ろうとすると、母がバタバタ走って買い物バッグを持ってきて、中から財布を取り出した。

「康人?弟がお姉ちゃんに金を出しちゃいけないのよ?――双葉。康人を連れてさっさと出なさい。康人を落ち着かせてから戻ってくるのよ、暴れたら迷惑になるから絶対に目を離すんじゃないわよっ」


 母は、言葉の後半を私の耳元で囁いて、私に千円札をたくさん握らせた。私はそこから2枚だけ取って、残りは「いらない」と返した。

「じゃあ康人、まだ早いけど出ようか」

「姉貴。ガーゼ忘れてる」

「いや、いらないって」

 抜糸だってもう済んでいる。父があまりにも家にいないので、また新畑のおばちゃんに病院に連れて行ってもらった。

「跡が残ると困るよ。姉貴は絶対に女なんだから」

 私はちらっと母を見た。母は康人の発言に気を留める様子もなく、むしろ無視するかのようにテレビのニュースに見入っていた。

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