第21話 殺して下さい
帰り道がどんなお天気だったのか、私は何も覚えていない。
家についた私は、ポストを無視して黙って玄関を開け、通知表をダイニングテーブルに叩きつけた。そのまま重い足をひきずって、二階の自分の部屋に直行する。
「双葉、ただいまは! お昼食べないの!?」
階下から母の声が聞こえたが、何も答えたくなかった。
私は制服を脱ぎもせず、折りたたんだ敷布団の上でタオルケットを被りうずくまった。
『うわー、大矢先生が指導する事になったんですか? ご苦労様です』
『ぎゃあぎゃあ吠えてないで、先生の言う事をよく聞けよ? 狂犬ちゃん』
いつも文句を言ってくる東先生よりも、知らない人に傷つけられたことが辛かった。私が世間からそういう人間に見えているのだと、気づいてしまったことが辛かった。
――本当に犬に生まれたかった。人間やめたい。今すぐ消えたい。
泣けたら、きっと楽になれただろう。だけど私の目から涙は一滴も流れてはこず、いつの間にか伸びてしまった髪を乱暴にむしり続けていた。
玄関のドアが閉まる音がして、私は目を覚ました。いつの間にか寝てしまったらしい。
ぼうっとしたまま起き上がると、辺りはかなり暗くなっていた。少し散らかった床に転がった目覚まし時計は、7時過ぎを指している。
低い父の声が聞こえ、甲高い母の声も聞こえる。
『なんだこれは!』
父の大声に、私の胸が急に苦しくなった。きっと私の通知表を見たんだ、そして酷い数字に怒ってるんだ。
『おい双葉! 降りてこい!』
『あなた! さっき言ったでしょう、お昼から様子がおかしいって』
『こんな評価を書かれて親から逃げる奴など、渡辺家の風上にも置けるか!』
激しく重い足音が昇ってきて、勢いよく私の部屋のふすまが開けられる。
「双葉! 起きんか!」
父の野太い大声が部屋中に響き、勝手に電気を付けられた。くるまっていたタオルケットを無理やり剥がされて、私は眩しくて目を細める。
「おい。これはどういうことだ」
父が私の鼻先に通知表を突き出した。私はどこか別次元から現実を見ている気分で、小さく頭を下げた。
「実技が悪くて、すみませんでした」
「誰がそんなところを見ろと言った!」
父の渾身の平手が、私を右へとふっ飛ばす。私は学習机に頭を打ち付け、倒れたペンスタンドの中身が頭上からバラバラと落ちて来る。
「この『お言葉』は何なんだ!」
私は再び突き出された通知表の、右側のページを目で探った。そこに【担任からの感想】という欄があり、そこにボールペンで走り書きのようにこう書き綴られている。
『協調性に乏しく、反抗的な態度が目立ちます。こちらも手を尽くしておりますが、ご自宅でもしっかり話し合われる方がよろしいと思います。』
――東先生が、私に何をしてくれたっけ。
私は軽く鼻を鳴らした。途端にわき腹に蹴りが入った。
「笑っている場合かこのボケが」
痛い。苦しい。
「お前、テストだけで高校に合格できると思ってんのか。内申書に悪く書かれたらな、バカ高校でも落ちるんだよ!」
父は再び私を蹴り出した。私は体を丸めて自分を守ろうとするけれど、怒り狂った父の勢いは止まらない。
部屋の入口を見ると、母が両手を胸の前で組んで佇んでいた。目が合った途端、母は舞台女優のように叫んだ。
「双葉、お父さんに謝りなさい! もっと先生に気に入って貰えるよう、頑張りますって誓いさない!」
無茶を言うなよ。
私は世界に嫌われてんだ、生きているだけで怒らせるんだ。
どうしたら分かってくれるんだ、どうしたら諦めてくれるんだ。
もういいよ。好きにしろよ。このまま死ぬなら運命だよ。
思考が停止しそうになった時、一本の黄色いカッターが目に入った。――ああ、これがあればきっと死ねる。
私は必死で這いずり、腕を伸ばしてカッターを掴んだ。少し刃を出して追いかけて来る父に向って放り投げると、ちょうどよくズボンのすね辺りにぶつかって床に落ちた。
「お前が、お前らが」
父の手を振り払いながら、窓ガラスを背に立ち上がる。そして、勇気を振り絞って叫ぶ。
「お前らがそうやって追い詰めたから、お兄ちゃんは死んだんだ! お前は、本当に人殺しだ!」
「黙れやクソがああああ!」
父は鬼の形相を更に赤黒く変え、足元のカッターを掴んで私に迫った。
――バイバイ、生き地獄。
しかし。痛みは腹や胸には来なかった。額から熱いものが顔の横を伝って、床に滴り落ちる。
「おい、もう一度言ってみろやゴラア! 刻んだるわこのアマが!」
わめき散らす父に対し、私は一気に頭が冷えた。
「どこ狙ってんの」
「ああぁ!?」
「斬るのはここ」
私は自分の胸を親指で示しながら、我ながら平然と父の方に近づいた。父は途端にうろたえて後退りをしたが、私が腕を掴んで引き寄せた。
「殺して。お父さん」
私は、数年ぶりに父を『お父さん』と呼んだ。父は額に脂汗をかき、白い顔で固まっている。母の方に目をやると、こちらを見ないようにして震えている。
静寂を破ったのは、階段を駆け上がるけたたましい足音だった。
「双葉ちゃん、大丈夫――きゃあああああ!」
派手な悲鳴の主は、新畑のおばちゃんだった。
「おばちゃん、なんで」
「康人君、保険証用意して! あと奇麗なタオルも!」
「うんっ」
今までどこにいたのか、康人の短い返事が聞こえた。とたたたと軽快な足音が駆けていく。緊張が解けてぼんやりする私は、新畑のおばちゃんに両肩を掴まれ揺すられた。
「今から病院行くわよ。歩ける?」
私がおずおずと頷くと、母が這うようにして近づいてきた。
「新畑さん、申し訳ないですけど、これはうちの中の事ですので――」
「あんた邪魔!」
母を押しのけて、新畑のおばちゃんは私を支えるようにして階段に促した。
「おばちゃん、タオルと保険証ある!」
「よし! 康人君も一緒に病院行くよ!」
私はあれよあれよと言う間に連れ出され、おばちゃんの車で病院へと運ばれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます