第四章・羽化の兆し

第23話 来訪者

 夏休みに入った。

 ――暑い。

 私は部屋に扇風機を持ち込んで、ひたすら風にあたっていた。私の部屋にはエアコンがないうえ、二階は熱がこもるので非常に暑い。そのうえ額のガーゼも暑苦しくて、更に不快感が増している。

 実は、隣の康人の部屋にはエアコンがある。が、非常に散らかっていて足の踏み場がない。結局、自分の部屋以外に居場所がないのだ。

 もちろん、一階のリビングにはエアコンがある。だけど母の顔を見たくないばっかりに、私は二階から降りたくないのだ。


 あの日の翌日、母は私を台所の隅に連れ込み囁いた。

「その恰好は見苦しいから、夏休みは絶対に外に出るんじゃないわよ」

 母は必死の形相だった。私を心配するそぶりの一つも見せず、前日の事を揉み消そうとした。

 私は、母がどういう人間かやっと理解した。この人は私などどうでもいいのだ。自分さえ良ければそれでいい人間なのだ。

 見方が変わった途端、母が不幸な母親を演じていることにも気づいてしまった。6年も前の事件を未だ泣き続ける人間に、こんな非常なことが思いつけるはずがないのだ。

 母の声に、顔つきに、耐えられない怒りを感じた。涙がウソ泣きだとも気付いてしまい、助けたいという気持ちもなくなった。


 父は私を避けていた。こちらは多少の罪悪感があったらしく、私と目を合わさないようになった。

 康人は変わらず友達の家に遊びに行っている。朝から行って夕方まで帰って来ない。友達のいる奴は羨ましい、私は大嫌いな母と一つ屋根の下から逃げられない。

 敷きっぱなしの布団に転がりながら、取り留めもなく考える。いっそ窓から飛び降りてやろうか。母の目の前でスプラッタになって、悲劇の仮面が剝げ落ちるのを見てやりたい。

 そんな妄想をしていると、外から少し幼い感じの声がした。

「こんにちはー。河野ですがー」

 私は慌てて飛び起きた。河野さん? なんで?

 母の駆け足が聞こえた後、耳障りな作り声が一階から届く。

「こんにちはぁ。ごめんなさいねぇ、よく聞こえなかったんだけど、どちらの娘さんかしら?」

「私、双葉ちゃんの親友です。双葉ちゃんいますか?」

「ごめんなさいね、あの子は今出かけてて――」

 私はわざと派手に襖を開けて、階段を駆け下りた。

「河野さん!」

 玄関には、長い髪をポニーテールにし、清楚な空色のワンピースを着た河野さんがいた。彼女の目の前に立つ母が、色あせて埃っぽく見える黒のTシャツ姿で私をこっそり睨む。


 ――おまえの恥など知るか。


 私が鼻であしらうと、母の顔が一気に険しくなった。

「双葉ちゃん!? 額、どうしたの!」

 目を剥く河野さんがおかしくて、私はちょっと笑った。

「たいしたことないよ。今日はどうしたの」

「あ、いや。勉強をね? 教えてもらおうと思って」

 かわいい口実だな。そのポシェットにはペンすら入らないじゃん。

「いいよ。上がんなよ」

 母が『やめろ』と目くばせをする。私はそれをしっかり見下ろしながら、河野さんに手招きをした。

 河野さんは母を気にしながらも、「お邪魔します」と言って家に上がった。




「散らかっててごめんね、片づけるから」

 私が布団を畳む間、河野さんは部屋をきょろきょろと見渡していた。

「全然散らかってないじゃん。すごくシンプルな部屋だね」

「物がないんだよ」

 実際、私の部屋には勉強道具しかない。押し入れは両親の物でぎゅうぎゅうだが、それが苦にならないほど何もない。

「隣は康人君の部屋?」

「そ。あっちは物だらけ」

 康人の部屋には、机が2つある。康人の学習机と、兄の学習机。

 兄の机にはシーツが掛けられ触れないようにしてあり、それ以外はプラモデルの破片だとか、工作のゴミだとかでいっぱいだ。

「で。本当のところは何しにきたの」

 私が学習机の椅子に座って尋ねると、河野さんは気まずそうな顔で机にもたれた。

「いや、もう答えは分かっちゃった気がするんだけど。――終業式の日の夜、何があったの?」

「なんで」

 警戒する私を見て、河野さんは気まずそうに首の後ろを掻いた。

「丸聞こえなんだよねぇ。だって私の部屋、あそこだし」

 指さされた方を見てぎょっとした。隣の家の庭を挟んだちょうど真向かいに、こちら側に窓がついた部屋がある。

「嘘! 河野さんちって、あんな近くなの!?」

「いやいや。あんた、何度も遊びに来てたよ? てる兄ちゃんがいなくなるまでだけど」

 私は強く頭を振った。覚えてない。何にも全く覚えてない!


「で? 実際何があったのよ」

「あー。お父さんがさ。シュッと」

 傷の上を指で斬るジェスチャーをすると、河野さんは震えるように首を振って言った。

「何それ。予想はしてたけど、マジ最っ低」

「もういいよ、終わったことだし」

 斬るように仕向けたのは、私だし。

「で、どうする? 一応勉強って名目だから、宿題教えてもいいけど」

 私は机の本棚から夏休みの宿題帳を取り出して、河野さんに差し出した。河野さんは受け取ってページをめくっていたが、みるみる顔を強張らせた。

「まさか双葉ちゃん、もう宿題終わってんの!?」

「へ?いやまあ、暇だし」

 勢いに押され、自分でも訳の分からない事を口籠っていると、河野さんがぱっと顔を輝かせた。

「よし、コピーしに行こ!」

「どこに?」

「コンビニ! ほら、双葉ちゃんも行くよ!」

「いやいや、恥ずかしいから!私、服ないし!」

 河野さんはキレイなワンピースだからいいけど、私は6年物のTシャツとジーパンだ。人様の前に出る恰好ではない。

 しかし河野さんは「いいからいいから」と私の腕を引っ張っていく。そのまま階段を下りていくと、母が下で待ち構えていた。


「河野さん、もうお帰り?」

「いえ、双葉ちゃんとコンビニ行ってきます!」

 途端に母は作り笑顔になり、私の方を目だけで睨んだ。

「双葉。止めておきなさい。額のそれも服も、見苦しいからね」

 ほらね、と河野さんを振り返ろうとすると、更に強く腕を引かれた。

「てる兄ちゃんの服だもん、全然見苦しくないですよ! 双葉ちゃん、ほら早く!」

「え、でも」

「ほらほら早くー!」

 河野さんは、母の追撃を追い払うように私を急き立てた。私は河野さんの強引さに負ける形でスニーカーを履き、二人して玄関の外に出た。

「河野さんっ、コンビニってどこにあんの?」

「はあ?」

 先に道路まで出ていた河野さんは、驚いた顔で道路をまっすぐ指さした。

「そこに見えてんじゃん」

「――あ、ホントだ」

 通学路とは反対の方向に、有名なコンビニチェーンの看板が立っている。……あんなの、いつ出来たんだ?

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