第26話 『ペット』

 私はお金と割引券をジーパンのポケットに突っ込んで、額に大きなガーゼを貼り付けた。

「行ってきます」

 私が声をかけたところで、母の返事はない。いつものことだと諦めつつ、康人の背中を押すようにして外に出た。


「ちょっと早すぎかなあ」

 ジューン美容室の開店は9時。家を出たのが8時20分で、美容室と向かい合う中学校までは歩いて20分弱。康人の歩幅に合わせて歩けば、多少はゆっくりになるだろうか。

「朝だから、まだあんまり暑くないね」

 田んぼの稲は青々と成長し、まるで草原の中にいるようだ。少しぬるい風が吹くたびに、細やかな音が心地よく耳に届く。

「姉貴」

 ずっと黙っていた康人が、ぽつりとつぶやいた。

「俺、嘘ついた」

「何が」

「暴れたくなる理由、姉貴のせいだって嘘ついた」

 私は先ほどの康人の発言を思い出した。

「そんなこと、気にしてないよ」

「ごめん」

 しょげてうつむいた康人のつむじを見て、私はあったかい気持ちになった。

「いいよ。助けてくれたんだろ?ありがと」

 ぽんぽんと撫でてやると、康人の耳が少しだけ赤くなった。

「でもさ。聞いて欲しいんだけど」

「何?」

「暴れたくなるっていうか、暴れちゃう時はあるよね。俺」

 私は撫でる手を止めた。

「まあ、ね」

 まさか康人は、暴れた時のことを覚えていたというのか。

「俺ってさ。人間扱いされてないと思うんだ」

「そう……かな?」

 真剣な様子に戸惑いながら、私は相槌を打つ。

「親父もお母さんもさ。姉貴にはあり得ないくらい怒るくせに、俺にはニコニコして『お前はしなくていいんだぞ』っていうんだ。俺のテストが悪くても、成績が悪くても、ニコニコして『かわいい数字取って来たわね』って、赤ん坊に話しかけるみたいな声して撫でるんだ」

 私は黙って聞いていた。言葉だけなら、私より数倍も可愛がられているように聞こえる。だけど康人の声は暗い。

「俺はペットなんだ。人の言葉も分からないペットだから、誰かの悪口だって俺相手に吐きだせる。姉貴をいじめる道具にもされる。嫌だって言っても同じだ、ヘラヘラ笑ってもっと酷いことを言ってくるんだ。そしたらもう暴れるしかないじゃん、何も覚えていられないくらい、ブチ切れるしかないじゃん」

 私は、康人が暴れた状況を思い出していた。細かいところまでは覚えていない。だけどいつも、両親の醜い笑顔ばかりがそこにあった。

「――人間扱いされてないのは、康人だけじゃないよ」

 私がそう答えると、康人は小さく頷いた。

 泣けたら幸せなのにと思う。だけど辛さが日常となった私達の目は、簡単に濡れようとしなかった。



 ジューン美容室は、まだ開いていなかった。

 私達はお店が良く見えるように、中学校の正門前でしばらく待つことにした。

 学校の中からは、運動部の掛け声と、ブラスバンド部の楽器の音が聞こえてくる。夏休み中も練習はあるらしい。

「姉貴は部活しないの」

「無理。部活終わって帰ったら6時半じゃん。今の5時半っていう門限だって、必死で頭下げたんだよ。これ以上贅沢を言う気はないよ」

 あの時は本当に大変だった。母が私がいないと死ぬと喚き、父は母親を見殺しにする気かと私の腕や腹を殴り。――何に満足したのか、翌日許してくれたけど。

「あんなクソババア、ほっといたって死なないよ」

「それは思うけど」

 思うけれど操られてしまう。それが子供の宿命なのだろう。

「じゃあ、部活やるなら何がやりたい?」

「考えたこともない」

「じゃあ考えてよ」

「ええ?うーん」

 以前、河野さんにブラスバンド部には誘われた。だけど私に楽器が弾けるとは思えない。運動神経もいい方ではないから、運動部にも入りたくない。絵は好きだけれど絵心がないし、美術部の顧問は東先生だ。

「やっぱりない」

「姉貴ってつまんねえ」

「うるせ。お前は?」

 康人は上を向いて考え始めた。しかしその顔は次第に険しくなっていき、最後に派手にため息をついた。

「どれ選んでも、親父に笑われそう」

「康人は大丈夫だよ、ペットだから」

「ペットだって、自分で選んだことは笑われるんだよ」

 康人はうんざりした顔で門にもたれた。どうやら私の知らないところで、父は康人をもからかっているらしい。――本当、ろくでもない。


 と、康人が何かに気づいたように顔を上げた。

「姉貴。店開いた」

「え、ホント」

 確かに、ジューン美容室の入り口に【OPEN】の看板が下げられている。

 私はそちらに向かおうとして、急に自分の姿が気になった。髪ボサボサじゃないかな、服はこれでいいのかな、どっか失礼な恰好していないかな!

「姉貴、何してんの。行くよ!」

「待って康人、私どっか変じゃない? 見苦しいとか、お店にそぐわないとか!」

「変じゃない!姉貴はかわいい!」

「そんな嘘つかなくていいから!」

「嘘じゃない!ほら行くよ!」

 康人はおじけづいた私の腕を引き、強引に店の中へと進んでいった。

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