第22話 車中にて

 救急病院に連れていかれた私は、すぐに額を縫うことになった。

 色々説明されて、いろんな部屋に通されたけど、その辺はよく覚えていない。ただ、お医者さんに「誰に切られたの」と聞かれて、途端に息ができなくなったことは忘れられない。

「弟と、喧嘩して」

 本当のことを言ったら、父が逮捕されると思った。だから不味いと思いながらも、まだ子供の康人のせいにした。

 お医者さんは「そう」としか言わなかった。だけど嘘がばれたらどうしようという恐怖と、康人に罪を擦り付けた申し訳なさで、病院を出るまで顔を上げることができなかった。




 治療費は、おばちゃんが立て替えてくれた。私は額に大きなガーゼを貼られた格好で、再び康人と一緒におばちゃんの車に乗った。

「ガーゼ、しばらく剥がしちゃ駄目よ。傷跡が茶色く残るから」

 おばちゃんが、バックミラー越しに後部座席の私を見た。私は何を返すこともできず、視線を下に落とした。今になって疲れてきた。体が重くてくたくただ。

「今日は康人君のお手柄よね。『お姉ちゃんがボコボコにされてる』って、うちに駆け込んでくれたから」

「それは、とんだご迷惑を」

 私がくたっと頭を下げると、おばちゃんの眉がぴくりと動いた。

「迷惑じゃないから助けてんのよ。謝るんじゃなくてお礼を言いなさい、その出来の良い弟君にも」

「はあ。ありがとう、ございます。康人も」

 康人は得意げな顔で、「どーいたまして」とふざけた返事をした。

「――まあ、彰さんや美津子さんのことも、分からなくはないのよね。あの年代が育った時代には、ああいう大人がまだ多かったし」

 おばちゃんは私の両親の名前を上げ、一人語りを始めた。

「ずっと転勤族じゃ、友達なんてできなかったろうし。土地に染まることも難しいだろうし。特に彰さんなんて、技術学校の先生でしょ。誰かに教えることに慣れた人間が、誰かに相談なんてできないわよね」

 どうして父の職業を知っているのか不思議だったが、すぐ納得した。私の住む一軒家は社宅なのだ。父と同じ仕事の人間が、入れ代わり立ち代わりやってくる。だから父の職場も職業も、土地の人には丸わかりなのだ。

 康人が外を見ていた目を前に向けた。

「お父さんは、田舎だから余所者に冷たいって言ってたよ」

「そりゃ、あんなに壁を作られたら寄ってけないわよ。それは都会でも一緒」

 おばちゃんはウインカーを出し、ゆっくりと角を曲がる。

「私だって、元は東京者よ。だけどご近所さんと仲良くできてる。ここの人たちは暖かくて、東京の人より伸びやかよ。田舎だ都会だって色眼鏡で見る方が間違ってる」

 私は、おばちゃんの言葉に聞き入っていた。疲れ果てて何も反応できないけれど、父や母と違う考え方に驚いていた。

 康人が大人ぶった口調でたずねる。

「親父とお母さんが変なのって、やっぱり兄貴の失踪事件が原因なの?」

 おばちゃんは、派手なため息とともに答えた。

「違うわよ。輝人君も、双葉ちゃんと同じ目に合ってた。あの二人は、最初っからああいう人よ。自分の息子が消えたってのに、変わる気配もかけらもない。――輝人君が、あまりにもかわいそうよ」

 最後の言葉は、怒りが混じって地を這うように低かった。私は自分の双子のような兄を想像し、やるせない気分になった。




 おばちゃんは、自分の家の庭に車を止めた。

「治療費のこともあるから、一緒に行くわ」

 そう言って、私と康人の後ろから隣の我が家についてきた。

 玄関を開けると、すぐそこに母が怖い顔で立っていた。

「あんたたち、人目に付くから早く入りなさいっ」

「いや、でも」

 おばちゃんが、と言おうとしたとき、ガンっと鈍い音が扉の下から響いた。

「ったぁ! スニーカーでやるもんじゃないわねぇ」

 見ると、おばちゃんが扉の隙間に靴をねじ込んでいる。

「美津子さん、旦那もここに呼んできて」

 母は作り笑いを張り付けた。

「新畑さん、もう夜中ですから――」

「いいから呼んでこい!」

 母は慌てて一度引っ込み、気まずそうな笑顔を浮かべた父を連れてきた。

「ああ、新畑さん。今回はうちの娘がお世話に」

「お前が原因だろうが!」

 いきなり怒鳴りつけられて、父は神妙な顔を作った。

「あの、新畑さん。ご近所迷惑ですから、もっと小さな声で」

「そっちこそ、毎日毎日子供を怒鳴るな!」

 母も、父と同じような顔を張り付けた。

「で。警察と児相、どっちがいい」

 途端に父の表情が崩れた。

「いやいやいや、これはそんな大事では」

「そんな大事だよ!あんたは人を斬ったんだ!しかもかわいい女の子の顔に傷をつけて、何平気な顔してんだよ!」

「これはですね、その、躾の一環で」

「本気で殺人鬼って言われるよ!分かってんの!」

 父はおろおろしながら言い訳を探している。母は陰に隠れ、自分は関係ありませんと言わんばかりに黙っている。


 ――変わる気配も、かけらもないのか。


 私は振り返り、おばちゃんに向き直った。

「おばちゃん。もういいよ」

「いや双葉ちゃん!今日ばかりは言わせてもらう!」

「もういいんだよ!こいつら言っても変わらないから!」

 おばちゃんはやっと口を閉じた。ものすごく悲しい目で私を見て、悔しそうに口を震わせている。

「治療費だけ貰って帰って。今日は本当にありがとう」

 私は不安げな康人を抱えて二階に上がった。その後のことは知らないし、期待もしていない。

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